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大賢者ニケの運命論

 大賢者ニケ。

 理の旅人。真理の友人。森羅を知り、万象を見通すもの。そんな二つ名が語り継がれる彼女は、まさしく生ける伝説だ。

 もう何十年も前から大賢者の名をほしいままにしていたニケは、あらゆる魔法の第一人者だ。基礎魔法理論をほとんど一人で構築し、喪失した古代魔法を次々と蘇らせ、今なお最先端の魔法理論を生み出し続けている。


 大賢者ニケとの接触は、これまでの人生でも度々あった。魔法の手ほどきを受けたことも一度や二度ではない。今回の人生では初めて会う彼女だが、俺にとっては師のようなものだ。

 しかし、気になるところが一つある。


「大賢者ニケは、妙齢の女性だと伺っていたのですが」

「あー。あの顔、有名になりすぎちゃったから。今日はお忍びだからね、この姿のほうが便利なの。かわいいっしょ? 親しみ湧く?」

「拍子抜けするくらいに」

「にひ。にけちゃんって呼んでよ」

「……ニケ先生で、ご容赦ください」

「しょーがないなぁ」


 この人、こういう人なのだ。

 自由にして自在。髪色を変えるような気軽さで、しれっと肉体をいじってみせる。今だってつま先で床を叩くだけで、音が外に漏れ出さない結界のようなものを張っていた。

 同じ魔法なら俺と柚子白も習得している。だけどニケの魔法は、なんていうか、違うのだ。とにかく彼女は、魔法の使い方のセンスがいい。まるで個人的な友人のように魔力に語りかけ、人の身にありながら精霊のように魔法を使う。


「最近さぁ、運命視の魔法にハマってんだよね」


 雑談でもするようなノリで、ニケはラフに話しはじめた。


「運命の女神のことは知ってるかな。ほら、あの、三女神の長女の」

「ええ、まあ。やみやみのことですね」

「いっけないんだー。様付けしないと、やみやみ教徒に怒られちゃうぞ」

「俺、めうめう教徒なんで」


 この世界は三柱の女神が治めている。運命の女神やみやみ、時の女神めうめう、命の女神もちもちの三柱だ。

 女神信仰はこの国で広く信じられていて、街ゆく人に話を聞けばまず間違いなく三女神のどれかの信徒だ。女神を信仰しない人間は、国外の人間か異常者だと断じてしまえるくらいに。

 ……まぁ。個人的には、女神なんてろくなやつじゃないと思っている。特に、時を司ってたりするやつは。


「運命の女神って言うだけあって、この世界の運命はやみやみ様が決めてるみたいなんだよね。運命論ってやつ? あれさ、どうも実在してたっぽいよ」

「そうですね。やみやみ教の教義では、そういう教えだと聞いています」

「いや、そういう宗教的な意味じゃなくって。魔法的なアプローチから運命の実在を確かめられたんだよね。運命って神域に存在するもんだから、軽く触れただけで焼かれそうになっちゃった。いやあ、まいったまいった」


 あ、これオフレコね、なんてことを何の気なしに付け加えてくる。俺は防音の魔法がちゃんと機能していることをそれとなく確かめた。

 神域に干渉するなんて、なんてことやってんだこの人。もしここに敬虔な信者がいたら、怒られるくらいじゃ済まないぞ。


「で、存在するってわかったなら、見てみたいって思うのが人の性じゃん。いやー、にけちゃんも人の子だからさぁ。やっぱりどうしても気になっちゃうのよ、運命ってやつ」

「それで、運命視の魔法を作った?」

「そ。時間はかかったけど、一応見えるようにはなったよん。まだまだ課題だらけだけどね」


 楽しそうに話していたニケは、そこで表情をすっと落とした。


「わかったことは二つ」


 雰囲気が変わる。フレンドリーな少女から、叡智を感じさせる賢者のものに。


「運命は、観測した時点で変動する」


 ニケは指を一本立てた。


「これについては女神が一枚上手だったとしか言えないね。いかに運命を観測しようと、観測した時点で変動するんじゃ意味がない。せっかく編み出した運命視の魔法も、失敗作になっちゃった」


 興味のない話ではなかった。

 ニケは運命視の魔法を使って運命を観測したが、俺はループという手段を使って未来に起きることを知った。それによって運命が変動したのなら、人生をやり直すたびに出来事が変わることにも説明がつく。


「それでも、運命の変動に規則性はあるんだよ。指向性と言うべきかな。たとえば鍛冶屋の息子の運命を十度観測したら、そのうちの八回くらいは鍛冶屋の跡を継いだ。当然だよね、運命は環境に影響を受けるんだ。人間の意思だって、運命を決定する大事な一要素だよ。安心した?」


 冗談めかしてニケは微笑む。話の主意が見えない。俺は先を促した。


「ああ、ごめんごめん。余計なことを喋りすぎるってよく怒られるんだよね。しょうがないじゃんね、大賢者だって人間だもん。自分が好きなことをおしゃべりできたら、嬉しくなっちゃうもんなんだよ。――二つ目」


 ニケは二本目の指を立てる。


「この子。ミーシアには、【魔王】を継承する運命があった」


 俺は黙ってミーシアの横顔を見る。

 動揺はない。彼女にとっては、聞いたことのある話のようだ。


「この子を見つけられたのは本当に偶然だよ。人の運命をチラ見するのにハマってて、あれこれ覗いて回ってたらたまたま、ね。私がミーシアの運命に気がつくのも、運命の一つだったのかな。変動を続けた運命は、思いもよらない偶然をもたらした。とんだ皮肉だね」


 大賢者ニケは淀まずに語り続ける。


「それから私はミーシアの運命を重点的に観測した。【魔王】を継承する運命もあれば、何事もなく生涯を過ごす運命もあった。この子の運命はもう何千回も見たけれど、後者の方が圧倒的に多かったかな。それで気になったんだよ、この子が【魔王】を継承する条件はなんだろうって。だから私は、ミーシアを弟子にして手元に置くことにした」

「……あれ? にけ先生、それ、ボク聞いたことないかもです」

「うん。ここまでは言ってないよ。君は将来【魔王】になるから、力の使い方を学びにおいでとは言ったけど」

「じゃあボク、そうならない運命の方が多かったんですか!?」


 ミーシアは愕然とした。

 この善良な少女を騙すのは、さぞや簡単なことだっただろう。彼女は一人打ちひしがれていた。かわいそうに。


「ミーシアの運命を調べているうちに一つのことがわかった。この子が【魔王】になる条件は、今年の春にアッツェンの街を訪れること。それ以上のことはわからなかったけれど、どうしても気になったんだよ。一体この街に何があるんだろうって」

「それで……。あなたは、ミーシアをこの街に送り込んだ」

「そういうこと。ごめんね、ミーシア。私は、知的好奇心からあなたの人生を歪めました」

「え、ええと……。ええ……? ちょっと待ってください。何がなんだか……」


 ミーシアは混乱していた。頭を抑えて、考えを整理する。少しして彼女は顔を上げた。


「あっ、でも! ボク、まだ【魔王】にはなってないんですよね? だったら――」

「……みーくん」


 柚子白はミーシアの手を握った。俺は何も言えなかった。大賢者ニケだけが、変わらない顔をしていた。


「話、続けるよ」

「あなたには人の心がない」

「あるよ。ただ、好奇心に素直なだけ。私はこれでも、ちゃんとミーシアに幸せになってほしいと思っている。何十年ぶりの教え子だ、可愛くないわけがない」

「どの口が!」

「君も同じだと思うけど」


 口をつぐむ。ミーシアを【魔王】にしてしまったのは俺たちだ。もしも俺たちが彼女に関わっていなければ、こんなことにはならなかった。

 だとしても。


「……望んでこんなことになったわけじゃない。俺たちにとっても想定外だったんだ」

「へぇ」


 ニケは目を細める。推し量るような鋭い瞳。深淵の叡智が俺を覗き込んでいた。


「ミーシアを通じて、私は君たちのことを知った。もちろん運命も見させてもらったんだけど、ただただ驚愕するばかりだね。君たちの運命は複雑怪奇に歪みきっていて、私の知識ではとても読み解けなかったんだ。逆に納得したよ。こんなものと関われば、普通の少女が【魔王】になってもおかしくないって」


 責めるでもない淡々とした口調。ニケの言葉にあるのは、氷のような好奇心だけだ。


「君たちは救国の英雄になる。君たちは世界の破壊者となる。君たちは文明の変革者となる。君たちは人知れず無人の荒野で野垂れ死ぬ。いや、もう、なっている。今言った内容は、過去の時点ですでに達成されているし、未来においても再び成し遂げられることだ。言ってることわかる?」

「いいや。わからないですね」

「私もわからない。だけど、そういう運命になっているんだ。まるでいくつもの運命が、君という人間に重なり合っているみたいにね。しかも、その一つ一つが並大抵の人生じゃない。ねえ、教えてよ。どうしてこんなことになってなってるの?」


 淀みなく語り続けた彼女は、そこで一度言葉を止める。

 ああ、こうじゃない、聞きたかったのはこれじゃない、と首を振り、改めて問いを投げかけた。


「君たち、一体なんなんだ?」

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