おめでとうございます。あなたの人生はとても素晴らしいものになるでしょう。
天剣と地杖を召喚したことで生じた空間のひずみを可能な限り補修した後、俺たちは古城を後にした。
地上は嵐になっていた。横殴りの雨風が俺たちの頬をべしべし殴りつける。
「確かに雨は降っていたけど。嵐になるなんて聞いてないわよ」
「天剣と地杖の影響だろ。あれは天変地異を起こすもんだ」
「……ま、嵐くらいで済むならかわいいもんね」
これだからあれを使うのは嫌なんだ。ほんの数秒召喚するだけでも、世界への影響がでかすぎる。
まあ、嵐くらいなら天候操作魔法を使えばどうにかなる。ただ消費魔力がかなり重いんだよな、あれ。一仕事終えたばかりの今、すぐに取り掛かるのは手間だった。
ちょっと休憩してから帰る? と聞いてみる。柚子白はゆるやかに首を振った。はやく帰って宿屋のふかふかのベッドで寝たいらしい。それはもう、まったくもって同感だ。
なけなしの魔力をかき集めて空に手をかざす。術式を編み、空を塞ぐ分厚い雲を払おうとした。
「枢木、ストップ」
「ん?」
「誰か来るわ」
暴風雨の中を誰かが走っている。飛んでいってしまいそうなほどに小柄な人影。ずぶ濡れの白いローブを重そうに揺らしながら、それでも懸命に走っている。
その姿には見覚えがあった。
「ミーシア……?」
ミーシアは俺たちの前で立ち止まろうとして、ぬかるんだ地面に足を取られてつんのめった。
いつもなら助けられたのかもしれない。だが、疲れていた俺たちに反射神経はなく、彼女が頭から転ぶところを目の前で見過ごした。
「みーくん? 大丈夫?」
幼女の仮面をかぶり、柚子白が助け起こす。柚子白の横顔には緊張感があり、それは俺も同じだった。
何の用だ。どうしてミーシアがここにいる。ひょっとして、何かあったのか。
ようやくオーダーが終わったばかりなんだ。どんな内容だったとしても、今はイレギュラーを歓迎できない。今日はもう、何事もなく終わってほしい。
「すみません……。ありがとう、ございます」
「どうしたんだミーシア。なんでこんな場所にいる」
「クルさんの、様子がおかしかったので……。それで、魔法で、後を追って……」
追跡魔法でも使ったのだろうか。この嵐の中、俺の後を追いかけて走ってきたらしい。
なるほど、そういうことか。納得すると緊張が抜けた。彼女はただ俺たちを心配してくれただけ。それなら何も問題ない。
よほど無理をしたのか、ミーシアは肩で息をしている。どうする、と柚子白と顔を見合わせた。
「お二人こそ、どうしてここに? 何か……あったんですか?」
「うん、ちょっとね。この場所にユズたちの大事なものがあって、それを取りに来たの。でも、もう用は済んだから」
いつもの調子で柚子白は適当に嘘を並べる。ほらこれ、と彼女は造形魔法で作ったペンダントを見せた。
「そうなんですか……。なら、よかったです。ボク、てっきりお二人が何かとんでもないことに」
こんな嘘でもミーシアは納得してくれた。約束を破った上に、心配してくれた彼女を騙すことには心が痛む。ちゃんと埋め合わせしないと、なんてことを考えていた。
「――それ、なんですか?」
ミーシアは目を見開いていた。
彼女の視線を追って振り向く。俺たちも目を見開いた。
黒く渦巻く闇の怪物が、そこにいた。
「ミツ、ケタ」
一瞬で頭が沸騰する。本能が叫ぶ。これを殺せ、と。
おかしな点はいくつもあった。仕留めたはずのそれが生きていることだとか。明らかにそれが意思を持ち、人語のようなものを操ったことだとか。渦巻く螺旋の闇が、にたりと嗤ったように見えたことだとか。
だけどそれらに気を配る余裕はなく、俺は反射的に天剣を召喚しようとして――。
怪物は、その猶予をくれなかった。
「キミガ、ボクニナレ」
螺旋の闇が広がる。光を蝕み、瘴気を放つ。息もできないほどの圧迫感。縫い付けられたように体の動きが止まり、それでも天剣を呼び出そうとあがいて、闇の中をもがき苦しんで――。
突如、闇が消え失せた。
いや、消えたのではない。怪物が吸い込まれたのだ。どこに?
ミーシアの中に。
彼女は今、声にならない絶叫を上げていた。白目を剥き、体を震わせて、自分の内に入り込んだそれと同化する。変質の過程は、俺たちの目にありありと焼き付いた。
――あの怪物は、【魔王】バアルバアルの内にいた。
気が遠くなるほどの遠い昔、この世界には魔王がいた。ある時勇敢な若者が魔王を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらした。しかし死せる魔王は若者を呪い、若者は次なる【魔王】になってしまった。
その若者の名は、バアルバアル。
【魔王】バアルバアルの誕生にまつわる、古いおとぎ話だ。
ようやく理解した。あの怪物は魔王の呪いだ。次の魔王を生み出すための、連綿と受け継がれた呪いそのものだ。
しかし、呪いはバアルバアルを倒した俺たちを選ばなかった。理由はわからない。たぶん、俺たちにはその資格がなかったのだろう。だけど――。
ミーシアは、【魔王】に選ばれた。
【魔王】へと変質したミーシアは、糸が切れたように倒れ伏す。そのままぴくりとも動かない。あたりに広がった闇は消え失せ、世界は正常を取り戻した。
雨は荒々しく地を叩き、風は激しく吹きすさぶ。
嵐の中で、俺たちは呆然と立ち尽くしていた。
*****
「第一の試練突破、おめでとうございます。枢木くん」
白く輝く虚空に、女がいた。
背の高い椅子に座る女の前には、中空に投影されたディスプレイが浮かぶ。それをにこにこと見つめながら、時の女神めうめうはホットコーヒーをちろりと舐めた。
「最初はまーた変なことやってるなぁと思いましたが、今回は中々順調じゃないですか。王位の継承に成功したのはいつぶりでしたっけ? 偶然出会った女の子が、たまたま【魔王】の器だったなんて運がよかったですね。いや、千回も繰り返してようやくと考えれば、むしろ不運だったのかも?」
めうめうは少し考えたが、答えは知っていた。幸運か不運かは置いておいて、彼には世界を変える素質がある。今回の人生、枢木は自らの手でこの結末を引き寄せた。それだけの話だ。
「王位が保たれたことで世界は調和を保ちました。滅びも遠のくことでしょう。これなら、もしかするともしかするかもしれません。ああ、ますます期待してしまいます」
恋する乙女のように紅潮する。きゃー、と可愛らしい仕草で身悶えし、それから少し虚しくなった。
「いけませんね。こんな場所にいると、ついつい独り言が多くなってしまいます」
こほん、と咳払い。女神というのは退屈だ。楽しそうな場所を眺めるだけで、中に入ることは許されない。だからお気に入りのコンテンツを見つけると、ついつい応援してしまう。
それでも干渉は最小限に留めなければならない。女神という規格外に触れた人間は例外なく壊れてしまう。そういう意味では手遅れかもしれないが、せめてこれ以上枢木を壊さないよう、めうめうはこれでも気を使っていた。
「それではまた、第二の試練でお会いしましょう。その時を楽しみにしていますよ、枢木くん」
ディスプレイの中では、枢木が呆然と立ち尽くしている。
それを愛おしげに眺めながら、時の女神めうめうはいつまでも微笑んでいた。




