五秒半
その黒く渦巻く闇が何なのか、俺は知らない。
バアルバアルの中から出てきたそれが、【魔王】の真の姿なのか。あるいは追い詰められたバアルバアルが、急激な変容を遂げたものなのか。それとも想像も及ばないほどに、別種のものなのか。
人生を千度繰り返し、並大抵のものは見聞きしてきた。伝承に語られし魔王だって、まるで見知らぬものではない。バアルバアルと交戦した記憶はなくとも、並の魔王種ならば何度となく倒してきた俺たちだ。
だから今、目の前にいるそれが何なのか、まるでわからなかった俺たちは。
久方ぶりに、恐怖というものを味わっていた。
未知は恐怖に通じている。生存本能は金切り声を上げ、今すぐ逃げろと狂ったように叫び続ける。
本能でわかる。あれは、違う。魔王だとか、伝承だとか、そんな物差しで測れるものではない。
たとえ俺たちが真面目に修行を積み重ね、万全の準備を整えてきたとしても、それの前では巨象に立ち向かうアリにすらなれないだろう。それほどまでに、強さの次元が狂っている。
それが今、この世界に存在していること自体がおかしい。
俺たちの前にいるものは、そんな人智を超えた怪物だ。
「柚子白ッ!」
「枢木……!」
恐怖に負ければ万に一つの勝ち目もなくなる。だから、即座に決断した。
確かに相手は、存在すること自体が反則レベルのバケモノだ。
だけど俺たちも。存在すること自体が反則レベルの切り札を、たった一つだけ持っていた。
「天剣召喚」
「地杖招来」
これは、めうめうに与えられた女神の力の断片だ。
あの女は転生特典なんてことを言っていたけれど、この力は特典なんていう綺羅びやかな響きとはあまりにも縁遠い。
「天剣ラグナロクッ!」
「地杖ギャラルホルン……!」
俺は星空のように黒く輝く直剣を。柚子白は天使の装飾が施された白い杖を。それぞれ虚空から呼び出した。
人智を超えた怪物を討つために与えられた、人智を超えた神の刃。ただ存在するだけで天変地異を引き起こし、世界を歪ませる超常の力。
天剣ラグナロクと地杖ギャラルホルン。
それは、人間が持つにはあまりにも過ぎた力だ。
俺たちはそれ以上言葉を重ねなかった。互いにやることはわかっている。一秒でも早く、それを成し遂げなければならない。
天剣と地杖を呼び出した今、事態は一分一秒を争う。これは存在するだけでも危険な力だ。ぐずぐずしていると、世界が耐えきれずに壊れてしまう。
天剣と地杖が世界を壊してしまう前に、この戦いを終わらせる。
ここからが本番だ。生きるか死ぬか、俺たちの命運はこの一瞬に決着する。
一秒。天剣と地杖が召喚されたことで、空間がヒビ割れる。時間の流れが淀むのを感じた。怪物に動きはない。
二秒。天剣を手に床を蹴った。最速の動きで距離を詰める。怪物に動きはない。
二秒半。肉薄した俺は怪物の首をかききる。強い手応え。剣先が流星のような尾を描き、首元のシルエットが歪んだ。怪物に動きはない。
三秒。八度切り刻む。閃光のような剣技を受け、怪物のシルエットが千々に乱れる。怪物に動きはない。
四秒。攻撃の手を緩めない。本能が叫ぶままに剣を振るい、無限の攻撃を叩き込む。天剣が描く残像は、星空のように広がった。
四秒半。怪物が動いた。
濃密な悪意が向けられて、俺の中の何かが切られた。ちょきん、と。人形の首を切り落とすように。
心臓が止まる。体中のすべてが急速に死に向かう。血潮が冷水に置き換えられたように、重く、冷たいものが俺の体を支配した。
――それでも。
五秒。
「俺たちの青春を……ッ!」
叫ぶ。体中の力をかき集め、無理にでも力を振り絞り、斬撃を叩き込む。
人生最後のソードブレイカー。比類なき耐久力を持つ天剣ならば、ソードブレイカーの威力は最大限まで引き出せる。一閃強く斬り上げると、怪物の体が跳ね上がった。
これが最後だ。俺にできることはすべてやった。崩れ落ちる体を止める術はもうない。
だから。
後は任せたぞ、柚子白。
五秒半。
「邪魔すんなッ!」
柚子白の魔法が発動した。
地杖ギャラルホルンから放たれた、白銀の閃光が怪物を焼く。
それはあらゆるものを塗りつぶす光の暴力だ。閃光は闇の塊を焼き尽くし、地下室の天井に大穴を開け、天空までも穿ち貫いた。
光はすべてを白にする。悪意も、殺意も。恐怖も脅威も絶望も、光の中に溶けるように消えていく。
数秒後、光が収まる。
怪物の姿はもうない。それが放っていた濃密な悪意も、もう感じない。
……倒したのだろう。これで、本当に。
俺たちは天剣と地杖を虚空に還す。しばらくそれがいた場所を立ち尽くしたまま、呆然と眺めて。
そして、同時にぶっ倒れた。
「あっぶ……! あっぶなっ……! あっぶなかったぁ……!」
「ギリッギリもいいところじゃない……! 私、一瞬心臓止まってたわよ……!」
「俺もだよ、マジのマジでギリギリだ……! もう少し遅ければ絶対死んでたっていうか、なんなら一回死んだんじゃねえか俺……!」
怪物は俺たちに何かをした。その結果、俺たちの命はあまりにも簡単に散りかけた。だけど死ぬ直前、本当にギリギリのところで、怪物の討伐に成功した。
これを幸運と呼ばずになんと言う。俺たちは薄氷を渡りきったのだ。
「冷や汗が……。冷や汗が止まらないわ……! ねえ枢木、私今生きてるのよね? 本当に生きてるのよね? 心臓、動いてるわよね!?」
「大丈夫、大丈夫だ。いやでもちょっと自信ない。俺ら本当に生きてんのか……? これ夢なんじゃねえの……?」
「ちょっと枢木、確認してちょうだい。私もう、自分の心臓に自信がないの」
「わかった。そういうことなら任せとけ」
柚子白は服を脱ぎ始めた。心臓の鼓動を直接確認してほしいらしい。俺はそれに違和感を抱かないくらいには、はなはだしく混乱していた。
「うむ……。我が言うのもなんだが、落ち着いたほうがいいんじゃないか」
第三者の声がして、俺と柚子白は固まった。柚子白は下着を脱ぐ直前で、俺は彼女の左胸に手を当てる寸前だった。
誰だ、と首を動かす。
赤黒い肌の大男。魔王信者のおっさんが、気まずそうに立っていた。
「うむ、うむ。見事だったぞ人間よ。よくぞ【魔王】バアルバアルを討ち滅ぼした。今は貴様らが成し遂げたことを讃えよう。しかし、次も同じように行くとは思わないことだな。再び世界に災厄が訪れるその日まで、しばしの安寧を享受するがいい」
おっさんは高笑いをして地下室を去っていく。俺たちはそれをぽかんと見送った。
「えっと……。あの人、まだいたんだな」
「そうね……。完全に忘れてたわ」
おっさんの姿が見えなくなってから、いい感じに逃げられたことに気がついた。いやまあ、別に逃げなくても何もしないけど。魔王召喚は重罪だが、俺たちの遵法精神はそこまで高くない。
まあ、あの人のことはいいや。それよりも、もっと他に気にすることがある。
「あー……。とりあえず柚子白、服着ろよ」
「……はい。取り乱してすみませんでした」
「いや、俺の方こそごめん。なんか、パニクってた」
なんだか気まずくなって、俺たちは取り繕うように咳払いをする。
ついに宿願の神様オーダーを達成したと言うのに、ものすごく微妙な空気になっていた。




