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【魔王】バアルバアル

 魔王信者のおっさん(名前は知らない)に魔王復活の儀式を許したのは、めうめうから【魔王】を討伐せよとのお達しがあったからだ。


 いつかの人生で似たようなオーダーを与えられた時、俺は討伐ではなく復活を阻止したらしい。らしいと言うのは、オーダーの詳細を忘れてしまったからだ。

 俺としてはそれでオーダーを達成したつもりだった。なのに突然あの虚空に呼び出され、めうめうにオーダーの失敗を告げられたのだ。


「ダメですよ、ちゃんと倒してもらわないと。再封印なんて問題の先延ばしじゃないですか」


 オーダーに関しての記憶を消され、何がなんだかわからない俺に、めうめうは当然のように言ってのけた。

 なんだか納得行かないが、めうめうが半端な仕事で納得してくれないことはわかった。あの邪神様が求めているのは完璧な成果だけ。俺の上司は可愛い顔して魔王よりも禍々しい。


 ゆえに俺たちは、【魔王】復活を目の前でみすみす見過ごしたわけなのだが。

 召喚門をくぐったそれを見て、一秒で後悔した。


 一言で言うと、どろどろに腐ったヒトガタの異形だ。

 痩身の肌はいっぺん残さず腐り落ち、くすんで灰色になった肉が見えている。ほとんど骨と皮しか残っていない頭部は、いびつに歪んだ頭蓋骨の形を浮かび上がらせていた。

 額には折れた角。ボロボロの鎧を身にまとい、錆びた大剣を一本ずつ両手に握る。

 どうして動くのか不思議なくらいに、その異形は死体めいていた。


「ほとんどゾンビじゃねえか……」


 口ではそういいつつも、内心の戦慄は隠せなかった。

 死に体とは思えないほどの凄まじいプレッシャー。ただそれが目の前にいるというだけで、死にたくなるほどの絶望感。

 腐臭とともに放たれる悍ましい殺気が、全身に逃げろと訴えかける。それの存在そのものが、生命を冒涜するほど穢らわしい。


 異形めいた悍ましさを放っているが、バアルバアルの動きは緩慢だ。長年の封印で弱っているのだろうか。

 いかに【魔王】とは言え、本調子ではないのなら。可能性はあるかもしれない。


「枢木」


 柚子白は造形魔法で剣を作り、投げよこした。


「使って」

「……おいおい。俺には最高の相棒があるんだが?」

「遊んでる余裕、ないわよ」


 違いない。俺はおとなしくフライパンから魔法剣に持ち替えた。

 基本的に俺は武器ならなんでも使えるが、得意武器となるとこれだ。肉厚両刃のロングソード。荒っぽい用途にも耐えられる頑強さがあると好ましい。

 技で斬る術なら千でも万でも知っている。だが、斬り続けるには硬さがいる。そういう意味で、細く鋭い刃よりも硬くて重い方が好みだった。


「柚子白。これと同じ剣、あと十本ほしいんだけど」

「どういう使い方する気よ」

「知ってんだろ。俺の戦い方は」

「……ええ。嫌ってほどね」


 柚子白に言わせれば、俺の戦い方は品がないらしい。

 遠距離から一方的に爆撃を撃ちまくるあいつに言われたくはないが、確かに上品な戦い方ではない。だけど華ならあると思う。

 追加で作ってもらった剣に、魔力の糸を繋げて宙に浮かせる。それで準備は完了だ。


「じゃ、ちょっとはがんばりますか」


 呪いの言葉を口にする。がんばるなんて、この俺が? 笑っちゃうね。

 ギアを上げる。意識を変える。遊びを消し、戦意を研ぎ澄ます。

 久しぶりの感覚だ。内と外から、戦い以外のすべてが消える。思考はどこまでも澄み切って、目に映る世界は透き通るほどにシンプルだ。

 ここから先の価値観は二つに一つ。

 強いか、弱いか。それだけだ。


「あんたのそれ……。何度見てもぞっとするわね。本当に、もう二度と相手したくないわ」


 返事はせず、口元で笑った。俺の本気を一番見てきたのは間違いなくこの女だ。味方としても、敵としても。


 【魔王】は立ち尽くして俺を見ていた。濁った双眸は俺が握る剣だけを注視し、やがてずるずると大剣を引きずりながら歩み始めた。


 空気が、爆ぜた。


 爆発的な跳躍。爆撃めいた斬撃。人間の動体視力で捉えられるギリギリの速度で跳んだ魔王は、錆びた大剣を荒々しく叩きつける。寸前まで俺がいた地面が、まるで爆発したかのように吹き飛んだ。

 魔王の背中側に回った俺は反撃を入れるつもりだった。だが、体勢を無理に崩してでも回避を取る。ヤツの二撃目の方が速い。空気を震わせて振り抜く大剣は、俺の鼻先ギリギリのところをかすめていった。


 凄まじい速度。凄まじい膂力。生物としての格が違う。生半可な攻撃なんて、やろうとするだけ自殺行為だ。切り合おうなんて考えることすら馬鹿らしい。

 価値観は決した。【魔王】は強く、俺は弱い。

 だが、その優劣は勝敗に直結しない。


 すぐさま体勢を立て直したところに、降ってきた三撃目。空気を震わせ風を巻き起こす斬撃を、今度は避けずに迎え撃った。

 体をねじり、回転の勢いをつけて、斬り上げるように剣を振る。大事なのはバネとタメ。筋肉だけで力を込めるのではなく、縮んだバネでタメを作って解き放つ。足から腰、腰から肩、肩から腕と、最小までロスを殺しながら伝えられたパワーを、剣の真芯に精確に届けた。


 カキン、と小気味いい音。その音に似合わぬ重々しい衝撃。ロングソードと大剣が正面から激突し、両者は粉々に砕け散った。


「ソードブレイク……!」


 剣が砕ける寸前に手を離すことで、腕の痺れは最小限に抑えた。

 少ない攻撃チャンスに最大の一撃を入れることを目的とした、一撃特化の剣術。繰り返されるループの中、自分よりも遥かに強大な敵と殺し合いながら身につけた技だ。

 一撃の重さを突き詰めたがゆえに、並大抵の剣では砕けてしまうのが難点か。まあそこは新しい剣を使えばいいだけだ。魔力の糸をたぐりよせ、俺は二本目の剣を手にとった。


 魔王が吠える。振りかぶられた斬撃に、もう一度ソードブレイクを合わせる。ガラスが砕けるような甲高い音とともに、魔法剣と錆びた大剣が砕け散る。


 それでも俺には三本目の剣がある。だが、魔王が手にしていた錆びた大剣は両方とも砕け散った。

 剣がなければ択は減る。その隙を見過ごすほどお人好しではない。三本目の剣を消費した、三回目のソードブレイクを振りかぶる。

 魔王はそれを、拳で受けた。


 力任せの強引な拳。俺の剣と正面から激突したそれは、血を撒き散らして弾け飛ぶ。ただでさえ腐りかけていた体だ、ぐしゃりと簡単に潰れてくれた。

 有効打は与えた。だが――。魔王の血が撒き散らされた、というのは問題だ。


 バアルバアルのことはある程度知っている。伝承曰く、こいつの血はそれ自体が呪詛の塊であるらしい。一滴でも浴びようものなら体が痺れ、二滴浴びれば昏倒する。三滴も受ければ全身が腐り落ちて死に至るのだとか。

 そして今、目の前で飛び散る血液には濃密な呪詛が籠められていた。伝承、どうやら正しかったらしい。


 飛び散った呪血は、返り血となって降り注ぐ。

 それらの血液は、目の前で氷の粒に閉じ込められ、一滴のこさず地に落ちた。


「あんった、ねぇ……!」


 見事な魔法制御で血の飛沫を凍りつかせた柚子白は、不満を爆発させた。


「バアルバアルの血のこと忘れてたでしょ! 今の返り血びちゃびちゃコースだったじゃない! ねえ!」

「あーっと……。そこはあれよ、柚子白を信頼してたから」

「こんな神経使う仕事を! 信頼とかいう都合のいい言葉で押し付けんな!」


 いやまあ、すまん。正直血が吹き出る瞬間まで完全に忘れてたわ。面倒な体してやがる、どうすっかな。


「おいポンコツ。あんたはもう下がってろ」

「えー? ごめんてユズたん、そんな怒らんでよ」

「やかましい。あんたのうっかりミスで人生終わらせられちゃたまんないのよ、こっちは」


 言うが否や、柚子白はいくつもの魔法陣を空中に投影した。

 事前に作成した魔法陣を圧縮保存し、必要に応じて瞬間的に展開する技だ。展開した魔法陣は七枚、その全てが魔力増強の効果を持つ。

 限られた魔力量を限界まで増強し、柚子白は指先に光を灯した。


「亜法術――」


 お得意の魔法爆撃ではない。

 既存の魔法とは全く異なる思想から生み出された、魔法でありながら魔法ではない、亜法の技。


「――龍殺し」


 暗黒色の火砲が指先から放たれた。

 古の大魔術師が生み出した、巨龍の鱗をも貫く攻撃術式だ。魔力を分解する黒い炎は、たとえ龍鱗クラスの魔力障壁であろうとバターのように溶かしてしまう。

 ゆえにこの炎は魔法による防御が極めて難しい。これを確実に耐える術は、俺が知る限りただ一つだけ。

 同じ亜法をぶつけること。

 バアルバアルは迫りくる火砲を目で追い、ゆらりと手をかざした。


「リュ、ウ、ゴ……ロ、シ……」


 同系色の火砲が、魔王の手から放たれた。

 一瞬だった。ほんの一瞬見ただけで、魔王はその術式を完全に再現してみせた。

 バアルバアルは魔王の中の【魔王】。魔に連なる者の最果てだ。彼の異能は剣ではなく、常軌を逸した魔法の力にある。

 半端な魔法を打ち込もうものなら、簡単に解析されて倍の力で返される。そうでなくとも、同じ魔法を一瞬で再現するくらいは当然のようにやってくる。これに魔法で勝つのは至難の技だ。


「ふん……。相変わらず、デタラメね……!」


 二つの龍殺しが激突し、互いを喰らい合いながら拮抗する。

 デタラメもいいところだ。亜法をチラ見しただけでコピーした上に、魔法陣を七枚も展開して増幅した攻撃と同出力の攻撃を片手で返してくる。これを悪夢と呼ばずになんと言う。

 拮抗した戦況は徐々に【魔王】へと傾いていく。術式を解析し、最適化しているのだ。人間が生み出した荒削りな術式は今、魔なる王の手によって美しい芸術へと昇華していた。


「……枢木ッ!」

「あいよ」


 押し切られる前に柚子白が叫ぶ。俺は即座に呼応した。

 柚子白が魔王の足を止めている間に、遠慮なく四発目のソードブレイカーをぶちこんだ。今回は接近するなんて愚はおかさない。ソードブレイカーの勢いままに、剣を投げて叩き込む。


 【魔王】は魔法戦において比類なき力を持つが、剣術に限れば俺のほうが上だ。放たれた剣は、深々と胸を刺し貫いた。

 バアルバアルの体勢が崩れる。奴の龍殺しにブレが生じる。千載一遇の好機を逃さず、柚子白は亜法の出力を引き上げて、奴の体を飲み込んだ。


「砕けなさい……ッ!」


 【魔王】の体が黒い炎に包まれた。

 龍殺しの炎がバアルバアルの魔力を噛み砕く。力の源を奪われた魔王は、悲鳴を上げることもせず、糸が切れたようにふらりと倒れ伏した。

 奴の体から魔力反応が消える。

 それはつまり、ソレが単なる腐りかけの死体になったということだ。悍ましいプレッシャーも消えてなくなり、地下室はようやく静寂を取り戻した。


「……なあ柚子白」

「なによ」

「やったか、って言っていい?」

「責任取るならいいわよ」


 まだ終わっていない。【魔王】がこれくらいで死ぬわけがない。俺の直感が危機を叫ぶ。本番はここからだ、と。

 生命の危機に瀕した魔王は朽ちた体を脱ぎ捨てる。そして、黒い人型のナニカが、魔王の抜け殻からずるりと這い出した。


 まるで闇を塗り固めたような悪意の塊がそこに立っていた。手足は異様にひょろ長く、顔があるべき場所には螺旋のような闇が渦巻いている。目をそらした間に消えてしまいそうな非現実感と、絶対に目をそらせない強烈な存在感が、奇妙に同居していた。


 それは伝承に語られる【魔王】の姿とは似ても似つかない。どんな言い伝えを思い返しても、こんなモノには覚えがない。

 当たり前だ。バアルバアルをここまで追い詰めたのは、人類史上俺たちが初めてなのだから。

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