ファースト・オーダー
神様オーダー。全部で八つの神様の無茶振り。
それがいつ発動されるのか、詳しいことを俺は知らない。知らないというよりは覚えていない。
なんとなくそろそろ来るだろうとは思っていたけれど。今日か。今日、このタイミングで、なのか。
「枢木くん、いかがお過ごしでしょう。あれから何年経ちましたっけ? 私にとってはまばたきする程度の時間ですが……。枢木くんにとっては、そうではないかもしれませんね」
めうめうは虚空に椅子を生み出した。どうぞ、と促されるままに座る。
「なんだか今回は変わったことをやってるみたいですね。いつもより大分弱っちく見えますが、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。まあ、今回は、ちょっとな」
少しでも心臓の鼓動を落ち着けようと努力する。
オーダーの発動はいつだってこんな風に突然だ。心構えをする時間なんて与えられた試しがない。ある日唐突に、人生をかけた戦いが始まるのだ。
「枢木くんはいつも面白いものを見せてくれますからね。きっと今回の試みも、何か意味があるのでしょう。その試みがオーダーの達成に繋がるものであることを祈りながら、あなたの生き様を楽しく見届けさせていただきます」
言えない。絶対に言えない。
今回の人生ではオーダー完遂を諦めて、全力で遊びまわっているだけだなんて言えるわけがない。
めうめうは温厚な女神だ。彼女が激情をあらわにしているところなんて一度も見たことない。しかしそれは、彼女が慈愛に溢れた女神であることを意味しない。
俺がどんなに泣き叫んで、十数回の精神崩壊をおこそうとも、情け容赦なく次のループへと蹴り出すのはこの女だ。俺はこの女に、絶対に逆らえない上司のような苦手意識を持っていた。
「でも、今回の枢木くんはなんだかとっても楽しそう? いいなー、私も一緒に遊んでほしいです」
「ははは……。機会があればな……」
「それが難しいんですよねぇ。私が顕現したら、ちょっと大変なことになっちゃいますから。下手したら世界が壊れちゃうかも?」
それはめうめうなりの冗談だったのかもしれないが、まったく笑えなかった。
反応が芳しくないことを察して、彼女はこほんと咳払いをする。
「女神の使徒枢木。これよりあなたに、第一の試練を与えます」
荒い縄で、心臓が縛り付けられたような痛みを感じた。
全身に緊張が走る。ついに来た。ついに、この時が来てしまった。
オーダーの失敗は時の巻き戻しを意味する。もしこのオーダーに失敗したら、俺は今回の人生で積み上げてきたすべてを失う。教会での思い出も、ミーシアとすごした日々も、何もかもをだ。
失いたくない、とこんなに強く思ったのはいつぶりだっただろう。最近のループでは失うことを恐れて、淡々と人生を過ごしてきた俺だ。こんなに強い恐怖は、久しく味わっていないものだった。
だが、それも、オーダーに失敗したらの話。
達成さえすれば、今回の人生をもう少しだけ長く続けられる。
「今回のオーダーは古城の調査です。アッツェンから少し離れたところに、風化した古城跡があるのはご存知でしょうか?」
「ああ。古城となると、魔王か?」
「察しがよくて助かります。古城深部に封じられた古の魔王に、復活の兆しを確認しました。その調査と、魔王種の討伐をお願いします」
魔王種は魔物の中でも隔絶した力を持つ特別な魔物だ。一匹一匹が凄まじい力を持ち、伝承に名を残すような個体も珍しくない。それを倒してこいというのが、今回のオーダーだ。
さすがは神様の無茶振りと言うべきだろうが、正直言って少し安心した。魔王種と言えど所詮は魔物。俺と柚子白なら、決して勝てない相手ではないはずだ。
「魔王って言っても色々いるだろ。どの個体かわかるか?」
「教えてあげてもいいですけど。ネタバレになっちゃいますよ?」
「そういうのいらない。ほんとに」
めうめうは少し拗ねた顔をした。ご期待に添えなくて悪いが、遊ぶ気にはなれない。
「じゃあ言っちゃいますけど。魔王と言えばこれっての、いるじゃないですか。その子です」
「……【魔王】? まさか【魔王】バアルバアルか!?」
「だいせいかーい!」
あ、これ詰んだ、って思った。
魔物の頂点に立つ魔王種の中でも、力の優劣は存在する。強い魔王もいれば弱い魔王もいる。だが、魔王の中の【魔王】。頂点の中の頂点。【魔王】と呼ばれるその個体は、その中でも別格だ。
それは魔王種の中で唯一、一度たりとも人間に倒されたことがない存在だ。数千年前に破壊の限りを尽くし、やがて力尽きるように自ら眠りについた伝説の魔王。その名は長い時が流れた今でも、恐怖の象徴として伝承の中に語り継がれる。
単に魔王とのみ言う時、それは彼の者を指す。
それが、【魔王】バアルバアル。
「でも、枢木くんなら大丈夫ですよ。ちゃちゃっとやっつけちゃってくださいな!」
「無茶苦茶言うな……。魔王の中でもぶっちぎりの最悪じゃねえか。マジでそれが復活すんの?」
「女神、嘘言わないです」
「普通に世界滅びるんだけど」
バアルバアルと戦った覚えはない。ゆえに、それがどの程度の力を持つのか俺は知らない。
それが伝承通りの存在だとしたら、今の俺たちで勝てるかどうか。吐息一つで大気を凍てつかせただとか、一目睨むだけで数万の命を刈り取っただとか、そんな伝承がごろごろ転がるような相手だ。もちろんいくらか誇張はあるだろうが、バアルバアルが破壊の限りを尽くしたのはれっきとした事実だ。
しかし……。一つ、気になるところがあった。
「めうめう。一つ聞きたい」
「一つと言わず、いくつでもどうぞ」
「俺は、それと戦ったことがあるんだよな?」
めうめうはすっと目を細めた。
戦った覚えがない、というのが気になった。人生を千回も繰り返しているのに、ないわけがないだろう。この世界にバアルバアルが復活する可能性があるのなら、一度くらいは戦ったこともあるはずだ。
なのに、俺はそれを知らない。
「神様オーダーで、か。今回と同じように」
「ええ、そうです。あなたは以前、私のオーダーでバアルバアルと交戦しました。撃破したこともありますよ」
「なら、どうしてそれを忘れている?」
俺が忘れっぽいのは今に始まったことではない。ループから心を守るために、できるだけ色々なことを忘れるように努めているというのはもちろんある。
だけど、神様オーダーの内容まで忘れたいとは思わない。
俺は、もう何度も繰り返したはずの神様オーダーの詳細を、一つも知らない。前回の人生で何番目のオーダーに失敗したか、その結果として誰が死んだかくらいは覚えている。だけど、オーダーがいつ起きるのかや、オーダーの遂行中に何があったのかについては抜け落ちたように記憶がない。
せめて少しでも覚えていれば対策も立てられるのに。それができないのは、俺がオーダーの詳細を覚えていないから。
――いや。人生をやり直すたびに、忘れさせられているからだ。
「枢木くん。世の中には、知らないほうがいいこともあるんですよ」
めうめうは慈愛に満ち溢れた目をしていた。
それはつまり、忘れたほうがいいようなことをやらせるつもりってことじゃないのか。だからだ。だから俺は、この女を信用できない。
「難しく考えず、あなたはただ【魔王】を倒してくれればいい。枢木くんなら大丈夫ですよ。私はあなたの素質を信じています」
何の気休めにもならない。こんなに無責任な呪いの言葉があるだろうか。
俺も人のこと言えないが、めうめうにはこういうところがある。失敗したってもう一度やり直せばいいと思っているのだろう。
彼女の感性は人間のそれとは違う。いかに可愛い顔をしていようと、この女は人外の者だ。
「他にご質問は?」
「アドバイスくれ」
「がんばってください」
…………。
こいつ、どついたろか。
「冗談ですよ、そんなに怖い顔しないでください」
無言だった。睨むでもなく、ただただ無言で見つめ続けた。めうめうは居心地悪そうに咳払いをした。
「……それでは女神の使徒枢木よ。時の女神めうめうの名において、あなたに神託を授けましょう」
「はいお願いします」
「苦しい時は胸中で三度私の名を唱えなさい。清き信仰を胸に宿し、女神に祈りを捧げれば、臆病な心はたちまちのうちに消え去ります。さすればその身に無限の勇気が宿り、いかなる敵をも滅することができるでしょう。いいですか、枢木くん。偉大なる神の名のもとに、必ずや神敵を討ち滅ぼすのです!」
「だから、冗談はもういいって」
「え?」
「え?」
……おい。せめて冗談であってくれ。精神論でどうにかできてたまるか。
神様オーダーに失敗する一因は、間違いなくこの女にある。先にこの女から仕留めるべきではないかと、半ば本気で考えた。
「……もういい、わかった。帰してくれ」
「あのー……。本当に、がんばってくださいね? 応援はたくさんしちゃいますから」
「わかったっての」
これ以上その呪わしい言葉を言わないでほしい。がんばれなんて聞きたくもない。がんばってどうにかなる問題なら、とっくにどうにかなっている。
「それでは、元の世界にお帰ししますね。時の女神めうめうは、いつでもあなたを見守っていますよ」
めうめうは可憐に微笑んだ。
瞬間的に視界が黒に染まる。まばたきをひとつ。気づけば俺は、元の草原に立っていた。
手のひらの感触を確かめる。最悪なことに現実感があった。夢だったらどんなによかったか。
とてつもなく気が重い。夏休みの宿題に手をつけないまま、新学期が始まってしまった時のように。人生をかけた戦いに挑む時ってのはいつだってこんな気持ちだ。
「あ、あの……? クル、さん……?」
不安そうな声がした。ミーシアだ。
「すまない、ミーシア。急用ができた」
「どうか、したんですか……?」
「本当にすまん。この埋め合わせは、必ず」
――もしも、人生が終わらなかったら。
果たせるかもわからない約束を積み上げる。できることなら果たしたい。だけど、それがどんなに難しいかはよくわかっている。
俺だって、こんなところで終わりたくはない。できることはやるつもりだ。
この人生を続けるためには、それしかないのだから。




