今日の柚子白さん。
深い藪が、がさりと揺れた。
がさ、がさ、と。山中の獣道を、藪を揺らしながら何かが歩いている。大きさは俺の胸ほどもあるか。揺れる藪の奥に目を凝らすと、銀色の毛皮のようなものが見えた。
ピッ、と短く口笛を吹く。歩いていた何かは一度立ち止まり、ゆっくりと方向転換した。
逃げていくのではない。向かってくる。それが近づくほどに獣の足音が鮮明に聞こえた。足を引きずる独特の音と、がふがふした荒い呼吸。むわっとした獣臭が香るまで近づいて、ようやくそれの姿が見えた。
あらわれたのは三ツ脚のイノシシだ。反り立つ大きな牙と銀色の毛皮を持つ、体長二メートル長の大物イノシシ。右後ろ足の中ほどから先が取れてしまっていて、血が固まった傷口が見えていた。
こいつが、今日の討伐対象だ。
俺の姿を認めたイノシシは、ふご、と低くいなないた。それを見て俺は一歩下がる。
武器は抜かない。威嚇もしない。俺の役目は囮だ、下手に刺激して逃げられてしまっては困る。
イノシシは前足で地を鳴らす。簡単には襲ってこない。聞いていたとおり、かなり用心深い性格のようだ。それでも俺という獲物を逃がす気はないようで、血走った瞳でギロギロと睨みつけてくる。
まだか、まだ食いついてこないのか。もう一歩下がると、イノシシは二歩距離を詰める。イノシシの呼気とともに、獣臭がますます強くなる。
いいぞ、もっとだ。もっと距離を詰めてこい。興奮しろ。判断を誤れ。こっちだ、誘いに乗ってこい――。
動いた。
事前動作のない、突然の突進。瞬き一つもない間にイノシシは俺に突っ込んだ。
それに反応し、背後の樹上から即座に二本の串が飛んでくる。
団子の串はイノシシの両目を精確に打ち抜く。最近のあいつは調子がいい。値段で選んだ武器のくせに、中々使いこなしていた。
目を抜かれたイノシシは瞬間的に混乱したが、猛スピードで動き始めた巨体は簡単には止まらない。俺めがけて突っ込んでくる巨体を紙一重で見切り、すれ違いざまにフライパンを抜刀。左後ろ足を刎ね飛ばした。
両後ろ足と両目を失ったイノシシは、勢いあまって頭から木に突っ込んだ。あれは脳もいっただろう。そう簡単には立ち上がれまい。
ここまでお膳立てすれば、後は仕留めるだけ。
「いきます!」
近くの茂みに隠れていたミーシアが、短杖を振り上げた。
「ファイアバレットっ!」
炎の弾丸がイノシシの頭を撃ち抜く。
くぐもった悲鳴が山中に響き、イノシシの巨体は動かなくなった。
*****
街に戻った俺たちは、一も二もなく風呂場へ向かった。
体中臭くてたまらなかった。泥まみれの汗まみれの血まみれだ。幸いにもギルドの近くには、そういった冒険者のための公衆浴場が備え付けられている。
体に染み付いた汚れを落とし、さっぱりした俺たちは、改めてギルド内の酒場に集まった。
「今日の依頼は疲れましたねー……」
ミーシアは机にへばりついた。柚子白はとっくに突っ伏している。俺はなんとか体裁を保っていたが、人目がなければ彼女らと同じことをやっていただろう。
本日の依頼は銀牙イノシシの討伐。それもただの討伐依頼ではなく、俺たちへの指名依頼だ。
事の始まりは一週間前のこと。地元の猟師が銀牙イノシシの大物を罠にかけたものの、そのイノシシは自分の足を引きちぎって逃げてしまったのだ。
三ツ脚になったイノシシは人間という脅威を学習する。山中に仕掛けられた罠を見破り、大人の人間を避けるようになるのだから手に負えない。ついには放たれた猟犬を返り討ちにしたことで、いよいよ冒険者ギルドに討伐依頼が出された。
その依頼に白羽の矢が立ったのが俺たちのパーティだ。大人は避けられてしまうなら、子どもを当てようと判断したらしい。
最近の俺たちは子どもながらに討伐依頼もやっている。大人向けの依頼も動じずにこなすことから、ガキどもにしては中々やるじゃねーか将来が楽しみだぜへへっ、的なポジションにうまいこと収まっていた。
「うー……。こういう依頼なら、請けないほうがよかったかもだよ……」
「指名依頼ですもん。断るなんて無理ですよ」
「だとしてもさぁ。もうちょっとこう、配慮とかあってもよかったんじゃないかなって、ユズは思うんですよ」
机に突っ伏した幼女は不平を訴える。まあ、柚子白が文句を言いたくなる気持ちはわからなくもない。
討伐だけならそこまで難しいものではなかった。だけど、問題は倒した後のことだ。
今回の依頼内容には、銀牙イノシシの死体を持ち帰るところまで含まれていた。せっかくイノシシを獲ったなら肉と毛皮もほしいと思ったのだろう。だけど俺たちを指名するなら、できればもう少し考えてほしかった。
山中に転がった二百キロ越えのイノシシの死体を、子ども三人でどうやって持ち帰れっちゅーねん。
その場で内臓を抜き、ミーシアの水魔法で毛皮に絡んだ泥をこそぎ落としても、それでもかなりの重量だ。山中なのでリアカーなんていう小洒落たものも使えない。結果として俺たちは、ひいひいと悲鳴を上げながら、巨大な死体を引きずるようにして下山する羽目になった。
「次からはポーター斡旋してもらおう。そうでもないとやってられん」
さんせー、と気の抜けた声が二人から上がる。自分の体重以上の荷物を担いでの山下りは、俺たちからすべての体力を奪い去っていた。
「まあでも、指名依頼だけあって報酬は良かったし。明日は休みにしようぜ。どっか遊びに行くか?」
「ユズは宿で寝てる……」
この中で一番若いのが、一番おっさんっぽいことを言っていた。ちなみに最近知ったのだが、ミーシア嬢は十四才。俺と同い年で、柚子白の一つ年上だ。
「あ、でしたらクルさん。よければ付き合ってもらいたいことがあるのですが」
はいなんでしょう。お出かけですか。いいですよ。
柚子白さん、聞きましたか? この子今、俺と二人でお出かけしたいって言いましたよ。これってデートですよね。もうそういうことでいいですよね。へへっ、つまりミーシアはお前じゃなくて俺を選んだんだよ。悪いな柚子白、この勝負俺の勝ちだ。
柚子白は机に突っ伏したまま俺を呪う。なんだ、まだまだ元気じゃねーか。俺たちは水面下で醜い争いをはじめた。
「ボク、魔女見習い――じゃなくて、魔法使い見習いをしていたって話は以前しましたよね。お師匠様に、教えた魔法を使いこなせるようになるまでは帰ってくるなーって命じられていたんですけれど、中々使いこなせない魔法が一つあって……。その魔法の練習に付き合ってもらいたいんです」
「休みにするってのに、熱心なもんだな」
「ボク、もっともっと強くなりたいので」
最近のミーシアはとても勤勉だ。実戦経験のかたわらで魔法練習に励み、使える魔法もどんどん増えている。俺たちパーティの評価が高いのは、実のところ彼女の存在が大きかった。
「いいけど、俺はそんなに魔法は詳しくないからな。力になれるといいんだが」
「あ、そこは大丈夫です。むしろクルさんにしか頼めないことなので」
本当は魔法のことなら大体なんでも知っているが、ミーシアの前では魔法は使わないようにしていた。彼女も別に、俺の知識や助言を期待しているわけではなさそうだ。
「その魔法、ファイアランスって言うんですよね。えっと……。初めての探索依頼の時のことって覚えてますか? ほらあの、ソウスケくん事件」
「ああ、まあな。忘れられないだろあれは」
「あはは……。ですよねー……」
あの依頼から結構経つが、あの日のことは記憶に新しい。なんかもう、色々しっちゃかめっちゃかだったけど、全体的には楽しい思い出として覚えている。
ソウスケくん事件で思い出したが、ファイアランスならあの時使っていたはずだ。トレントを倒した魔法がそれだった気がする。
「いつもは何回やってもうまくいかないファイアランスが、あの時だけなぜか一発で成功したんですよ。だから、もしかすると、あの時と同じ条件を揃えたら簡単に成功するかなって思って……。だから、その……」
ミーシアは耳まで顔を赤くしていた。いや待てお前、何を言い出すつもりだ。そんなに恥ずかしいなら言うな。お前が言おうとしていることは、戦争の火種だぞ。わかっているのか……ッ!
「ぼ、ボクを……。だっこして、もらえますか……?」
俺はすんっとした。
すんっとしながら、水面下で柚子白と死闘を繰り広げた。何が何でもここで殺すと言わんばかりの呪いの嵐を、必死になって食い止める。こいつ、容赦ねえ……! 本気だ、本気で俺を殺す気だ……!
くそっ、どうすればいい。どうすれば俺は生き残れる。ミーシア嬢はもじもじしながら俺の返事を待っている。柚子白は心を失った鬼と化した。ミーシアを傷つけることなく柚子白の怒りを鎮めるには、俺はどうすればいい……!
人はすべてを得ることはできない。この日俺は、一つを得るために一つを失った。だけどそれを悔いはしない。きっとこの痛みもまた、積み重ねていく青春の一ページなのだから。
そういうわけで、俺は明日ミーシアとデートすることにした。
さあ……殺ろうぜ……ッ! 柚子白ッ!




