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第3章ー1 奉天

第3章の開幕です。

 柴五郎大佐は自らの指揮する第3海兵連隊の人員を見ながら、心の中でいろいろと物思いにふけらざるを得なかった。

 かつて新選組の末裔として精鋭を謳われ、実際に土方歳三提督や斎藤一提督が直接指揮して鍛え上げた部隊が、今やこのような現状にあるとは。

 泉下の土方歳三提督は驚愕しているだろうし、斎藤一提督には決して見せられない。

 これでは、新選組と言うより会津白虎隊の末裔ではないか。


「いいか、弾を惜しむな。敵を薙ぎ払うように機関銃は撃つのだ」

 203高地攻防戦を生き抜いて下士官に昇進した古参兵が、機関銃の撃ち方を新兵を指導している。

 他にも古参兵が新兵を一生懸命に短期間で前線で戦えるように指導していた。

 その新兵の多くが10代、20歳未満の若者だった。


 柴大佐は、士官の死傷が相次いだことから、軍令部第3局勤務から第3海兵連隊長への転勤を命ぜられて、1904年の年の瀬に大連港に到着した。

 そして、第3海兵連隊の再編制等の任務にあたることになったのだが、戊辰戦争の悪夢を時々思い出す柴大佐にとっては、心をえぐられる現状が待っていた。


 第3海兵連隊の兵の多くが10代だった。

 怖くて柴大佐自身は詳細を確認できていないが、ざっと見る限り第3海兵連隊の総員の内過半数が10代にしか見えなかった。


 10代といっても全員が18歳にはなっている。

 愛国心の熱狂に駆られて海兵隊に志願してきた若者揃いだが、そのことが却って柴大佐に会津白虎隊の悲劇を思い起こさせることになっているのは皮肉以外の何物でもなかった。

 もちろん、会津白虎隊は17歳未満から成る部隊であり、18歳以上から成る海兵隊は会津藩で言えば青龍隊以上ということにはなるのだが、若者揃いということから柴大佐には会津白虎隊をどうしても想起させてしまうのだった。


 そして、今の海兵隊には、創設以来白兵戦では無敵の伝説を誇る精鋭の面影は今や無かった。

 西南戦争の田原坂の抜刀隊の栄光、日清戦争での東学党の乱の鎮圧、台湾民主国の黒旗軍との死闘、義和団の乱の際の鬼神と化した斎藤一提督の奮戦等々により、白兵戦をサムライである海兵隊に挑むとは笑止とまで日露戦争が始まる前に謳われていた海兵隊の精鋭は林提督以下、日露開戦前から生き残る者は幾人ぞ、という惨状にあった。


 白兵戦の練度は最早、望むべくもなかった。

 203高地攻防戦が日露戦争における最期の海兵隊の白兵戦の栄光だった。

 義和団事件の北京攻防戦で危ういところを第3海兵連隊を先鋒とする海兵隊の白兵戦によって助けられていた柴大佐にしてみれば落涙せざるを得ない現状だった。


 その海兵隊が林忠崇提督の下で至急、強化に努めているのが火力だった。

 特に機関銃の増備等による近接化力の強化は最優先課題とされた。

「練度の低下は火力の強化で補うしかない」

 というのが林提督の主な主張で、このことに本多海兵本部長ら海兵隊上層部はこぞって賛成した。


 実際にその方法しか、新兵揃いの海兵隊を急速に強化する方法は無かった。

 本多海兵本部長の指導の下、半分密輸紛いの方法まで駆使して、海兵隊は機関銃等の増強に狂奔していた。

 そして、1905年の正月を大連近郊で迎えた後、海兵隊は営口へ海輸され、そこから前線へと徒歩で移動することになった。

 柴大佐はため息を吐きながら、第3海兵連隊の移動の準備を進めることになった。

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