第4章ー19
小村外相が米国から帰国します。
小村寿太郎外相が帰国したのは、10月16日になっていた。
講和条約交渉のためにくる過労から小村外相は持病の肺結核を悪化させてしまい、暫く米国で入院していたのである。
退院してようやく小村外相は帰国することが出来た。
横浜港には家族が出迎えに来ていた。
小村外相はほっとした。
自分も不本意だったポーツマス条約調印に不満を覚える国民によって、家族に危害が加えられているのではないか、と不安だったのである。
横浜港には師匠の小倉処平や元老の井上馨や山県有朋らも小村外相を出迎えるために来ていた。
「てっきり石を投げられるかもと心配していましたが、ここまで平穏とは思いませんでした」
小村外相は妻子の出迎えを真っ先に受けた後で、次に顔を合わせた小倉に言った。
だが、小倉は微妙な表情を浮かべている。
小村外相は不安に駆られて、問いかけた。
「何かありましたか」
「恨むならわしを恨め。満鉄は米国の鉄道王ハリマンの提案を受け入れて、日本政府とハリマンが共同経営することになった。伊藤博文閣下が北京で清国と話し合いをするために既に出発しているはずだ」
小村外相は脳天を天秤棒で殴られたような衝撃を受けた。
ハリマンが暗躍しているのは、外務省からの連絡を受けて知っていた。
それを潰すために、ハリマンに対抗しているモルガン財閥からの満鉄経営のための融資提案を携えて帰国したのに、既に共同経営が決まった後だったとは。
「何故です。何故、血を流していない米国にむざむざ満鉄の鉄道利権を譲るのです」
「君のその態度が原因だ」
小村外相の激情に駆られた発言に小倉は冷たく言った。
「バルチック艦隊が太平洋艦隊に成り替わって健在な状況で、米露を敵視することはできない。そして、米国は血を流していないと君は言うが、多額の金銭援助を米国は日本にしてくれて、日露間の講和も取り持ってくれた。これだけ、日本に肩入れを米国はしてくれている。それなのに米国は血を流してくれていないと恨み言を君が言うとはな」
小村外相は沈黙した。
「桂首相は君の意見を聞いてからと言っていたが、松方正義閣下以下全ての元老が、君の意見を聞く必要はない。君は反対するに決まっていると言ってな」
小村外相は周囲を見渡した。
山県有朋や井上馨も自分を冷めた目で見ている。
暖かく出迎えてくれていたのに態度が急変していた。
「念のために言っておく。閣議は欠席していた君を除く満場一致でハリマン提案を受諾している。寺内陸相も山本海相も露と対抗するためには、今後、英米との協調が必要不可欠との意見だった。そのためにもハリマン提案を受諾することが必要だ」
「しかし、それでは満州にいる将兵が納得しないと」
小村外相は力無く反論しかけた。
「ああ、満鉄日米共同経営はむしろ満州軍総司令部が言いだしたことだ。露に対抗するために米国も引き入れるべきだとな」
小倉は追い討ちをかけた。
「分かりました」
小村外相は肩を落とした。
すまんな、小倉は小村外相に心の中で詫びた。
師匠として、不肖の弟子に自ら引導を渡そう、と覚悟を固めての今回の行動だった。
交渉の手段として強硬論を吐くのはいい、しかし、実際にこれ以上は日本に継戦能力は無いのに講和会議の席を蹴って帰国しようとしたのは許される行動では無い。
ハリマン提案を既成事実化しておかないと、小村は何としても潰そうとするだろう。
そのために小村外相が帰国する前にハリマン提案に対して本調印までしたのだった。
桂首相は今回の顛末について自ら話すつもりだったが、小倉は自分が話すことを頼み込んだ。
ハリマン提案受諾に動いた自分なりの弟子へのけじめの付け方だった。
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