8(イザーク視点)
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目を赤くしたミュリエルとともに公爵邸に戻ると、侍女たちの視線が冷たい。これはイザークが泣かせたとか、きちんと対応せず傷つけたと思われているのだろう。
しかし、イザークが至急公爵夫人に取次を頼むとかなり態度が和らいだ。
イザークでは対応できない事案が発生したと受け止められたのだろうか。
レックスもこんな目でずっと見られているなら、仕事嫌いでも喜んで領地に行っただろう。女性からの物言いたげな冷たい視線ほど怖いものはない。「言わなくても何が悪いか分かってるんでしょうね?」「こいつ反省する脳みそあるの?」「こんな奴、口をきく価値もないわ」とでも言いたげに体に突き刺さるあの視線。
「ピータース男爵家の娘が神殿に来て、ミュリエル様に愛人の件をばらしました」
優雅に紅茶を飲んでいた公爵夫人はイザークの言葉に動きを止める。一瞬の静寂。
やがて、彼女は机の引き出しを開けて以前渡した資料を取り出した。
「お金の動きは止めたけど、レックスが領地に行ったから連絡がうまくいっていなかったのかもしれないわね。レックスからその娘に、ね」
「そうかもしれません。契約書を交わしていないことは確認済ですし、支払いなどもされていませんから」
「領地にいるはずの娘がなぜ……あぁ、長女は学園に通っているのね。会いに来たのかしら」
公爵夫人の指が資料の上を彷徨う。
「随分と馬鹿にしてくれたものね、たかだかピータース男爵家が」
パンっと机の上の資料を公爵夫人が叩く。
「愛人は何をするのかよく分からない、ひとまず奥様であるミュリエル様にご挨拶を、と言っておりました」
「あぁ、そういうタイプなわけね」
「タイプ……ですか?」
分からないという顔をしたイザークに公爵夫人は視線を合わせた。
「あなたのお母様はまっすぐな人だもの。分からなくても仕方ない。こういうタイプは、最初は殊勝な態度をとるの。『私はあなたよりも下』『あなたの方が素晴らしい』『私は何もできません』ってね。人の下に潜り込むのよ。それで助けてもらって、庇護してもらう。でもひとたび自分が上に立てそうだと見るや否や牙をむくの。弱弱しいウサギに見せかけた化け猫よ。あの男爵家の娘はそういうタイプよ」
イザークは考えてみた。弱弱しいウサギが化け猫に変化する。良く分からない。
「レックスは外面がいいから、『聖女である妻は自分を癒してくれない』とか『自分より他人に寄り添っている』なんて言ったんじゃないかしら。それで、何の取り柄も爵位も金もない男爵家の娘はレックスの愛人になれる、自分の方が癒せるから聖女より上だと勘違いして上に立とうとしたわけ。愛人というのは決してでしゃばらず、妻を立てるものよ。貴族の端くれなのに愛人が何をするか知らないなんて、山奥で犬にでも育てられたんじゃないかしら」
辛らつな言葉にイザークは思わず目を見開いたが、公爵夫人の言いたいことは理解できた。
「抗議をしていただけますか?」
「当たり前よ。舐めた真似をしてくれたものね。この男爵家の長女、婚約者がいるわ。かわいそうね、身の程知らずな次女のせいで婚約者がいなくなる事態になるなんてね。あんな借金だらけの男爵家に幼馴染以外の誰が婿に来てくれるというのかしら。まぁ、ピータース男爵家はなくなるでしょうけど」
あぁ、この人は本当に公爵夫人なのだ。イザークは夫人の言葉に思わず震えた。
いくらお茶会で評判が悪くとも、れっきとした公爵夫人だ。この前までがおかしかっただけなのかもしれない。イザークには今、夫人がとんでもなくまともに見えた。
イザークはずっと公爵夫人が自身のことしか考えていないのかと思っていた。そんなことはない。彼女はスタイナー公爵家のことを考えて行動しているのだ。むしろ、自身のことしか考えていないのはスタイナー公爵の方ではないか。
息子をきちんと制御せず、自分も愛人を囲って足蹴く通う。スタイナー公爵家のことを考えるなら、そんなことはしないはずだ。レックスをきちんと制御し、聖女であるミュリエルを尊重し、公爵自身がピータース男爵家やシシリー伯爵家にさっさと対処すべきだったのだ。腰抜けスタイナーの汚名をそそぎたいならば。
イザークは唐突に腑に落ちた。
目の前にいるのは、夫に寄り添ってもらえなくても、夫からの愛を諦めながらも子供と家を守るために必死になった女性なのだ。努力が哀れなほど反転してしまっている。周囲からは自分のことしか考えていない、落ち目の公爵家にせっかく嫁に来た聖女をいびる公爵夫人だと見られている。
この家で流産の後から一番ミュリエルを守っているのはこの人だ。もしかしたら、いびりながらも守っていたのかもしれないが、そのあたりの複雑なことはまだイザークには分からない。
今のレックスを見ていれば、絶対に結婚しない方がいい相手だというのは分かる。
「神殿からも抗議をしてもらってちょうだい。ホルフマン侯爵家も何か手を回すでしょう?」
「はい」
「では、そうして」
話は終わりだとばかりに公爵夫人はもうイザークを見なかった。
不器用で我慢強い人だ。
イザークは礼をして部屋を後にした。




