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ミュリエルの頬にイザークの指が触れたのはほんの一瞬。
でも、その一瞬でミュリエルの体は震えた。じわじわと体の奥からせりあがってくる感覚がある。
「二人で逃げてしまいましょうか」
「え……?」
イザークはミュリエルに向かって笑うと、目線を遠くに移す。
「考えたことはないですか? 自分がなぜ生まれてきたのか。どうせこの世に誕生してから人は皆、死に向かって生きていくというのに」
どうしてだろう、イザークにもっと見つめてほしい。私から視線をそらさないで欲しい。
「俺はあなたに会うために生まれてきたんだ。あなたを見つけて、あなたと幸せに生きていくために」
すっとイザークの視線がミュリエルのところに戻ってくる。
朝晩は肌寒いが昼間は暖かい。でも、ミュリエルはなぜか震えていた。寒いわけじゃない。むしろ嬉しいのだ。
レックスに「ありがとう」と言われた時よりも、「結婚できてうれしい」と言われた時よりも。今まで過ごしたレックスとのどの瞬間よりも今が嬉しい。
体の奥からあがってくる感覚。これは歓喜だ。
同時に罪悪感が襲ってくる。だってミュリエルはレックスと結婚しているのだ。それにミュリエルは聖女だ。
「でも……私は……」
「あなたは何のために生まれてきたか考えたことがありますか? レックス様に尽くして吸い取られるためですか? 聖女として力の限りずっと人に尽くすためですか?」
「そんなことは……だって私はもう結婚しているし……」
分からない。そんなこと考えたこともなかった。
肩にかけたノンナからもらったショールをぎゅっと握る。
「今日は時間切れのようです」
「え?」
レックスは振り返っているミュリエルの後ろに視線を向けていた。
「やっぱり、ミュリエル様でしたか。護衛の方に見覚えがあったので」
しばらく姿を見ていなかったレネイ嬢が立っていた。
「その節はお世話になりました」
レネイ嬢は深々と頭を下げる。ミュリエルはベンチに座るよう促した。
「お姿が見えたのでお礼が言えたらと思って近づきました」
「途中でイーディス様に任せてしまってごめんなさいね。あれから何か決心はついたのかしら?」
「はい。父にすべて話しました。もともと婚約が決まっていた方とは婚約解消したんです」
***
イザークはベンチの後ろで苦々しい表情をなんとか隠していた。
別に告白を邪魔されたからではない。目の前の無神経な女にイライラしているだけだ。
ミュリエルも自分と同じ夢を見ていたと分かって歓喜した。
おそらく直近の前世ではミュリエルと年を取って一緒に生きていくことは叶わなかった。今回はミュリエルの側で、ミュリエルがレックスと生きていくのを見ているだけの役回りなのかと思っていた。彼女を置いて死んだ罰なのだろうかと考えた時期もあったが、何よりも大切なのはミュリエルの幸せだ。
彼女が幸せならばそれでいいと思っていた。でも、それは自分を騙すための嘘だ。
彼女と一緒に生きていきたい。自分のためだけにミュリエルを傷つけるレックス・スタイナーではなく、自分を選んでほしい。
彼女も同じ夢を見ていたと知って、そう思ってしまった。嘘で覆い隠していた心が暴かれてしまった。
それにしても。
このレネイ家の娘はなんと無神経なことか。
妊娠しているからか、無意識にミュリエルの前でも腹を何度も撫でたり手を当てたりしている。母親になるのだから仕方のないことなのかもしれない。
でも、今のミュリエルの前でそれはあまりにも無神経だ。
婚約しているにもかかわらず、他の男と通じて妊娠した。レックス・スタイナーの普段の行動を利用して何とか妊娠を誤魔化そうとし、ミュリエルに諭されて助けてくれと泣きついた。
そんな女がなぜミュリエルの前で幸せそうに腹を撫でているのか。ミュリエルは落ち込んでいるというのに。ミュリエルが流産した話はもう漏れてしまっているはずなのに。
レネイ家の娘の婚約相手だった伯爵家の令息にも別に好きな相手がいたようで、慰謝料を払う形で婚約解消したようだ。商売については事業の連携はしていくらしい。
なぜだろうか。ミュリエルは何か悪いことをしたのか?
なぜこんなに人に優しく尽くしているのに、ミュリエルは救われていないように見えるのか。なぜレネイ家の娘はあれほどのことをしたのに、罰を受けることなく幸せそうにしているのか。
遠くにノンナと商会の男が見えた。
イザークはミュリエルが見ていないのを確認し、手を上げて合図をしてみた。イザークが間に入ったところで、ミュリエルは聖女としてこの女の話を聞き続けるだろう。
ノンナは立ち止まってこちらをうかがっていたが、気付いてくれたらしい。ボールを投げて取って来いと言われた犬のようにかなりのスピードでこちらに向かって走ってきた。以前も一緒にいた男は完全にその場に取り残して。




