灰庵
目の前に広がった、果てがないと思えるほどに切り伏せれた空。
その景色にニアはわずかな驚きを得たものの、先ほどの力を目の当たりにしたからこそ、冗談のようなその力に小さく笑ってみせる。
そしてその光景に驚きを覚えたのはニアだけではなかった。
「ほんと、いつみてもすごいです…ね…?」
だが、その言葉は語られると共にだんだんと失速していき、やがて消滅する。
土埃が晴れたことにより見えた景色に少女は絶句するように体を硬直させ、変わってしまった地形を見るとそそくさと男の元へと歩み寄る。
「先生、あの丘を切るって言うのはわかったんですが、どうして斜めに切ったんですか?普通横ですよね??何回地形変えたら気が済むんですか?私もう知りませんからね。セレスティアの人たちにまた『王憲の間が壊れたらどうするんだ』って怒られても」
「どうせそんなのないってー、伝説だか何だか知らないけど王憲の間ってまだ誰も見たことないんでしょ?どこにあるのかも知らないし見たことないのに何であるって確信もって言えるのか意味わからん」
「もう私は対応しないですから…あ、ほら来ましたよ、私もう知らないですからね」
見ると、巨真岩壁のそばに建てられた門はゆっくりと開き、そこから数人の黒い服を着た男たちが出てきていた。
目的地は不明であるが、少女の慣れたような口調と男のあわあわと焦る態度から目的地は明確であった。
「え?嘘、あの子いないと僕今までにも何回か怒られてるから今度こそ大変なことになっちゃうかも」
ニアもまた少女の発言から察するに、今回ほどではないにしろそれなりの規模をやらかしたのは一度や二度ではないと容易に理解できた。
そして同時に、今尚も迷うことなくこちらへと足を運ぶその者たちもまた、その度に男に対応しているのだろうとも。
だが男は懲りずに再び自然を破壊したのだ。
ニアとしては感謝してもし足りない事なのだが、それを幾度も繰り返しているとすれば話は別だ。
その時、ニアはようやく先ほどまで自らの体を支えていたはずの少女が何処にもおらず、代わりに自身が木へともたれかかっていることを理解する。
同時にだんだんと近づいてきていた黒い服の男たちはついにニアたちの元へと辿り着き、
「灰庵殿…もうしないって約束だったはずでは?」
「ごめんって、ついテンション上がっちゃったっていうか、とにかくほんとにもうしないから…お願い!今回だけ見逃して!」
「前回もそう言ってましたよね。だめです」
「お願いだってー」
「あなたが我々の想像を超える力を持っていることはわかっています。おかげで我が国が守られた事があることもまた事実。ですが、我々はあなたのその力を私情で好き勝手に振るうことを固く禁止し、そしてあなたもそれに同意したはずですが…」
ふと横へと目をやった黒服の男は、派手に変わってしまった地形に隠すことなく大きなため息を吐く。
そうして一歩を男…灰庵の元へと踏み出し、その耳元へと寄ると、
「また随分と派手にやったな、言っとくが今回は手助けできんぞ」
「はぁ…わかったよ」
灰庵にのみ聞こえる声量で黒服の男はそう語りかけ、同時に灰庵は諦めたように深いため息をつく。
そして今なお何が起きているのか理解できず呆気に取られるニアへとその目を向けると、
「ごめんね、ちょっと行ってくる」
めんどくさそうに頭を掻くと、灰庵はそんな言葉を残し、黒服の男たちに連れられていく。
そうして灰庵が連れて行かれてしばらくしたころ、近くの草木はガサガサと揺れ、同時にいつの間にか消えていた少女が姿を現す。
「先生はまた連れて行かれましたか?」
「そうだが…どこ行ってたんだ?」
「先日薬草を使用したので調達に。ちょうど近くにいい場所があるんです。それと、心配しなくていいですよ、先生はこれまでにも色々やらかしてますけど、結局すぐ帰ってくるので。今日も夜までには戻ってくるんじゃないですか?」
「心配じゃないのか?あの人だってただの人間だろ、この国に王みたいな人がいて、もしその人の気にでも触れたら大変なことになるんじゃないか…?」
「ないですよ。上のお偉い方々もそこまで馬鹿ではありません」
当たり前のように、迷いの一つもなく言い切った少女へニアはわずかに疑問を浮かべる。
「なんでそんな信用できるんだ?」
「先生が強いからです。先生がもし居なくなれば、この国は力の大部分を失います。それほどまでに先生はすごくて、この国にとって必要な人なんです」
「そんなになのか」
「そんなにです。私も先生の本気は見たことがありませんが、すこし力を入れただけであれなら、本気を出せばこの国がどうなるかなんで容易に予想できます」
少女の語った言葉。それは逆に言えば、灰庵一人でこの国よりも戦力が上回っていると言うことだった。
そして先ほどの光景からしてそれが決して誇張した言葉ではないということをニアは理解していた。
「この国の人達が弱いと言ってるわけではありません。事実、先生がいなくともこの国は歴史の中で片手で数えられるほどしか負けたことはありません。ただそれ以上に先生が強すぎるという、それだけのことです」
心配の一つもなくそう語った少女は、片手に薬草を握りしめると再びニアの体を支え、来た道をゆっくりと引き返していく。
そしてしばらくののちに小屋へと辿り着くと、少女はニアを近くのソファへと横たわらせると何処かへと歩いていき、少しして再び戻ってくる。
その手には木刀が握られており、改めてニアはこの少々が灰庵の弟子なのだと理解する。
「それと、先ほど聞こえてきたのですが、貴方も先生の弟子になるということらしいですね」
「あぁ、今は腕がこんなだが、治ったら正式に弟子入りするつもりだ」
「では私の方が先輩ということですね?」
突然のその言葉に一瞬反応が遅れたものの、言われてみれば確かにそういうことになるのだろう。
「先輩…?ああ、一応それで間違いはないが…」
「ならこれから私のことはエリシア先輩と呼んでください」
ドヤ顔と言わんばかりの表情を浮かべる少女…エリシアは、間違いなく今日の中でいちばん豊かな表情をしていた。
おそらく、ずっと自分の後輩ができることを楽しみにしていたのだろう。
意図せずともそれを察せられる程までにエリシアは嬉しそうな笑みをこぼしていた。
「それでエリシア先輩、これから何をするんだ?」
「ただの素振りですよ、一応1日の日課は終わったんですけど、さっきの先生見てたらまたやる気に燃えちゃって」
「素振りが日課…いいな、俺も腕が治ったら一緒にしていいか?」
「いいですよ?ただ、私は先輩なので後輩の貴方の型がズレていたりしたら、訂正させてもらいます。えっと…」
「…そういえば、自己紹介がまだだったな、俺はセルニア。皆んなからはニアと呼ばれていたし、ぜひそう呼んでほしい。それと、改めて助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。私はエリシア、一応先生が連れて行かれたそこのセレスティア王国に家があって、先生の一番弟子です」
「家…、もしかして一人暮らしなのか?」
「えぇ。親は居ません。ですがそのおかげというべきか、自炊はお手のものなのでご心配なく」
心配そうに見つめるニアを安心させるためか、エリシアは気丈に振る舞い、同時にセレスティアの方へとその目を向ける。
「俺も居ないんだ。親の記憶なんて何処にもない。けど、物心つく前から俺の前にはよくしてくれる人がいたから、あんまり気にはならなかった」
「いい人たちだったんですね」
「…だから、俺は立ち止まるわけにはいかないんだ」
意味深に呟かれた言葉は改められたニアの決意であり、だからこそエリシアは小さく笑うと、
「では、ここから上り詰めましょうか。一歩ずつ、慎重に」
「…あぁ!よろしくお願いします、エリシア先輩!」
軽い自己紹介を終えた2人は互いに小さく笑ってみせる。
そうしてエリシアは稽古をするべく外へと出ていくが、灰庵以外に見られる事に慣れていないのか、その動きは何処か固くなっていた。




