その男、「最強」にて
2人が出かけたことで1人になった部屋の中で、少女は黙々と掃除をしていた。
両手にはそれぞれモップと塵取りが握られており、慣れた手捌きで掃除していくその様から、男が日常的に少女に掃除等を任せているのだということを容易に想像できた。
だがその時、不意に部屋の扉は開かれ、2つの影が部屋の中へと足を踏み入れた。
「戻ってきたよー…って、部屋が綺麗になってる…!」
男は早々に部屋の中が出かける前よりも綺麗になっていることに気づき、子供のようにはしゃぎ回る。
そうして埃が立つと母親のように文句の言葉を口にする少女。
互いになんの気無しに繰り広げるその光景は、まるで親と子が逆転したかのようであり、男の手から離れ、ニアは近くのソファに倒れ込むように横たわり、その光景に小さな笑みを浮かべる。
2人は再びいつかの家へと戻ってきた。
だがそれは外から見た際には家というよりも少し大きな小屋という印象を受けた。
「いくら自分の家じゃないとしてもあんだけ汚いのは嫌なんです。元々もうすぐ片付けようとは思ってたので、ちょうどよかったです」
「そう?ごめんねー、ほんとありがとー」
慣れた口調で言葉を並べる少女に、男もまた慣れたように感謝の言葉を伝えていた。
おそらくこの会話も今回が初めてではなく、既に何度かしているのだろう。
先生って言ってたけど、ほんとにこの人であってるのか…?騙されてるんじゃないだろうな…
そんな男があまりにもだらしないせいか、ニアの内心には、少女がこの男を『先生』と呼ぶ事に対しての疑問の念が浮かんできていた。
それもそのはず、今の所男の実力をニアは一切感じ取れていなかった。
強い者にはそれなりの風貌、風格がある。
ニアは今までの人生の中で幾度となく強者と対してきたことで、図らずともそれを察知できるようになっていた。
だが男はそれらを一切身にまとっておらず、ニアの目に映るのは文字通りただのだらしない男だった。
そうして思考を凝らすニアに男もまた気づいたのか、その考えを当ててやろうというふうにニヤリと笑い、しばらくの沈黙ののちに、
「お、さては僕があまりにだらしないからほんとは強くないんじゃない?とか思ってるでしょ。だよねー、わかる」
「自覚はあるんだな」
見事にニアの思考を打ち抜いた男は自身でも自覚があるのかうんうんと頷いていた。
その態度が、その仕草がニアにとってはさらに男の実態を不審がる要因となり、だが男は不意に何かを思いついたかのようにニアへとその目を向けると、
「そりゃあね、まぁもし疑ってるんなら丁度いいや、もうすぐエリシアとの稽古の予定だから、良ければ一緒についてきてよ」
「邪魔になるんじゃないか?」
「まさか。怪我人の一人や二人いたくらいで何も邪魔になんてならないよ。それに、僕が見せたいのは稽古の様子じゃない」
「稽古の様子じゃないなら何を…」
先の見えない男の言葉に首を傾げるニアへ、男は悪巧みをする子供のような笑みを浮かべてみせる。
「まぁまぁ、僕はちょっと遅れていくから先に2人で行っててよ。エリシア、その子に肩を貸してあげて」
「え?あぁ…」
「さて、では行きましょうか」
「ごめんね、すぐ行くから」
伸ばされた腕にいつの間にかニアの体は支えられ、少女は小さな合図と共にニアの歩幅に合わせるようにゆっくりと歩き出す。
少女にとっては慣れた光景なのか、疑うそぶりもなく外へと出てきた2人は少し歩いた先で男が出てくるのを待っていた。
出会って間もないためか、2人の間にはわずかな沈黙が訪れた。
気まずさから視点を一箇所に定めることなくあちらこちらへと彷徨わせるニアは、遂に沈黙に耐えられなくなり話題を切り出した。
「…ちょっと聞いてもいいか?」
「はい、なんでも」
「天啓ってなんなのか、教えてくれないか?」
それは先ほど男が口にしていた、見慣れない単語。
スキアとの戦いに使った力を見てその言葉を発したことから、大まかなことは似ているのだろうとニアにも予想できたが、この世界に落ちてきた以上知識はあるに越したことはないと考えたのだ。
「そうですね、伝え忘れていました。では僭越ながら、説明させていただきますね」
ニアの言葉に少女はハッとした表情を浮かべ、この世界の当たり前をニアがまだ知らないのだと改めて認識すると、問いに対する回答を語り始める。
「天啓。それはこの世界の約半分ほどの人が持つ、いわば異能のようなものです。生まれながらに持つ者もいれば、ある瞬間を起点に目覚める者もいます。何を基準に持つものと持たざる者に分別されるのか、それは未だ誰も知り得ない謎として世界に存在していますが、かくいう私も先生も天啓を持っておらず、いわば一般人に他なりません」
「なるほど…」
「あなたの使っていた力はルイストと呼ばれていましたが、念のためあの力が何を媒体に使用されているのか教えていただけますか?」
「媒体…ルイストは自分の中にあるエネルギーの結晶みたいなのを用いて、自身の想像を現実に引っ張り出す…みたいな。だからその想像を自分自身に定着させるために、何回も繰り返し行使することによってようやく一つの形にまとまるし、現実に出す力の規模に応じて必要なエネルギーも増えて、無理に使用すると脳が軽くショートする」
ニアの言葉に少女は納得したようにわずかに俯く。
だが数秒も経たないうちに再びその口を開くと、
「天啓はその名の通り天からの啓示。ルイストと呼ばれる力のように様々な力に変化することはなく、用いれる力は授かった力ひとつとなります。天啓も内に秘めた力を用いるようで、原理的には天啓とルイストは似通っているのですが…」
要するに、『使用するその瞬間から完成系として扱うことができ、その威力も本人の技量によって上昇。だが代わりに1人に一つしか持ち得ない』ものが天啓であり、
その反対に『本人の想像力次第でいくつもの技を持つことができるが、そこに辿り着くまでに途方もないほどの試行錯誤が必要』なのがルイスト、と。
ニアの説明を聞いたエリシアは静かにそう結論づけ、納得する。
だがその時、不意にエリシアは長考するその思考を切り上げる。
そうしてエリシアが目の前へとその目を向けたその時、
「ごめんね、急いだんだけどちょっとかかっちゃった」
家、もとい小屋の扉は開かれ、先ほども聞いた間の抜けた声をした男が外へと現れた。だが、
「…別人?」
「同じ人ですけど、その反応はすごくわかります」
「ん?エリシア、それはどう言う意味かな?」
ニアの待っていた男はボサボサの髪をした不恰好な男だったはず。
だが出てきた男はそんな男とはまるで違い、髪は整えられたのちに後方にて結ばれたことでうなじあたりへとかかっており、服装は先ほどと同様ではあるものの一切のシワがなく、きちんと着こなされており清潔感があった。
腰には少女と同じく刀がかけられており、誰が見ようと別人かと思うほどのその変貌っぷりにニアは空いた口が塞がらずにぽかんとしてしまう。
そして驚きに目を見開くニアへ、少女は理解の意を返し、男はそんな少女へ困ったような表情を浮かべてみせる。
「どういうことって…まぁとりあえず、この人はさっきの人で間違いないです」
「さっきの人て、一応先生なんだよ?」
何処か不服そうな反応を示す男を置き、少女はニアへと深い頷きを持って同一人物であることを理解させる。
少女もかつては同じ反応をしたのだろう。ニアへと理解を示すその動きは、自然なほどに慣れた動きだった。
「本当にさっきの男なのか?化けて出たと言うわけでは」
「同一人物だし死んでないよ」
「すまない、少し質問に答えてもらえるか?」
「みんなして、そんなに信じられない?まぁいいけど」
申し訳なさを抱きつつも、念のためと言わんばかりにニアは先ほど見た男の情報と一致するかを確かめるためにいくつかの問いを投げかける。
だが男は今までにも何人かに、あるいはニアの隣に立つこの少女にも同じような質問をされたことがあるのか、慣れたような口調でニアの疑問へと迷うことなく返答してみせた。
「———だよ。それで他に質問はない?これで証明になったならいいんだけど」
「あぁ、もうない。疑ってすまなかった」
「いいよいいよ、君の場合はすぐに疑問が晴れたからよかったけど、この子の場合1週間くらいは別人って言って認めようとしなかったからね」
一通りの質問に全て答え終わると、ついに同一人物だと認め謝罪を口にするニアへ、男は少女へと目を向けながらそう口にする。
そして目を向けるニアから逃げるように顔を逸らすその少女は何も言葉を返さず、だがその顔に『仕方ないと思う』と書いてあるのがニアには伝わった。
「それで、出てきたはいいけど何をするんだ?薬草探し?」
「それでもいいけど、君腕使えないでしょ」
「…それもそうだな。…でもじゃあ何を…」
ニアがスキアにより潰されたのは左腕であり、一見すれば右腕無事なようであった。
だがその実右腕もまた元の世界で左腕ほどではないものの重傷を負っており、今のニアは嘘偽りなく両腕をほとんど使えない状態だった。
「この時間はよくここで訓練しててね。特に設備とかはないけど、まぁやりたいようにやってるんだよ。あれも今は丘みたいになってるけど、ちょっと前はでっかい山だったんだ」
「丘?」
そうして男が目を向けた先にあったのは丘というよりも大きな山であり、緑の茂るその風貌が、より一層丘という印象を失わせていた。
そうして他に丘があるのかと辺りを見回すニアへ、男はふと目の前の山を指さすと、
「あれだよ」
「ちょっと前…?だってどう見たってあれは…」
改めて伝えられた目の前の光景に、ニアは疑問を抱かざるを得なかった。
何故なら男が指を指した丘の頂上には先ほどと同じく緑が生えており、男の言う通り昔は山だったとしても、それからの年月はゆうに100を超えているだろうと予想できたからだ。
「まぁいいんだよ。…さて、ここに君を連れてきたのは、単純に僕が力を見せたいからだよ。最初は恩人に礼をするためだったんだけど、君は僕の力を疑ってるみたいだし、丁度いいかなって」
「力を見せる…?でもここには何も切るものなんて…」
「さっきから言ってるじゃない。あるよ、そこにでかいのが」
男の言葉に疑問を抱き、切れるものなど何もないと考えるニアへ男は再び目の前の丘を指さした。
「…?、あれは切るものじゃないし、切ろうと思って切れるものじゃないと思うんだが…」
「そう、普通はね。でも僕は一応こんなでもさ…」
と、男は腰にかかった刀へと手を伸ばし、鞘から抜き出すと軽く横へと振り抜いてみせる。
瞬間、振り抜いた一閃に呼応するように辺りの空気は切り裂かれ、生じた風圧が辺りの木々を激しく揺らす。
それは男にとってただの振りであり、何の意図もない行動だった。
ただ人に見せるのが久しぶりなために準備運動がてら一振りをした、ただそれだけのことだった。
「…一応、結構強いんだよ」
これは…何かの技?
いや、そんなそぶりはなかった。だとすればこれは…
何なそぶりもなかった。男がしたのはただ純粋な振りであり、そこに力も、何かを見せびらかそうという意図もなかった。
だが、その一振りは先ほどまでのニアが抱いていた男への印象を塗り替え、同時にその額にわずかな汗を滲ませる。
それはニアが、その一振りで男が只者ではないということを理解したからであった。
「どうやってそこまでの力を…」
いつの間にか、そんな疑問が口から溢れていた。
溢れたその言葉をニアが自覚したのは男が考えるそぶりをしたからであり、だが男はそんな問いへ優しく笑みを浮かべると、
「守りたいものを守りたかったから、かな」
真っ直ぐと、男は自らを見つめるニアの目を見返しながら、そう答えてみせた。
その瞬間、ニアはハッとしたようにその意識を改めて覚醒させる。
何故なら男の言葉はかつてのニアと同じ、大切なものを守ろうと誓った果てに至ったものだということを理解したからだった。
だがニアにはもう力はない。だからこそ、ニアは自らを見つめる男の瞳へと、見つめ返すように目を向けると、
「…どうやったらあんたみたいに強くなれる」
再び強くなるために、そんな言葉を男へと問いかけていた。
おそらくスキアに敗北する前の自分でもこの男には敵わない、まだこの男の本気を見ていない、故に確証はなかったが、それでも、何故かそんなふうに思ってしまったのだ。
「どうやったら…うーん。まぁ、色々あるんだよ、色々」
空を仰ぎ、誤魔化すように男はそう呟いた。
それが独り言なのか、ニアの問いに対する返答なのかはわからなかった。
だがそれでも男のその瞳が何処か遠くを見つめているのだと、ニアは理解できてしまった。
だが次の瞬間には男もまたそのことに気がついたのか、小さな咳払いと共に握った刀を構えてみせる。
そして、改めてニアへとその目を向けると、
「まぁ、僕も一応先生だからね。弱いって思われるのは割と心外なんだ。…だから、特別に少しちゃんとやってあげる」
「よかったですね。先生が力を見せるのは珍しいことなんです」
語りかける少女のその声は何処か昂っており、その様子から見るに言葉通り男が人に力を誇示することは滅多にないことなのだろうと予想できた。
「何を…」
「まぁ、ちょっとした礼だよ。僕なりのね」
「礼なんて…だってあいつの狙いは…」
「細かいことはいいんだよ。それより、二人とももう少し離れてた方がいいよ」
瞬間、少女はニアを引き連れて数歩後ろへと引き下がる。
その表情にはわずかな笑みが浮かんでいた。
そうして男はニアたちが離れたことを理解すると握った刀を再び鞘へと収め、抜刀の構えを取るとその場で小さく深呼吸してみせる。
「見ててください、今私たちの目の前にいるのは、世界の中でも最高地点にいる人、その力の一端です」
少女の言葉と同時に男は刀を強く握り、そして瞬間、辺りの空気は零度の如くに張り詰める。
そのあまりの気迫にニアはしばらくの間自分が呼吸を忘れていることさえ気付かなかった。
不自然なほどに立った鳥肌。それは男の出した圧が故のものであり、男はそれ程までの力を隠し持っていたということの証明でもあった。
そして男が目を瞑り、小さく息を吐いた瞬間———
「…?」
世界から一瞬の間だけ音が消えた。
ニアの周囲は静寂に包まれ、同時に何処からか鋼鉄の響く音が聞こえてきた。そして——
「っ…!?」
刹那、目の前の風は切り裂かれ、道中の木々は空気を割くかのように切り割られながら山のように巨大だった丘は轟音と共に崩れ落ちる。
少し遅れてきた突風にニアは吹き飛ばされそうになるのを何とか堪え、同時に突風がわずかに落ち着いてきた時、その先に見えた景色に思わず目を見開いてしまう。
力を奪われたとはいえ、ニアの中には依然これまでの戦いの経験があった。
だが、ニアは男の剣筋をわずかとして捉えることができなかった。
短く息を吐いた光景。それが最後に見た光景であり、同時にこの時にしてようやくあたりへと響き渡った鋼鉄の音は、男が振り抜いた刀を鞘へとしまった音なのだと理解する。
故に見えた男の手には何も握られておらず、揺れる羽織りだけが男がこの瞬間、他の誰よりも別次元にいるということを証明していた。
「そんな馬鹿な…」
「馬鹿じゃないしこれは現実だよ」
「こんなこと…」
「あるんだよ。これが僕なりの礼、どう?ちょっとは認めてくれたかな?」
語りかける男の背後では切り崩された丘が轟音と共に暴風として襲来し、ニアはその暴風から身を守りながら、先ほどの評価ですらこの男を過小評価していたことを悔いていた。だが、
どうなってる…?
強者としての威圧感、存在感。今の男は変わらずそれを身に纏っていなかった。
それが何故なのか。瞬間、ニアの脳内はそんな疑問が埋め尽くし、だが瞬く間にその疑問は解消された。
シンプルな答え。故に今まで気づかなかった真実。
格が違いすぎるのだ。かつての自身を持ったとしても、決して埋まることのない差が、自身と男の間にはあるのだと。
「礼なんて…こっちが言いたいくらいだ」
「それで、さっきの約束の件なんだけど、もし本当に守ってくれるんならその代わりとして、君の願いを可能な限りなら聞いてあげたいんだけど、何かある?」
瞬間、ニアは無意識のうちにニヤリと笑っていた。
先ほどの光景を目にして、他の選択をする者が世界のどこにいるのだろう。
だからこそ男の問いに対し、ニアは迷うことなくその瞳を男へと向けると、
「なら、俺をあんたの弟子にしてくれ」
予想外の返答だったのか、はたまた最初からそれを予想して聞いたことなのか、それは誰にもわからない。
だが男はニアの返答を聞くとふっと笑ってみせた。
「…わかった。だけど僕のとこの訓練は厳しいよ?」
「強くなるためだ、願ってもない、です!」
少しの沈黙ののち、男はニアの願いを了承した。
少女の言った通り、きっとこの男ほど強さを体現した者は世界のどこを探してもいないのだろう。
そして誰にも知られることなく、ニアはその場で強く拳を握り締め、そして心の中で誓ってみせる。
アリス。待っててくれ、ここから俺は再び強くなってみせる。
そしていつか、必ず君を救ってみせる。
しばらくして舞い上がった埃が地に落ち、ようやくあたりの風景が鮮明になった時、地面を照らし始める日差しと共に、それはニアの目へと映る。
空に浮かぶ雲は何処まで見ようと果てが見えないほど真っ二つに切り分けられており、合間から見える青い空は、ニアの新たな歩みを祝福しているかのようだった。




