頼みの言葉
先ほどの家からわずかに離れた場所で、ニアは男から離れるように近くの木へと体を預けると、先ほどから抱いている疑問を男へと問いかける。
「ここでいいだろ。それより答えろ、お前は何者だ」
「僕はあの子の先生だよ。ただの先生で、それ以上でも以下でもない」
包帯に巻かれたボロボロの状態にも関わらず、なおも警戒を解かないニアへ男はあっけっからんとそう答える。
本来であればそれすらもを疑っていたかもしれない。先ほどの少女の言葉から、男が少女の先生だということは確信を得ていた。
だからこそ、ニアは本題を問いかけるべく男へと目を向けると、
「…お前はさっきのやつを知っているのか」
「知ってるよ?加勢はできなかったけど見えてはいたからね」
「真面目に答えろ。そういう意味じゃないのはわかってるんだろ」
真剣な問いに冗談半分で答える男へ、ニアは落ち着きかけていた苛立ちをわずかに含んだ声色で言葉を返してみせる。
その怒火を含んだ声に、男はようやく真剣な眼差しでニアを見つめ返すと、
「ごめんごめん、ちゃんと話すよ。って言っても話せることなんて全然ないんだけど」
「それでもいい、お前と奴の関係を教えろ」
「何か期待してるみたいだけど、僕はさっきの奴とは何の関係もないよ。なんならさっき初めて見て僕もびっくりしたんだ。なんかやばいのがいるなって」
「それで、お前はどこで奴と俺の戦いを見ていたんだ」
「どこでって、僕はただあの壁の近くを歩いてただけだよ?あんな技ぽんぽん使われて気づかない方がどうかしてるよ。見た感じ天啓とも違ってたからね」
ニアの問いに男は拠真岩壁を指差し、その辺りにいたからだと答えてみせた。
矛盾はない。その言葉に納得をしかけたニアの中に、先ほども脳裏を横切った一つの疑問が浮かんできた。
待て、どういうことだ?本当にただ通りがかっただけなのか?だとすればなぜ見ているだけだった? この世界の人達に取ってあれは紛れもない脅威だったはずだ。
おそらく狙いは俺だったからよかったが、もし違えばこの世界も———
「一つ聞く、なぜ奴を野放しにしていた。お前が本当に奴を知らないのなら、奴を放っておくことがどんな惨状を引き起こす可能性があったかなんて容易に想像できただろ」
「なんでって…だってあれには人を殺す理由がないように思えたから」
「…は?」
瞬間、ニアは短い絶句と共にその目を見開き、その動きを止めてしまう。
木へともたれかかった手はいつの間にか痛みすら忘れて握りしめられていた。
即答だった。男は躊躇うことなくニアへとそんな返答を返し、自身の判断を疑うことすらせずにニアの瞳を見つめ返していた。
殺す気がない…?何言ってる…
なら、なんでみんなは横たわったまま動かなくなったんだ…?
なんで俺はここにいる…?
怒りは痛みを忘れさせるほどにニアの脳内を埋め尽くし、次の瞬間にニアは殴りかかるかのようにふらふらと男の元へと歩みを寄せていく。
「ふざけるな、やつがこれまでにどんなことをしてきたか…どれだけの人たちが犠牲になってきたと思ってる」
「その犠牲は僕にはわからないよ。ただ…もしあれがこの世界を破壊しようとしていたり、僕の愛弟子に手を出そうとしていたなら、僕は全力で助けに行っただろうね」
「っ…」
嘘だと思った。ニアの人生の中にも、そんな綺麗事を抜かす人間は何人もいた。『本当ならこうしていた』『本当ならこうなるはずだった』と。
だが、男は違った。
違うのだと、ニアは理解できてしまった。
その目は大切なものを守るために命をかけると誓った、かつての自分と同じ目だったから。
胸ぐらを掴み上げるようにして伸ばされた腕は、荒くなった呼吸と共に自らの体へと引き戻され、代わりにどうしようもない感情を抑えるべく、再び木へともたれかかるべく伸ばされる。
数時間のうちに幾度となく訪れる、感情をかき混ぜるような不快感。もたれかかることにより時間と共に和らいでいくその感覚を自覚しながら、ようやく少し落ち着いた時、ニアは再びその口を開いた。
「…まだあるんだろ、手を貸さなかった理由」
「うん。遠目とはいえ、君が何かのために命をかけて戦ってることを僕もわかってた。だから、横槍を入れるのも君にとっては誇りを汚されたかのように感じるんじゃないかと思ったんだ。それも理由の一つだよ」
「そう…か」
真っ当な理由。おそらく手を貸してもらい勝利したとしても、ニアの求めている勝利には程遠かっただろうと。
それをニアもまた理解していた。
そうしてだんだんと小さくなって声で納得の意を示したニアへ、男は続けて口を開くと、
「いいんだよ、君が怒るのも当然だ、気にしないで。それと、君。腕が大変なことになってるみたいだけど、大丈夫?もしあれならこの後さっきの家に戻って治療してもらえば?」
「それならもうしてもらった。あの子には今日何度も助けてもらったから、これ以上世話になるわけにはいかない」
「いいんだよ、そんなの気にしないで。別にあの子だけに全部やらせるってわけじゃないし、それに僕もあの子も怪我人を放っておくのは嫌いだし。ほら、僕に迷惑かけると思って、ね?」
「そうか、だったら迷惑かけさせてもらう」
「切り替えが早いね」
「まだあんたには何の恩もないんでな」
「うーん…まぁそれもそうか」
ばっかりと言い切られた言葉に男は何処か不服そうな表情を浮かべ、だが仕方がないと割り切ったように小さなため息を吐く。
当然、提案を受け入れたニアに少女に何かしてもらおうという気はなく、その分まで男に働いてもらおうという算段の元だった。
そうして短い会話を終えた男は木へと寄りかかるニアの元へと歩み寄り、やがてその肩へと手を回す。
支えるようにして伸ばされた腕は、先ほどまでなら間違いなく拒絶していたであろう腕であり、だが先ほどの会話を得たからこそ、ニアもまたその手助けを拒絶することはなかった。
ニアの中で男への疑問の全てがなくなったというわけではない。
ただ、ニアは自らを見つめていた男の瞳を、かつての自分と同じ瞳をしたこの男を、信じたいと思ったのだ。
やがて2人は歩いてきた道をゆっくりと引き返していき、その視界には先ほど出てきた家が見えた。
「そういえば、僕はいいんだけど、初めて会う人に『お前』とか『あんた』っていうのはやめた方がいいと思うなー、たとえ初対面でも、てか初対面だと尚更印象悪く写っちゃうよ?」
「それは…その通りだと思う。すまない。俺もさっきの今でまだ警戒が解けてなくてな」
「僕は大丈夫。けど、あの子にはそんな言い方しないでね?あの子はまだ子供だから、一回嫌われるとしばらく嫌われたままになっちゃうから」
「それは困るな、まだ恩を返せてないんだ」
「そうかそうか。ところで」
と、男は不意に足を止め、ニアの方へと振り返る。
突然の男の行動にニアはわずかな疑問を浮かべ、だが男は再び真剣な眼差しでニアへとその目を向けると、
「怪我人にするお願いではないとわかってるんだけどさ、——君さえよければあの子を守ってやってくれないか」
「わかった。まだ恩もかえせてないしな」
「そこをなんとか…え、いいの?」
あまりの即答故か、断られると思っていた男はわずかに呆気に取られるようにポカンとした反応を浮かべる。
そしてわずかな遅れの後、男は喜びをひしめくようにグッとその手を握りしめてみせる。
「恩を仇で返すのは人として最悪だ」
当たり前のようにそう答えるニアの心に、嘘は一つもなかった。
ただ命をかけて自分を守ってくれた人を、自分もまた守りたいと、そう思っただけなのだった。




