地を踏み鳴らすは夢の跡 その一
オーゼン達と別れて数分後の現在。
「上…右…右…左…」
襲いくる傀儡の攻撃をいなし続けているニアは、有言通りに1人の傀儡もオーゼンたちの方へと向かわせることなく、時間稼ぎを遂行していた。
息を吐く暇もなく猛攻を仕掛けてくる傀儡達に若干の後退を強いられながらも、その全身に足止めを請け負った時以上の負傷は見られず、代わりに疲労という形の錘だけがその体を蝕んでいた。
だが変わらず量で攻めてくる傀儡達は疲れどころか怪我の一つすらもを負っていないかのようにニアへと狙いを覚ますと再びその動作を再開し、既に何回も見たキリのない光景に遂に内に秘めていたため息が溢れ出そうになったその時、
「そこまで」
瞬間、刹那前まで絶えることなく襲い掛かり、終わりがないのだとすら感じていたその傀儡達は何処からかそんな声が聞こえてくると同時にその動きを停止させ、そして次の瞬間にはまるで意識が戻ったかのように散り散りにばらけると一直線に森の中へとその姿をくらませていく。
その突然の行動に新たな攻撃かと辺りへと警戒を敷くニアだったが、幾秒経とうともその場に再び傀儡達が戻ってくることはなく、代わりに傀儡達が去った事によりその背後に隠れていた男はニアの前へとその姿を露わにする。
だが男もまた傀儡達と同様に何か先ほどまでとは違う雰囲気を纏っており、だがそれが先ほどまでその身に絶えず纏っていた敵意が消え失せたからなのだとニアが理解した瞬間、男は突然ニアへと背を向け、代わりにニアから見て前方方向へと指を指し始める。
「…?」
数秒、或いは十数秒の静寂が訪れた。何も口を開くことのない男のせいか、吹き抜ける風の音の一つ一つにニアはどうしようもないわずかばかりの緊張感を抱くことを余儀なくされ、そうして次の瞬間には男が指を指した方向の草木が音を立てて揺れ始めた。
ガサガサと聞こえてきたその音はニアを含めた周囲一体の空間へと漏れなく響き渡り、その光景に小さく息を呑んだ次の瞬間、
「っし、戻ってきた」
「きた」
「彼はこのそばにいるはず…」
「オーゼン…!!と、そこの子は…」
聞こえてきたのはそんな雰囲気を壊すほどに明るげな声であり、だが次の瞬間にはそれが傀儡使いの本体を叩きに行ったはずのオーゼンとウミのものであるのだと理解した事により、いつの間にか強く握りしめてしまっていたその掌からは力が抜けていく。
だが聞こえてきた声は2人のものだけではなく、続けて聞こえてきたその声はニアにとって聞き馴染みのあるものでなかったため疑問を抱くことを余儀なくされる。そして同時に揺れた草むらから見知らぬ顔がこちらを覗いたことによりその疑問はより確固たるものとなる。
長い髪の少年。声と同様に見覚えのないその容姿に刹那、頭の中を“?”が駆け巡るが、オーゼンがここへ戻ってきたと言うこと、そして連れられるように姿を現した見覚えのない者が現れたことにより、ニアは瞬時にその疑問を解決する。
「お前が本体…ってことなんだよな」
「えっと…うん。そう…です」
そうしてニアは少年…ハドルに傀儡使いの本体であるかどうかを問いかけ、ハドルもまた問いかけられたその言葉が正しいと頷きをもって返答をする。
だがそれ以上の会話が叶うことはなく、次の瞬間には2人の間にわずかながらに沈黙が渦巻く。だがそれはそれはお互いが会話をしていられる状況ではないと理解していたからであり、同時に続ける会話を見つける時間すらもを惜しいと考えていたからだった。
そうしてニアがハドルについてとりあえずの理解が及んだことを確認したオーゼンは2人の間に割って入るように声をかけ、そして迅速にニアへと伝えるべきことを伝えてみせる。
「話は後だ。ニア、『音』が早くなった。本当にもう時間がない。俺たちも早く避難しないと…」
「…待て、何処かへ去って行った人たちはもう避難したのか?まだなら急いであいつらも避難させないと…!」
「彼らには家に取り残された家族がいるかの確認を…、っ!!」
先ほどまでですらもう余裕がないと思えるほどに大きくなっていた『音』。それはここにきて更なる膨張を始めるように巨音と化していき、だが焦りによってその額にわずかな汗を滲ませながらもオーゼンは決して冷静を欠くことなく、合流するや否やその場からの撤退を提案する。
だがその時ニアは先ほど散り散りに森の中へとその姿をくらませた傀儡達のことを思い出したことで傀儡達を操っていた張本人であるハドルへとその行方を問いかけ、問いかけられたハドルが傀儡達が家に取り残された者がいるかの確認をしに行ったのだと伝えたことで、ニアは焦ったようにハドルの肩を掴み、そして、
「ダメだ、それじゃ間に合わない…、封印の場所…その場所を教えてくれ、早く!!」
「…えぇ…!?…えっと…確か預言者にはオーグリィン中央に建つあの砂の塔…あの地下に封印されてるって書いて…まさか…!!」
「目覚めたとしても俺がなんとか逃げる時間を稼いでみせる。だからお前はその間に全員を安全な場所まで避難させてくれ」
問いかけられたハドルは質問のその意図がわからず僅かに動揺しながらも、次の瞬間には自身が知り得る情報の中での封印のありかを教えてみせる。
すると封印のありかを聞いたニアは途端に逃げるべき方向とは真逆の封印のある方へとその体を傾け、その焦った表情、そして封印の元へと向かおうとしているという事実からニアがこれから成そうとしていることを嫌でも理解する。
間に合わない。例え死力の全てを逃げることに費やしたとしても残された時間は安全圏まで逃げるためには不十分であり、だからこそニアは自らが囮となることで足りない分の時間を稼ごうとしているのだと。
「待てニア!お前だってさっきまでの戦いで疲労が…」
「それがどうした。疲労はあるがまだ体は動く。それに、取り残された奴はきっと、地獄の中で自分は見捨てられたんだって思うだろうよ。俺は、その不条理を許さない」
「っ…!!」
今にも駆け出しそうなニアを阻止するべくオーゼンはその腕を掴み、そしてこれまでの戦いの中で積み重なった疲労が未だに休まることなくその体を蝕んでいるということを懸念する。
だがそんなことニアもわかっていた。手足は不自由さはなくとも数キロの錘をつけられているかのようにその一挙手一投足に意識を割かなくては普段通りに動かせないほどであり、だが、そうだとしても残された者はきっとそんな自分勝手な理由で地獄へと取り残され、死ぬまでの時間を待つだけの人生へと変わり果ててしまった時に、何を思うだろうか。
否。それはこの場においてニア以外にはわからない。他の全てを失い、命だけを持って生きてしまった…生かされてしまったニア以外には決してわかることのない感情。
例えそれが他の誰にも理解できない理由であろうと、ニアにとっては取り残された者がいるかもしれない、その可能性があるだけで行動を起こすには十分だった。
だからこそ、その意思を僅かながらに理解したオーゼンはその意思を否定することができず、次の瞬間には掴んでいたはずのニアの腕はすり抜けるようにして離れていってしまう。
掌が空を切る感覚を理解したオーゼンは止めることができない自身を戒めるように小さくその拳を握りしめ、そして、
「…絶対、後で合流するぞ」
「安心してくれ、死ぬ気なんてさらさらない」
小さく、だがその意思を汲み取ったがために引き留めることをやめたオーゼンは代わりに必ず後で合流すると、生きて帰ってくると約束させるべくそんな言葉を投げかけてみせる。
するとその言葉を聞いたニアもまたオーゼンが自らの意思を汲み取り、引き留めることをやめたのだと理解し、だからこそ安心させるように小さく笑うとその言葉を約束として返事を返すのだった。
そうして会話を終えたニアはハドルの言ったオーグリィンの中央に聳える巨大な砂の塔へとその目を移し、そして次の瞬間にはオーゼン達へと背を向け、駆けていく。
「…俺たちも行こう。ハドル、逃げて来たみんなをこの森の果てに集めてくれ」
「う、うん、わかった」
遠ざかっていくニアの背中に一抹の願いを込め、オーゼンは続けてハドルへ避難して来たみんなを安全な場所、即ちこの長い森を抜けたその先へと集めることを提案する。
ハドルもまたその案に異論はないようで、これから自らがなすべきその行動を理解した3人は急いでオーグリィンから離れるべくニアが駆けて行った方向…即ちオーグリィン中心部とは真逆の方向へと駆けていく。
ただ1人、去って行ったその背中を不安そうに見つめていた少女を除いては。
鼓膜を横切る風の音を聞きながら森の中を駆けるその足は疲労のためかわずかばかりの痛みを伴っており、だがニアはその足を止める事をしない。
視界に広がるオーグリィンにもはや訪れた当時のような栄えた景色はどこにもなく、倒れた民家に赤く燃え上がる炎だけがそこで起きた事象を持ってそこがオーグリィンである事をニアに理解させる。
ーー人はいない…ここら辺に残された人はいないってことか…よかった
ニアはオーグリィンの中央に聳える砂の塔へとその歩みを進ませており、その間も逃げ遅れた者がいるかの確認をするべく視界の中をくまなく捜索するが幸いなことにその視界の中に逃げ遅れたであろう者が映ることはなく、その事実にニアはわずかばかりに安堵する。
駆け出す前ですら一目でわかるほどの大きさだった砂の塔は近くへと寄ることによりさらにその大きさを露呈させ、おかげで迷うことなく一直線に向かうことができたとわずかながらに感謝を述べつつその足取りをさらに加速させていく。だが、
ーーどうなってる…?
そこから数秒後、足を止めることなく駆け続けていたニアは自らの視界にある違和感が訪れたことで疑問を抱くことを余儀なくされる。
駆けるニアの足は確実に地面を踏みしめ、そしてその体を前方方向へと押し出していく。
だがその目に映る景色はどれほど足を進めようが一向に前へと進むことがなく、まるで無限に続く空間を駆けているかのようにこの足取りは虚空へと消えていき、体力だけを消耗していく。
だがその違和感を自覚した次の瞬間、突如として視界の一端に小さな音を立てて亀裂が生じた。
それは現実であればありえない光景であり、だがニアがその異常を理解すると同時に生じた亀裂は時間と共にその規模を拡大していき、そしてニアの周囲一帯を囲んだかと思った次の瞬間、ヒビの入ったニアの周囲はガラスが割れるかのように崩れ落ち、そして雪のように溶けて消えていく。
そしてその光景に驚愕を隠すことのできないニアの元へ続けて聞こえてきたのは、
「よもやこのような幼稚な策にすら嵌るとは…主のことを過大に評価し過ぎていたのかもしれないな」
「お前は…」
紛うことなき罵倒の声はニアへ眉を顰めることを余儀なくさせ、だがその声が何処かで聞いたことのある声だと理解したことでニアは反射的に声のした方へと振り向き、そして砕けた空間の隙間から声の主の姿が露わになる。
黒いフードを被り、髪の隙間から青色の光を覗かせる男…そうして現れたのは捕えられていたニアを牢から脱出する手助けをしたアストーであり、降るように地面へと降り立ったアストーは何故ここにいるのかと疑問の瞳で見つめるニアを一瞥し、だが次の瞬間には何も語ることなくその視線をニアの目的地と同じ砂の塔へと移すと、その方向へと歩みを進ませていく。
「…待て、なんでお前がここに…」
「時間がないのは百も承知か?ならば貴様は余程の阿呆と見える。余達が此処で与太話をしている間にも『アレ』は目覚めの時を待っているぞ」
「っ…」
前回同様に神出鬼没の男…アストーが再び自らの目前へと現れたことでその目的を問うべく声をかけたニアだったが、対するアストーはその足取りを止めることなく、代わりにその行動が本当に今するべきことなのかを問いかける。
厄災と共に現れたと言う脅威がもう間も無く目覚める。限られた人物しか知りえないはずのそんな情報を当然のようにアストーが口にしたことでニアはわずかどころではない疑問を抱くことを余儀なくされ、だがアストーの言う通りここで会話している余裕など何処にもないのだと理解したニアは湧いて出たその疑問を内に秘め、そして自らの前で今もなお歩みを止めることなく進んでいくアストーの背中を追いかけるように自らもまた止まってしまっていたその足を向けるのだった。
そうして数十秒後、先ほどまで先へと進む兆しすら見えなかったその視界はアストーによって打ち砕かれたことにより先へと進み始め、そして遂に2人は砂の塔の足元へと辿り着く。
砂の塔の足元にはなぜ今まで気づかなかったのかと不審に思うほどに堂々と内部へと入るための小さな入り口が設けられており、だがそこから漏れ出す空気に触れた瞬間、ニアの全身は悲鳴にも近い鳥肌を露わにする。
「っ!?」
言葉や音がなくとも本能的に理解ができる「死」の気配。一つの街を容易に滅ぼせる存在が封印されているのだと理解し、ある程度までの気迫を想定していたニアですら無意識に踏み出したその足を引き下げてしまうほどの予想を優に超える圧倒的な圧にいつの間にかその心臓は爆発してしまうのではと思うほどまでに加速し、そのことを遅れて理解したニアは暴れる心臓を落ち着かせるべく瞳を瞑りそして深呼吸を繰り返して見せる。
そうしてふと自らの隣へと目を向けたニアは、そこで初めて先ほどまで平然と言わんばかりの悠々とした態度を貫いていたアストーが、ニアと同じ気配を感じたからかわずかに苦い表情を浮かべているところを発見し、そしてその姿を見たニアはわずかに驚きの表情を浮かべて見せる。
アストーは人間である。それは考え、疑問を抱くまでもないれっきとした事実であり、だがニアがアストーと知り合ってから半日も経っていないことを考えたとしてもその間に会話した記憶の中でのアストーは常に凛とした態度を貫いており、だからこそ初めて見たアストーの人間らしい一面にわずかな驚きの表情を浮かべてしまったのだ。
だが自らを見つめるニアに気がついたのか、次の瞬間にはアストーに浮かんでいたその苦い表情は消え去り、代わりに今まで通りの涼しい表情へとなる。
そうしてニアと同じく小さく深呼吸を終えたアストーは砂の塔の入り口、即ち「死」の予感がこぼれ落ちるそこへと目を向け、そして、
「準備は整ったようだな。行くぞ」
「あぁ」
踏み出したその足は冷たい空気を切り裂きながら前へと進み、2人は暗闇の中へとその姿をくらませるのだった。
踏み出した足が地面へと接する音すらが鮮明に聞こえるほどの静寂に包まれた空間。
入り口の時点ですらその身が全霊を待って危険を伝えるほどの殺気だったにも関わらず、その殺気は歩みを進ませるほどにより膨大なものへと化していく。
そうして同時に砂の塔の中は驚くほどに冷え込んでおり、吐いた息が目に見えるほどに白く凍えるのはおろかは殺気により額を伝う汗すらが滴り落ちる前に小さな結晶とかするほどだった。
それほどまでの冷気を身に浴びながらもニアとオーゼンは1秒たりともその歩みを止めることなく全身を続け、そしてついにそれはニアの視界へと映り込む。
長い階段を下った先、凍えるほどの寒さの果てに2人が辿り着いたのは冷気の発生源だと一目でわかるほどに冷え切った小部屋のような空間であった。
四方の壁はその寒さ故に元の色すらがわからないほど青白い色へと変色しており、だがニアはそれとは別の要因を持ってそこが最深部なのだと理解する。
「これが…」
「あぁ、『守宮』のカラク…『月光魚』、『蟲』と同じく『厄災ヨハネ』により生み出されし夢の世界の産物、その封印だ」
ニアの目線の先、冷えた部屋の中央には巨大な何かが置かれており、一見すれば何かの繭のように見えるそれは今にも何かが目覚めるのではないかと思うほどに激しく鼓動し、そして辺りの空気一体を絶え間なく揺らしていた。
だがさらに着目するべきは繭から伸びる無数の管のようなものであり、血管のように見えるそれはニアの目前の部屋一体を覆い尽くし、同時にその管を行き来する紫の液体が透けて見えたことによりニアは呼吸すらもを一瞬忘れてしまうほどにその異様な光景に気圧されてしまう。
だがアストーはその異様な光景に小さく言葉を漏らすニアへ、目の前に見えるこの繭こそが間も無く長い眠りから目覚めようとしている『守宮』のカラクなのだと伝え、そしてその側へと慎重に歩みを進ませる。
踏み出した足は凍った地面を踏み抜く事により小さな音を鳴り響かせ、そして数歩の歩みののちに繭の側へと辿り着いたアストーは小さく息を吐き、自らの目の前に存在する繭へと手を当てると、
「封印はじきに決壊する。それは今宵か、はたまた今この瞬間かは誰にも知りえぬ。故に目覚める前にこれを殺す」
「なにを…」
瞬間、ニアが言葉を返すよりも早くに繭はその形を変形させ、そして次の瞬間には押し潰されるようにして消滅する。
飛び散るように周囲一帯へと血飛沫を上げた紫の液体は繭が間違いなく押し潰されたのだと言うことをニアへと理解させ、同時にその場には静寂が訪れる。
脅威は去った。繭のあった場所にはもはや何かがあったのか“もしれない”と思わせるだけの不自然な地面のえぐれだけを残し、身を震わせていた殺気も消滅した。
そんな呆気なく終わってしまった脅威を遅れて理解した事によりニアの強張っていた肩の力は時間と共に抜け始め、同時に安堵のあまりか大きく息を吐き出す。だが、
「…」
「…アストー?」
ふと目を向けた先に立つアストーは何か思うところがあるのか力を行使した体勢のまま動くことをせず、代わりに瞬きすらしないままに繭のあった場所を見つめ続けていた。
だがそんな時だった。視界に映る情報の中にある違和感を覚えたのは。
「…なんだ?」
何がおかしいのか、それはニア自身にすらわからなかった。ただ本能的に脳が目に映る光景に違和感があると言うことを伝え、その情報を受け取った事によりニアはその違和感の出どころを下がるべく視界を動かして行く。
間も無くだった。その違和感の正体は間も無くニアが壁へと飛び散った紫色の液体を認識した事により露わになり、同時にひどく動揺する。
「どうなって…」
止まっていたのだ。四方の壁へとへばりつき、時間と共に垂れてくるはずのその液体が一切の動きを生じさせる事なく完璧に。
そうしてその異常を理解した事により、ニアは続けて理解する。その視界に映る物、砕けた氷の破片、自らの背後で白く凍った息、そしてアストーまでもが何らかの力によって微動だなする事なく停止してしまっているのだと。
ーー何をされた…?いや、何もされてないはずだ、繭は潰された、夢の産物は目覚める前に死んだはず、だとすればなんで…
そのありえない異常を理解したことで人知れず戦慄するニアは落ち着き始めていたその心臓が再び稼働を加速させるのを自覚しながらも、どうしてこの異常が起こったのか、その原因を探るべくこの部屋へ辿り着いてからの記憶のかけらをかき集めていく。
だがその最中、とある可能性にぶつかった事により加速していたその思考は急停止する。それはそれ以上考えてはいけないと言う自分自身への警告のためか、だがニアは浮かんできたその可能性をなかったものとすることができず、だからこそ思考してしまう。
ーーもし、これも『守宮』のカラクの力なのだとしたら…?潰される瞬間を確かに見た…そのはずだ。なのに今こうしてありえないことが起きてるってことは、それはつまり…!!
その思考が語りかられるよりも早く、その視界にはヒビが入った。
それはつい数分前に体験したばかりのものであり、だが思考するニアの脳を停止させるためと言わんばかりに突如として現れたその異常こそが、ニアの考えが正しいものなのだと理解させる。
だとすれば、この異常を起こしている元凶もまた1人…否、一体しかいない。
そうしてニアの視界の片隅に生じたヒビは前回同様に他の空間に連鎖するようにその規模を拡大させていき、そしてその周囲一帯を覆い尽くしたとき、再び空中へと霧散し、その視界の先に本当の現実を露わにする。
砕けた光景の先には先ほどまでと同様にアストーが立っており、だが不思議な事にニアが立ち会った瞬間は、すでに過ぎたはずの、繭を潰すその瞬間だった。
目前に横たわる繭は小さな音を立てて潰され始めており、先ほどの異常を知ったニアはその動作を中断させるべく声をかけるが、それすらもが間に合わない。
再び潰された繭はまたしてもその姿を消滅させ、同時に辺りに紫色の液体を散乱させる。
だが、そんな時だった。
飛び散った液体は前回同様に天井、そして四方の壁へとへばりついており、だがその中にふと見慣れないものが紛れていたのだ。
それは青白い壁に存在する明らかな違和感。先ほどまでは確実に存在せず、また先ほどの光景を目に焼き付けたニアだからこそ迷うことなく異常だと理解できたもの。
そうしてその違和感へと目を向けた次の瞬間、
「っ、アストー!!」
「…!!」
瞬間、ニアは考えるよりも先にアストーの体を突き飛ばし、同時に凄まじい衝撃と土埃が巻き上がった。
そうして突然のニアの行動に対応することができず地面を転がっていくアストーは何が起きたのかと理解できていない現実を理解するために巻き上がった土埃の中心へとその目を向け、そしてニアと同様に“それ“を視認し、そして驚愕の表情を浮かべる。
土埃の上がった地面は深く抉れており、もしニアが突き飛ばすのが一瞬で遅れていれば。考えることすら憚られるその仮定を理解した事によりオーゼンは再び苦い表情を浮かべる。そして、
「…アストー、一応聞くが、その『守宮』のカラクってのが今目覚める可能性は、ゼロじゃないんだな」
もはや確かめるまでもない現実。だがわずかにこれがまだ夢であることを祈るように、ニアはアストーへ、目の前に立つ“それ”が見間違いである可能性を問いかける。だが、
「…たわけめ。今余達の前に立つ“それ”こそ、『厄災ヨハネ』により産み落とされた産物、『守宮』のカラクだ」
都合の悪いことだけが夢であるなどという都合のいいことはありえない。“それ”を見たアストーはいまだに現状を理解することを拒んでいるニアへ、避け用のない現実を突きつけるように、目の前に立つ者こそが封印から解き放たれた『守宮』のカラクであると伝えてみせる。
そうして舞い上がった土埃が時間と共に地面へと落ちた時、やがてその姿は鮮明に二人の目の前へと露わになる。
「あれが…」
露わになったその姿は、人型ではあるもののその胴体は枯れ木のように細く、そして背中には尾がついており、小さな顔に見合わないほどの巨大な一つの眼球をもった異形の形相だった。
夢の産物は、今この瞬間に再び現実へと甦ったのだった。




