ハドル・ライアグライネ
「ハドル…やっぱりこの子が我々の…!」
記憶に残っている最も古い記憶は、そんな歓喜の声だった。開いた視界に映った人は笑顔であり、幼いながらのその光景をハドルは鮮明に覚えていた。
だがそれは決してハドルと言う個人が生まれたことに対しての歓喜の声ではなく、あくまで自分たちの一族で新たに役割を背負える者が生まれたと言うことに対しての、言ってしまえば新たな人形が生まれたことに対しての歓喜だった。
物心がつく前のハドルはいわば「無」だった。当然ながら生まれた瞬間からどうしたいといった思考を持っているわけもなく、育つ環境により人はその環境に適応するために最適な人格を形成する。ハドルはその中でも世間的に見れば一般的なようで、だがその実誰よりも狂っている家に生まれてしまった。
「…予言?」
「そうだよ、いいかいよくお聞き、これは私たちが長年積み重ね、守ってきた由緒正しい予言なの」
ハドルの家族は数千年前、あるいは万に匹敵するほど昔の偉大な者が残した予言とやらを信じこみ、日々怯え、そして口癖のようにハドルに自分たちの全てのオーグリィンの人を生贄にすると、自分たちの野望を叶えるよう訴えかけてきた。
それは切実なようで、だがその内容はあまりにも自分勝手であり、自分が良ければ他者を切り捨てることは致し方ないことなのだと、他人である者達の気を勝手に代弁したような内容だった。
「僕は…嫌だよ、この街のみんなは僕を大切にしてくれて…だから僕はみんなを犠牲にすることなんて…!!」
当然ながら初めてその内容を聞いたハドルは強い否定の意思を示した。だがそれは単なる否定が全ての理由ではなく、その時のハドルにには人はおろか自身を苦しめる虫ですら碌に傷つけることのできない、優しさという言葉が具現化したような純粋な子供だったことも相まってだった。
だが、優しすぎたハドルだからこそ本心では他人に打ち明けるべきだと理解しつつも、その予言のことを他人に打ち明けることは決してしなかった。否、できなかった。
言えば家族が危険な目に遭うかもしれない、言ってしまえばみんなが家族を見る目が変わってしまうかもしれない。物事に優劣をつけることの出来なかったハドルは、その優しさが故に家族が街の人達に迎え入れられなくなることを恐れ、そして日が経つにつれその性格はだんだんと内向きになり、遂には偽りの仮面を貼り付けた「オーグリィンのハドル」という個人を作り出した。
抱え込んだそれを打ち明けられるものは何処にもおらず、その間も家に帰れば毎秒のように聞かされるその予言にいつしかハドルは個人としての意志を失い、やがて本人ですら気づかないまま「自分が間違っており、予言の通りにすればみんなが助かる」と信じ込むようになった。
生贄にするのに助かる、と、他者が聞けば笑ってしまうであろうその相まみえることのない考えを当時のハドルは本気で信じ込んでおり、彼との出会いもそんな時だった。
「お母さん…みんな…ごめんなさい…」
とある日の暗い森の奥深くに響くその声は紛れもないハドルの泣き声だった。光すらが迷い込むことのない暗い森の中は幼いハドルにとって恐怖の象徴そのものであり、同時に1人であるという事実がその恐怖をより確固たるものとする。
いつもの家へと帰り道、オーグリィンを訪れた数人の団体がハドルの通り道を塞いでいたがために回り道をして家に帰ろうと森に入ったはいいものの、どうしてかあるべき場所にハドルの家はなく、それどころか気がついた時にはすでに手遅れなほどまでにオーグリィンから離れた森の中を彷徨っていた。
時は既に半日を経過しており、過呼吸すら通り越したその恐怖はハドルに孤独に頬を濡らすことのみを許容する。だがその時、
「お、いたいた。何してんだ?こんなとこで」
「…っ!!…や、やぁ偶然だね」
ガサガサと草木を揺らしながら顔を覗かせたその人は揺れる音に恐怖するハドルを発見するや否や何処か安心したように、だがあくまで平常心だと言わんばかりにその姿をハドルの前へと露わにし、そして何も言わずにその側へと歩みを寄せていく。
見るからに同じオーグリィンの住人。自身が泣いていたということを知られることを恥じたハドルは急いで顔を隠し、頬を伝うその涙を引っ込めると平然と言わんばかりにその人へと返事を返す。だが、
「何強がってんだよ、迷子だろ?俺が来たからもう大丈夫だ」
強がるハドルを見抜いたようにそう伝えるその人はハドルの側へと辿り着くや否やその手を伸ばし、そして伸ばされたその手を掴むことを躊躇う様子を見せたハドルへ、小さくため息をつきながらその手をさらに伸ばし、そして無理やりにもハドルの手を掴むと何処かへと連れていく。
見ると、その全身には微かな切り傷を生じており、ハドルを安心させるためか、平然を装いそう言ってはいるもののその様子からハドルを探すために数分どころではない時間を費やしていたのだと容易に理解することができた。
そうして半ば強制的に森の中を歩いて数分、一生を費やしたとて帰ることはできないと思い込んできたオーグリィンはその想像を嘲笑うかのように木々の隙間からその姿を覗かせ、そうしてついに森を抜けてオーグリィンへとその足を踏み込んだ時、ハドルの隠していた涙はついに爆発する。
オーグリィンに響く泣き声はその人と同じくハドルを探していた住人たちを瞬く間に呼び寄せ、そして遂に両親の姿が見えた時、安堵のあまりかハドルは気絶するかのようにその意識を深い眠りの底へと手放した。
今思えばあの時のその人…オーゼンの慌てっぷりは今日という日までを通しても見たことがないほどに壮絶な物であり、あたふたとした年相応の慌て方に思い出すだけで小さな笑みが溢れてしまうほどだった。
その日からだった。他者に気を許すことは決してなかったハドルはオーゼンにのみわずかにその気を許すようになり、小さな会話を得て遂に勇気を出して秘密基地を一緒に建てようと提案したハドルへ、オーゼンは嫌な顔ひとつすることなく笑顔で了承の意を返してくれた。
その完成系は2人が想像していたよりもずっと不出来であり、天災の一つでも起きれば容易に崩れてしまうと思うほどにボロボロではあったものの、初めての友人と呼べる存在との時間、それはハドルにとって何よりも嬉しいことであり、同時に初めて触れた人の他意のない純粋な善意だった。
だからこそハドルは日々着々と予言の日に備えながらも人知れずオーゼンだけは死なせることなく自身と共にみんなが救われた後のオーグリィンを見たいと考え、どうにかしてオーゼンだけを街から誘い出す策を思考していた。
そうして数ヶ月、数年とかけ入念に考え込まれ、遂に完成した策はオーゼンがオーゼンである限りどこにも穴のない完璧とも呼べる策であり、だからこそハドルは一刻も早くみんなが救われた街を見せたいとその時を密かに心待ちにしていた。
だがそこから更に数ヶ月後、現在から見て数日前、悲報にも近いその報告は突然としてハドルの耳へと届いた。
「オーゼンが予言のことを…どうしよう、そんな…」
「どうにかするんだ、ハドル、お前の役目を他の誰かに邪魔されてはいけない…!!」
焦ったようにハドルの方を掴み、そう声をかけるのは他でもないハドルの父であり、同時にオーゼンが『音』に気づいたと言うことを誰よりも早く知った人物でもあった。
ハドルの父の天啓は人の思考を読むというシンプルなものであり、”他人と自身を同化させる”という力の応用でその思考を読んでいたハドルとは似て非なる、正真正銘人の人の思考を盗む力だった。
だが、そんな力だからこそたまたま横を通り過ぎたオーゼンの思考を読んだ時、『音』について不審に思っている様子が見てとれたそうだった。
ーーどうしよう、オーゼンだけは…あれ?
焦るハドルはどうにかして計画したその策が失敗に終わらない方法を考えようと思考を働かせる。だがその時、ある一つの新たな策がその脳内に微かに鱗片をちらつかせた。
それは当時考えていた策よりもよほど簡単にオーゼンをみんなから孤立させる事のできる策であり、同時にこれ以上『音』についての詮索を防ぐ事のできる一石二鳥の策だった。
ーー何か理由をつけて何処かに捕え、外からの情報を遮断して仕舞えば…そうすればオーゼンはこれ以上詮索することはできないし、次に外に出た時に予言の時が終わってみんなを救えてたら、きっとオーゼンも僕に感謝するはず…そうだ、そうしよう…!それしかない…!
人知れず狂ってしまっていたハドルにもはやその思考が間違っていると伝えるものはなく、狂った思想を正義であると、洗脳にも近い教育を受けてきたハドルは思い浮かんだその策をただ1人の友人であるオーゼンのためだけに決行することを決め、そしてその時が来ることを密かに心待ちにしていた。
短いようで途方もないほどに長く感じられたその時間はハドルにこれから背負う責任の重みを再確認させ、だがハドルはオーゼンの喜ぶ顔を見たいがために、それだけを心の支えとして生きるようになっていた。
そうして遂にその時、入念に計画された策にもはや穴はなく、数多の傀儡達を使いオーゼンを捕えるために動き出そうと隠れていた草陰からその顔を覗かせた時、
ーー誰?
それはイレギュラーだった。これ以上詮索しないように、傷つける事なくそれが危険な事だと伝えてきたハドルはわざとオーゼンの家族を操り、恐怖を抱かせる表情を浮かべさせ、オーゼンの勘付いている『音』について、誰にも話せないようにと仕向けていた。
だが、それが間違いだった。街の中に信用に足る人物がいないと判断したオーゼンは外から訪れたなんて事のない二人組を暗い森の中へと誘い、そして遂には誰にも話す事のなかった『音』についてを語ってしまった。
ーーだめだ、これ以上オーゼンを野放しにしてたらみんなを救えなくなる…!!なんとかしないと…なんとか、1人になって周りに人がいない状況を作り出さないと…!!
冷静ではなかった。刻一刻とその時が迫っていることを理解していたハドルは、自分自身ですら冷静ではないと気づいておきながら、その時が来てしまっては手遅れになると、半ば自分の計画していた策を無碍にしてまでオーゼンを捕らえると言う策を強行し、そしてオーゼンと、自身へと敵意を向けた『音』の存在を知った来訪者をもまた念の為と捕え、牢へと閉じ込めた。
自分がなんとかするしかない。自分しかこの事態を解決することはできない。幼い頃から狂ったように教え込まれたそんな狂言は降り落ちた雨粒の弾ける音のように鼓膜を反響し、故にハドルは今日という日まで自身の意見すら碌に持つことなく生きてきた。
だが今、自身へと目を向けるオーゼンはどこか悲しそうな表情を浮かべており、そして覚悟を決めたように小さく息を吐いたのちに一歩をハドルの方へと寄せると、
「…もうやめろ、ハドル。壊れた建物は元には戻らないし、もし失った命があったのだとしてもそれが回帰することはない、けど、まだ辞められるんだよ。これ以上罪を重ねることは避けられるんだ」
「…オーゼン」
問いかけるように伝えるその声はわずかに震えており、オーゼンの中でもそれほどまでにハドルという存在が身近な者であり、同時にこの一件の首謀者ではないと願っていたということをハドルは嫌でも理解する。
だからこそハドルは自分は関係がないと嘘をつくことができず、自身ですら驚くほどにその目線をいつの間にか地面へと下ろしてしまっていた。だがその時、
「…っ!?…待て、何か変だ…、『音』が…!?」
「そんなわけ…だってまだ予言の時には時間が…」
ふとそんな言葉を漏らしたのはオーゼンであり、見るとその様子は先ほどよりもどこか慌てふためいており、同時にその額にはわずかながらに汗が滲んでいた。
嘘ではない。瞬間的に来訪者からの入れ知恵で自身を図っているという可能性を考えたハドルは、オーゼンが自覚するよりもわずかに自身をオーゼンと重ね、そして呟いた言葉と焦る思考が一致したことによりそれが本当のことであると理解し、疑問を抱いたその言葉を押さえ込むと同時にひどくその心臓は暴れ始める。
来たのだ。ハドルがこの世に生まれた意味そのものの、オーグリィンの民達を救済するその時が遂に。そうして暴れ始めた心臓を抑えながら小さく深呼吸をしたハドルは、みんなから託された望みのために自身の操るすべての人間を生贄にすることを決行し、
「っ、待て!!」
瞬間、その予兆を感じ取ったのか命令を下すために前に伸ばされたハドルのその腕をオーゼンは掴み、そして強く握りしめることでその動作を中断させる。
そうして目を向けたハドルの瞳には何処か焦りにも取れる感情が隠れることなく現れており、次の瞬間には掴まれたその腕を振り払うと、
「…邪魔しないでよ!もう少しなんだ。後ひと段落、これさえうまく言えばみんな救われるんだ…僕たちは、みんなを救えるんだ…!!」
「そんなこと俺は望んでない!!」
空気を張り裂くように伝えられたその声はオーゼンのいるその小屋の空気一体を震わし、これから自身の為すことの正当性を伝えようと口を開いていたハドルを一瞬にして黙らせる。
そうして静かになった空間の中でオーゼンは一歩足を踏み出しハドルの目の前へと立つと、その肩へと手を置き、
「…納得が行った。なんで俺だけ操られてないのか、言葉にして言われたわけじゃないけど、俺もお前との付き合いはかなり長いんだ、口に出さなくてもなんとなくならわかる。けど、お前は一つ勘違いしてる」
「勘違い…?」
「お前は誰のものでもない、ただ1人のちっぽけな人間なんだ。お前だけじゃない、俺だってそこの嬢ちゃんだって、みんなちっぽけな人間だ。ちっぽけで助け合って、正しあわないと生きていけない人間なんだ」
「…!!」
「嫌なら逃げればいい。無責任だって誰かは言うかもしれない。けど、お前にたとえ力があろうがなかろうがその実ただの子供だってことは俺が1番よく知ってる。だから考えろ。みんながいないその街を、お前は本当に望んでるのか。2人で生きて、他の全てを見殺しにした人生が本当に楽しいと思えるのか」
「僕は…」
瞬間、何かが崩れる音がした。生きてから今日という日まで耐えることなくハドルを押し潰してきた責任。逃げることすら許されるわけがないといつの間にか考えてしまっていたその思考すらもを、オーゼンは正面から向き合い、そして他人ではないハドル自身の正直な気持ちを引き摺り出すように、そんな言葉を問いかけて見せる。
とうに決まっていたはずだった。覚悟はかつての過去に残してきたはずだった。責任は自分が成さなければいけない。だから自分以外になすりつけることはできない、と。だがその決意は今、友人の小さな言葉によりわずかに揺れ始める。
ーー僕は…
呼吸をわずかに荒くさせたハドルは、自身ですら気付かぬ間に命令を下そうと伸ばしたその腕を折りたたみ、そしてその時ようやく自身の腕が小さく震えていることに気がついた。
それはまるで狂気に侵される前の、消えてしまったはずのかつてのハドルの意思…その残火のような、友人の説得から逃げ、押し付けられた責任により取り返しのつかない事をしようとしている自身を説得するようだった。
代々の家族の願いと今世の友人の願い、一見すれば重りに乗せ、測るまでもないその重みにハドルの心はひどく揺れ、立っていることすらがままならないほどにその思考をかき乱される。
ハドルの生まれた意味、生きる理由。それらは間違いなく間も無く訪れるその瞬間のためであり、だがそれはハドルの家族が決めた身勝手なものでしかない。だからこそハドルは震えるその手を鎮めるように握りしめ、そして小さく息を吐くと、
「…ごめん、今はこうして話を聞いてる時間すら惜しいんだ。俺の言いたいことは伝えた。俺にできるのはあくまで助言でしかない。だからあとはお前自身で決めてくれ。俺はニアにもう時間がない事を…」
「…もう伝えたよ。家族がいる人たちにはまだ家に残されてる子がいないかの確認を。終わり次第退避するようにって命令を出しておいた」
一分一秒を惜しむ今において会話の時間すらがオーグリィンの民達の命を失わせる要因になりかねない。だからこそオーゼンは結論をハドルに任せ、今も足止めをするために戦い続けているであろうニアへ時間がない事を伝えようとその足を踏み出す。
だが踏み出したその足は地面へ着くよりも早く、ハドルの伝えられた言葉により駆け出す事なく停止する。
ハドルは今からオーゼンが足を向けるのでは遅いと判断したのか、直接ニアと相対していた傀儡の1人を通じ、『音』が早くなった事、もう時間がないという事を伝え、続けて町に被害が及んだ時の場合に犠牲になる者が出ないよう取り残された者がいるかどうかの確認を迅速に手配してみせる。
そうしてそれの意味することはただ一つ。
「…ハドル」
「みんなごめん。多分この伝承も未来の今を生きる僕たちのために遺してくれたものだと思う。けど、僕は…」
振り返ったオーゼンはわずかに驚いた表情を浮かべていたものの、その目線の先にいるハドルの表情を見るや否や、そんな驚きはいつの間にか消滅していた。
生まれた瞬間から責任という重荷を背負っていたハドルにとって、何代にも受け継がれてきたその責任を放棄するという決断の重みは他の誰にも計り知れるものではない。だが、狂気に染まっていたハドルを見つけ、そして”逃げる”という新たな選択肢を示してくれたオーゼンのためにハドルは震えるその拳を強く握りしめ、そして、
「僕はやっぱりみんなを死なせたくない」
一度は諦めたその願いを、再び口にするのだった。




