いつかの記憶と条件と
買い物を再開し、オーゼンとはぐれないように人混みの中を歩いている最中、ニアは不意にいつかの気持ち悪さのことを考えていた。
あの瞬間何かをされたという感覚はなかった。
それに、あれが何かの攻撃だとしても気付くまでに違和感を一つも感じなかった。
いや、もしかしてそれこそが敵の天啓の効果…?
条件は…接触…?いや、なら最初にオーゼンの話を聞いた瞬間に否定の意思を抱かなかったはおかしい…別の何かがトリガー…?
それはニアの立てた仮説の話だった。
オーゼンの話を聞いてから攻撃を受けていたと気づいた瞬間まで、ニアは自身の体に一つとして不調を感じなかった。
もしそれがニアの予想通り自由に対象の感情を支配できるものなのだとすれば、何らかの条件があるはずだと。
ニアに何らかのアクションを起こすことが最有力な条件として、ニアはあり得る可能性を一から一つずつ潰していく。
だがいくら考えようとキリがないその思考を断ち切るように、ニアは深い息と共にあたりへと目を向ける。
オーゼンの話から敵が複数人を同時に操作出来ることは確定していた。
そうしてニアは改めて、もし仮にこの場にいる全員が敵になった場合どれほどの数になるのかと数え始めるが、
36…52…89…143…はぁ
視界を横切る人の数は秒刻みにその数を増やし続け、やがて10秒も立たないうちにその数は100を超える。
だが、それだけの数を持ってしても通り過ぎる人と比べて仕舞えば端金のように些細なものであり、ニアは深い息と共にその行動をも中断すると、敵が支配できる人間の数に100人以下の限界がある事を祈るのだった。
「にあ!」
現実から呼ばれたその声により、ニアはハッとした表情と共にその意識を現実へと回帰させる。
そして時を同じくして、先ほどまで目の前にいたはずのオーゼンの姿がないことに気づき、焦った様子であたりへと目を向ける。
そして、
「…ははっ」
立ち止まるニアの少し後方、おそらく目的地であろう店の前にオーゼンはいた。
だがその表情が何とも困った様子であり、ニアは申し訳なさを抱きつつもこちらを見つめるオーゼンの表情に思わず笑ってしまう。
そんなニアに対し、当人であるオーゼンは何故ニアが笑っているのかわかっていないようで微かに首を傾げ、念の為と大きく手を伸ばして自身の居場所をアピールする。
そうして見えているとこちらもまた手を伸ばし、そしてオーゼンへと合図を返してみせる。
そうして数秒後、オーゼンの元へと辿り着くと、
「何笑ってたんだ?」
「いいや?ただなんというか、不意に来るのに弱いんだ」
「…?」
その言葉にさらに首を傾げるオーゼンを置き、ニアとウミは思い出し笑いのように顔を合わせてはくすくすと笑ってみせる。
そうして時は流れ、買い物が終わった頃には明るかった空も夜へと染まり始めていた。
比例するように人だかりに溢れていた街並みもまた自然とその数を減らし、ニアとウミはその時にして初めて視界の先に人ではない微かな景色を捉える。
「そんで、この後はどうする?」
暗くなった空を見て小さく息を漏らしたオーゼンは、一日の仕事をやり切ったように額を伝う汗を裾で拭いながら背後に立つニアへとそう問いかける。
振り向いた先のニアの両手に握られた袋には変わらずたくさんの玩具が詰め込まれており、だが変わったことは一つ。
ニアの背負うその鞄の中身が明らかに買い物に出かけた際よりも大きく膨れ上がっていた。
それもそのはず、鞄の中にはオーゼンおすすめの日持ち食料がたんまりと詰め込まれており、その存在感を隠すことなく放っていた。
そしてオーゼンの声に反応するように振り向いたニアは、完全に空になってしまった金銭を考えないようにするためにその口を開くと、
「そうだな。さっきの話がばれている以上、何か仕掛けてくるのはほとんど確定だろうな。とすれば、休息は取れるうちに取っておくのが最善だ」
「了解、けどあんたらは泊まる場所あるのか?」
「俺は野宿でいいが、問題はこの子をどうするかだな」
「なら、俺の家に泊めるか?」
その言葉にニアはわずかな間硬直し、だが次の瞬間には動き出すと、少し考えるようなそぶりをみせる。
オーゼンもまたこの街に住む住人である以上、家があることに対してなんら不信感があるわけではない。
だがそこではない。
ニアが不信感を抱いたのはそんなことが原因ではなく——、
「大丈夫なのか?お前の家族も変だって言ってたが…」
オーゼンは自身の家族のことを、この一件に対して信用のならない対象の一つとしてニアへと伝えていた。
そんな場所にウミを預けてしまえば、下手をすれば敵の手中に無警戒な子供を一人置き去りにするという事態になりかねないと、ニアはそう考えていた。
だがオーゼンもまたニアの当然の疑問に否定的な言葉を返すことなく、代わりにニアへ真剣な眼差しでその口を開くと、
「そうだな、俺の家族もあの時は変だった。でも、その後も変なんだ。危険だって意味で言ってるんじゃなくてむしろその逆って言うか…あの日、あの表情を見た俺は恐怖のあまり家を飛び出てな、でも急に飛び出て一人でやっていけるわけもなくて、夜の暗さに後押しされながら数時間後には恐る恐る家に戻ったんだ」
そう語るオーゼンの瞼には、いつかの日の光景の続きが映し出されていた。
見たこともない家族の狂気に途方もないほどの恐怖を感じたオーゼンは、大好物の料理すら残して家を飛び出し、オーグリィンの中を駆けていた。
人混みは既にその数を減らしており、オーゼンは人の間を縫うようにして、瞼にこびりついた恐怖から逃げるようにして走り続けた。
そうして体力がなくなり地面へと倒れ込んだ頃、疲労として襲いかかる荒れた呼吸はオーゼンへ思考すらままならないほどにその脳内を埋め尽くし、だがオーゼンはその疲れに感謝を抱いていた。
気が付けば明るかった空は完全に黒に染まり、何よりもその日の気温が寒かったことによりオーゼンは数時間前に見たあの景色が見間違いであることを祈るように、震える足で家の元へと歩き始める。
咄嗟に飛び出ては、裸足で走り続けたことによりその足は傷だらけになり、足裏に突き刺さった石によりその場に微かな血の跡を残す。
そうして遂に家の前へと辿り着いた時、オーゼンの呼吸は酷く荒いものになっていた。
それが見えた家族の狂気が見間違いではないことを本心では理解しているためか、だがオーゼンは大きく深呼吸を数回繰り返し、そうして震える指に力を込めるとその扉を勢いよく開いた。
見えたのは微かに暗い廊下であり、不気味な静けさがその場を取り巻いていた。
———だが、
「ゼン?どこ行ってたのあんたこんな時間まで」
何気ない声色と共に姿を見せたのは、他でもないオーゼンの母だった。




