その話は唐突に
突如告げられた少年からのお願いに、ニアはわずかにその思考を停止させていた。
時は少年の言葉を聞いた直後、至極真剣な少年の様子に只事ではないと理解していたニアですら、予想外なその頼みに反応を遅らせてしまう。
だが次の瞬間には怪訝ながらに少年へとその口を開くと、
「…どう言うことだ?」
「その前に、この頼みを受けてくれるかどうかの返事を聞かせてくれないか」
「それは、他の誰かじゃダメなことなのか?」
「…もう1人、助けを求めるよう手紙を出してるんだ。けどもう時間がない、その人が来る頃には手遅れになるような、そんな気がするんだ」
「…わかった。だが返事をするためにも、まずは話を聞かせてくれ」
少年の口にした「もう1人」というのが誰のことなのか、それはニアにはわからなかった。
ただ、その後に続けられた「手遅れ」という言葉にニアは妙な引っ掛かりを覚えてしまう。
それは恐らく時間制限があるということ。
だがそれは少年の言う「手遅れ」な何かを経験しなければでてこないであろう言葉であった。
当たり前のように告げられたその言葉にニアは少年へとわずかな不信感を覚え、だがつい先ほどの少年の表情にはわずかなりとも嘘が紛れ込んでいなかった事で、より慎重に事の詳細を問いかける。
そうして嘘だと切り捨てなかったニアへ、少年はわずかに安堵の息をつくと、
「この街、知ってると思うがオーグリィンはこの世界の中で最も人で溢れる街だ。ここに住む人もみんないい人で、治安の良さも自慢できることの一つ。だけど最近、俺たちの足元。この地面の下から不思議な音を聞くんだ」
「音?」
「そう。何かの心臓の音のような、鼓動するような音が聞こえるんだ」
「それは…聞き間違いじゃないのか?そもそもこんなに大勢の人がいる中で地面から聞こえる一つの音を聞くことなんて出来るのか?」
「始めは俺も幻聴かと思って気に留めなかったんだ。でもその音はその日以来ずっと聞こえて、しかも俺にしか聞こえてないみたいなんだ」
ニアはその言葉を素直に信じることは出来なかった。
人混みで話し声すら碌に聞こえない街の中で、たった一つの幻聴かと勘違いするほどの微かな音を捉えることなど不可能だと考えたからだ。
だが対する少年はニアの反応に徐々に不安の色を見せ始め、その焦りようにまたしても嘘をついているそぶりは見えなかった。
「到底信じられないが…」
「本当なんだ、それに俺の家族にこの事を話そうとしても、気味の悪い笑みを浮かべるばっかりで真面目に話を聞いてくれなくてさ」
その脳裏には、いつかの光景が浮かんでいた。
それは数週間前の、聞こえる音が幻聴ではないことを確信した日のことだった———。
何日も途絶えることなく聞こえ続ける正体不明の音に、少年は遂に家族へとその詳細を問いかけようとキッチンへと向かっていた。
キッチンでは母が料理を作っており、鼻を掠める料理の匂いが空腹な体に食欲をそそらせる。
だが少年はそんな空腹を素通りするように、やがて母の背後にてその動きを止めると、
「…母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…いい?」
「んー?なあに、どうしたの?」
「母さんに聞こえてるのかはわからないんだけど、いや、信じてもらえるかもわからないけど…最近この地面の下から音が聞こえるんだ、それで母さんなら何か知ってない…か…って…?……!!!」
問いかける少年の言葉はだんだんと勢いを失い、やがて驚愕と共に打ち切られる。
そしてそれは当然のことだった。
何故なら少年の言葉に反応するように振り向いた母の表情は、少年にとって見慣れたものではなく——、
「母…さん…??」
貼り付けられた能面のような笑みが、そこには存在していた。
それは普段の温厚な人柄からは想像ができないほどに狂気に満ちた表情であり、その表情を見た少年はやがて荒い呼吸と共に逃げるようにしてその場から離れることをよぎなくされる。
それから間も無くして、少年は聞こえるこの音が他の人には聞こえないこと、そしてこの音について問いかけた瞬間に誰もが母と同じ能面のような笑みを浮かべることを理解する。
そうしてその表情にどうしようもないトラウマを抱えてしまった少年は、今日この瞬間まで誰にもこのことを打ち明けられなくなってしまっていた。
「それで、その音は今も聞こえるのか?」
「最近はずっとじゃなくなった。けど代わりに、前より大きな音で一日に数回聞こえるようになったんだ」
「今日は?」
「今日も聞こえた。それもついさっき、買い物をしてる時に」
「…!!」
その言葉にニアはわずかな驚愕を浮かべ、同時に自らもが他の者達と同じくなんの音も聞こえなかったことにより更に少年の発言に疑問を持ってしまう。
「信じられないのはわかってる。でも本当のことなんだ。だから俺は今あんたをここに呼んでこんな話をしてる」
「この地下に何かがいるって記録はないのか?」
「分からない…俺もそれを気になってこの街の歴史が記された本をいくつか読んだけど、そのどれも何故かここ3000年より前の記録は何もないんだ。おかしいんだ、この街は4000年近く前からあるっていうのに…」
意味深に放たれたその言葉にニアは再び眉を顰めてしまう。
だがその矛先は少年ではない。
少年の言葉が本当だとして、記録しておくことすらが許されない程の“1000年間に起きた何か”が、今もまだ続いているのかと疑問に思ってしまったのだ。
記録に残されない歴史と、何かあるかもしれないこのオーグリィンの地下。
そしてそれがまだ続いているとして、何故そんな場所にこれほどまでに巨大な街ができたのか。
絶えず脳内に訪れる疑問はニアの思考を掻っ攫っていき、そしてその全てが”今直面している問題が、触れてはいけない禁忌“のようなものなのだと言う結論へと辿り着く。
だからこそ——、
「…すまないが、俺は力になれそうにない」
「信じられないのはわかってる。でも…!」
「信じるよ。お前が真面目に話してるって言うのは俺にも伝わった。でも、だからこそこれは関わらない方がいい一件な気がしてならないんだ」
「そんな…」
心が痛まなかったわけではない。
現にニアは絶望に目を伏せる少年の顔を見ることが出来ず、それほどまでに少年にとってニアが最後の希望であったこともまた理解していた。
だが、それでもニアはその一件に手を貸すことが出来なかった。
直感で理解してしまったのだ。
少年の持ち掛けたこの話が、極夜の一件と同じ、身の丈に余る程に巨大な何かである可能性を。
だからこそ、
「すまないな」
そう言葉を残し、去っていくニアの背中を少年は声を発さずにただ見つめていた。
それは縋りついた可能性にすら振り払われたが故の悲しみのせいか、或いはこれから起きる可能性のある事象を阻止する事を諦めたためか。
少年の心情がどれほどのものだったのか、ニアには理解することができなかった。
———ただ俯く少年が、最後の一手を失ったかのように、絶望にも近い表情を浮かべ、立ち尽くしていたこと以外。




