結末
「これは…死んでいる?いや、止まっているのですか」
「なっ…!?」
あり得ないはずの異常事態。
予想だにしなかった事態にニアは驚愕を余儀なくされ、同時に振り抜いていた腕はスキアへと接することなく、代わりに動き出したスキアの腕により、回避すら間に合わず掴まれる。
「おや、驚きましたか?嬉しいですね」
「…何をした」
腕を掴まれてもなお負ける気はないと、ニアはスキアを睨みつけたままそう問いかける。
「少し細工をしたんですよ。あなたが何かを狙っていることはとっくにわかっていましたから」
瞬間、スキアは突然自身の心臓部に腕をめり込ませ始めた。
モゾモゾと動く全身が生き物としてニアに鳥肌を立つことを余儀なくし、同時に差し出された腕にはある一本の枝が握りしめられていた。
「これはユグドラシルという神樹の枝です。見た目が気に入ったので持ってきていたのですが、思わぬところで運に恵まれましたね」
「ユグドラシル…それの力か」
「その様ですね。おかげで助かりました」
「なら、その効果があるのもそれを握ってる間だけだろ。…この距離なら届く」
時と共に七色にその色を変貌させる、細い一本の枝。
スキアの発言から、ニアは先ほどのルイストを喰らってもなお生きていたのはこの枝が関係するのだと理解する。
そして運よくか悪くか、伸ばした腕を掴まれたことによりニアとスキアの距離は“届く”距離だった。
「その枝、もらうぞ」
そうしてニアは再び呟く。
「ハイド」
瞬間、スキアの握り締めたユグドラシルはその姿を消滅させ、代わりにそれはニアの腕の中へと手繰り寄せられる。
対象、それも自身の手に握りしめられるサイズと限定されたものを、自身の手元へと転移させるだけの、なんてことのない力。
だが、もう力の全てを出し切ったはずのニアがどうして新たにルイストを使うことが叶ったのか。その理由は至極簡単なものであった。
『クロノス』の静止時間を1000から800秒へ。減らした時間分をルイストへと回す。
発動中の力の条件を変更させることなど、この世にできるものなど存在はしない。
だがニアは生死の瀬戸際にてそれを成功させ、同時に余った分の力を自身の内へと転換させることにより新たなルイストの使用を可としたのだ。
そうして放たれたハイドは最も必要な瞬間にで放たれ、最も警戒すべき障害を取り除いた。
スキアにはもうこの静止した世界の中で動く術はなく、今この瞬間か、はたまた次の刹那かには再び動くことのない傀儡へと様変わりするだろう。
——そのはずだった。
「…危なかったですね。えぇ、危うくでした」
スキアはまだ動いていた。
すでに枝はニアが持っているのにも関わらず、先ほどまでと同じように止まった時間の中を、当たり前のようにニアと同じく動いているのだ。
「どういうことだ…なんでまだ動けるんだ」
「驚きましたか?あぁ、やはり気に入ったものは手に入れるに限りますね」
動揺を隠すことのできないニアへスキアは満足そうにその表情を歪めて笑い、そして再び自らの心臓部へと腕をめり込ませて見せる。
そうして次の瞬間にはめり込ませた腕を横へとずらし、その中の光景をニアへと理解させることにより答え合わせをする。
「ユグドラシルは大変綺麗でした。物の価値を分からなかった私でさえも見惚れてしまうほどに。——なので、貰いました」
「っ…!」
広げられた胸の内側は異空間のようになっており、その中には先ほど奪い去ったはずの、いや、その元となっているであろう虹色に光り輝く巨大樹がいくつも聳え立っていた。
「これがユグドラシル。綺麗だと思いませんか?」
目の前の現状に理解が及ばないニアは、今度はスキアが勝ちを確信したようにニアの握り締めたユグドラシルの枝を指さすと、
「その枝、綺麗でしょう。効力も消え、もうあまり綺麗ではないのですが、ぜひプレゼントしてあげましょう。そして」
「ぐっ…あぁぁ!!」
メキメキと鈍い音を立ててニアの腕は握り潰される。
瞬間的に襲いかかる絶痛にニアは思わず悲鳴を漏らし、同時にその呼吸を荒くする。
そして、事態は更に最悪の方向へと傾いてしまう。
握りつぶされた腕に連鎖するように世界には巨大なヒビが生じた。
それはクロノスを支えていた腕が潰されたことによりルイストが破綻したということの証明であり、次の瞬間には砕け散るようにして世界は砕け、世界には再び色が訪れる。
時間は動き始めてしまった。
無は有へ、静は動へと、本来のあるべき姿へと還ってしまったのだ。
「そして、私の勝ちです。せっかくですので…そうですね。あなたの力をもらうとしましょうか」
もはや戦いを続ける意味はないと言わんばかりにスキアはそう宣言する。
そうして握りつぶした腕を再びグシャリと握り締め、そのままニアの体ごと外へと放り投げる。
地面に不恰好に転がるニアは痛みに悶え、だがスキアはそんなニアの元へと歩みを寄せると、その額へと手を添える。
「なるほど、初めて見る力…あなたの世界ではルイストとでも呼ぶのでしたか…ふむ、その力にそんな使い方が…」
瞬間、ニアの体には何かが抜け落ちていくかのような感覚が訪れる。
それが今、この瞬間力を奪われ始めてしまっているからだということを理解するのに、1秒と時間は要さなかった。
ニアの記憶を読み漁るスキアは興味深そうにぶつぶつと独り言を連ねていき、そのどれもがスキアにとって未知のものであったようで、深く考慮しながらもその力の一つ一つを奪い去っていく。
一つの力が奪われるたびにニアの体は何かが抜け落ちるかのような気持ち悪さに襲われる。
だがニアはそれでもまだ諦めていなかった。
「…襞雨!」
スキアに気付かれぬよう少しずつ生成していた鋭利な雨粒の群れ。
それはクロノスが破綻する寸前にて自己的に決壊させたことにより還ってきた、先ほど同様の小さな力の結晶体の一欠片を使用した技。
それを油断だらけのスキアの背中へと狙いを定め、自らををも巻き込む覚悟で飛来させる。
降り落ちる雨は辺りにいくつもの小さな痕を残すほどに地面を抉り、同時にそのほとんどがスキアへと衝突する。
だがその全てが降り落ちた時、目の前に広がる現状はニアへ絶望の知らせとして伝わった。
スキアの体へと接した雨粒は、その瞬間弾けるような姿を消滅させ、最後の抵抗はかすり傷ひとつとしてスキアに与えることはできなかったのだ。
そして同時に、全ての記録を読み終わったスキアはどこか不思議そうに首を傾げた。
「おや、先ほど君が使ったクロノスという力…ルイストですが、どこにも記録はありませんね。はて」
つい先ほど行使していたにも関わらず、どこにも記録のなかった力。
そうして不思議がるスキアへ、ニアは痛みに表情を歪ませながらもせめてもの嫌がらせと言わんばかりに無理矢理に笑うと、
「…当たり前だ。あのルイストは俺のものじゃない。お前が殺した人々が命と引き換えに俺に託してくれたものだ」
「なるほど。あなたの記録にないのはあなたのものではないから、と。…では仕方ありませんね」
伝えられた言葉に納得したように、そしてどこか落胆したように返事を返したスキアはもう興味のあるものは無くなったからと、その場からゆっくりと立ち上がる。
それは戦いにおいて勝者のみに許された特権であり、スキアもまた勝者としてこの戦いに終止符を打つべく最後の言葉を残す。
「楽しかったですよ。ただ、私には遠く及びませんでしたが」
「っ…くそ…!!!」
何処までも絶望を告げるその声はニアとの戦いを楽しんでいたことを伝えるように嬉々としていた。
そうして自らの足元で体を起こそうと、だが力なく地に伏せることを幾度となく繰り返すニアへとその手をかざし、奪った力を用いてこの戦いを終わらせようとしていた。
だが、その時、
「ちょっと待って!」
そんな声が、辺りへと響いた。
その声は2人にとって聞き覚えのあるものではなく、だが疑問を持つと同時に一つの影が2人の間に割って入った。
腰に刀を携えた、若い、白い髪の少女。
「…子供ですか。残念ですが私はあなたのような戦いの経験がない方には…」
「この人」
「…??」
「今すぐこの人から離れて」
少女の瞳は迷うことなくスキアを射抜いていた。
だが、わずかに震える声がそこに立つことがどれほど危険なことなのかを少女も理解しているのだということをニアへと理解させる。
それでも少女は立ち塞がったのだ。
自らの身を顧みず、怪我人を見捨てるわけにはいかないとこの戦いの勝敗を侮辱してまで割って入ったのだ。——だが、
「仕方がありません。ゴミ拾いでもしてから帰りましょうか」
スキアに、見ず知らずの少女の命令を聞く理由などなかった。
「待て…!やめろ!!!」
力なく叫ぶ敗者の声などスキアにとっては声として認知するまでもない雑音に他ならない。
ゆっくりと少女へと向けられる腕は、これからニアから奪った力を用いて少女を殺害しようとしていることの証明であった。
そうして奪った力を試すべくスキアは口を開き———
「…なるほど…いいでしょう。今はやめておきましょう」
だが、開いた口から力の行使が命じられることはなかった。
代わりにスキアは何かに気づいたように何処か遠くの方へと目をやり、それをきっかけに不自然なほどにおとなしくその身を引く決断を下したのだ。
伸ばされた腕は瞬く間に折りたたまれ、スキアはニアへと目をやることもなく自身の訪れた空間の割れ目へとその目を向ける。
「君の命を奪えなかったことは少々心残りではありますが…、きっとまた会えることでしょう。その時まで、せめてその命、大事にしておいてください」
地面を蹴り、いつかの割れ目へと降り立ったスキアは続けて自身の足元で未だに睨み続けるニアへと目を向けると、そう言葉を残す。
そして空間は、時間を巻き戻すかのようにして自然なあるべき姿へと戻り、スキアは割れ目の中へと姿を消した。
「なにが…」
あり得ないことの連続に、少女はスキアの消えた空を見つめながらそうポツリと呟いた。
そして同時に、その足元からは何かが倒れる音が聞こえた。
咄嗟に目をやったその先には、力なく横たわるニアの姿があり、少女は今更にして気づいた自身の予想を遥かに超えるニアの重症具合に血の気を引きながらもその体を抱き抱える。
息は浅く、脈も弱い。おそらくは流した血の量が多く、それを放置していたがためにここまでの重症となっていたのだろう。
「…こんな怪我でどうやって…」
動くことなど不可能なはずの重症でありながらもつい先ほどまで戦っていたニアに少女はわずかに驚いた表情を浮かべる。
だが、次の瞬間には少女は覚悟を決めたように倒れるニアの体を手繰り寄せると、
「とりあえず、運ばないと」
少女はニアを背負いながら、一歩一歩を歩ませていくのだった。




