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遠い世界の君から  作者: 凍った雫
夢と旅路
38/105

少女の名

 森の中を駆けて数分が過ぎた頃——、


 ふぅと短い息をこぼしたニアは、少女を地面へと下ろそうとその体へと手を伸ばす。

 だが対する少女は今の体勢が気に入ったのかニアの体へとしがみつき、その様子にニアもまた無理に引き剥がす事を断念していた。


「…めいわく?」


「いや、いいよ。気にするな。それより酔ってないか?」


 どこか不安げに問いかける少女へニアは優しく微笑み、そうして逆に少女へと問いかける。


 そんなニアの様子に安堵したのか、微かに目線を俯かせていた少女は次の瞬間にはその表情に躊躇いのない笑みを浮かべ、


「だいじょうぶ、げんきいっぱい!」


 屈託のない笑顔にニアもまたわずかに安堵し、微かな笑みと共に密かにその胸を撫で下ろす。


 下ろされることがなくなったからか、少女は先程まで以上にどこか浮き足立つような表情を浮かべ、変わらずニアの腕の中に抱かれていた。

 だがその時、少女は不意にハッとしたような表情を浮かべると、


「おにいさん、おなまえは?」


「セルニアだ。ニアとでも呼んでくれ」


「わかった!じゃあ、たすけてくれてありがとう!にあ!」


 間髪入れずに向けられた、幼いながらの純粋無垢な笑みに、ニアは取り残すという選択肢を自らの中に浮かべていた事を静かに悔いる。


 そして同じく、いつまでもその場合わせの名前で呼ぶ訳にもいかないからと、ニアもまた少女へと目を向けると、


「君の事はなんて呼べばいい?」


 記憶のない少女には呼ばれるべき名前がなく、だからこそニアは少女へとそう問いかける。


 瞬間、ニアの言葉を聞いた少女は迷うそぶりすらなくその口を開くと、


「なんでも、でもなまえつけてくれるならそれがいちばん」


「つけるって…」


 当然ながら、未成年であるニアに子はおらず、人に名前をつけるという経験もがまた存在しなかった。

 だが当人である少女はニアが名前をつけてくれる事を期待しているのか、その目を逸らす事なくじっと見つめる。


 そうして突如として与えられた無理難題に頭を悩ませていたその時、ニアの視界の中にはある景色が映り込んだ。


「海…か」


 目を向けた先には青い海が広がっており、昇る朝日もが相まってその容姿に、ニアはつい見惚れてしまう。

 その景色に、ニアは少女の翼を初めてみた時と同等の感動を味わってしまっていた。


 久しくみていなかった海はいつもと変わらず途方もなく広がっており、だが何故かそんな見慣れたはずの風景がニアの心には強く響いていた。


 だからこそ、ニアはふと小さく笑うと、改めて自らの腕の中の少女へとその目を向け、


「じゃあ、ウミって名前はどうだろうか?それとも安直だと嫌か?」


 我ながら安直なネーミングセンスだと理解しながらも、ニアは少女へとそう問いかける。


 我儘の多い子供である以上、断られることも仕方のないことだと腹を括りながらも、ニアは少女の顔色を伺うようにじっと見つめる。

 だが数秒後、わずかに沈黙を貫いていた少女は再びその顔を持ち上げると、


「ウミ!わたしウミ!」


「気に入ってくれたならよかった」


 幾度目かの屈託のない笑顔にニアはほっと一息つき、代わりにわずかに頬を緩める。


 名前をつけられた少女——もとい“ウミ”は、自らの名を忘れないようにとヒソヒソと何度も復唱していた。


 そうして同時に、何かを思い出したようにハッとした表情を浮かべたニアは、次の瞬間にはおもむろに地図を取り出すと、


「そういえば確かこのあたりに…」


「にあ、それなに?」


「ん?あぁ、見てもわかるかわからないけど、今俺はここを目指して歩いてるんだ。ここからこう歩いてきたから…今はこの辺りか?」


 腕の中から顔を覗かせたウミへ、ニアは手に持った書写しの地図を見せ、今自身が向かっている場所と、おおよその現在地を伝えてみせる。


 本当であれば道中の国名なども教えてあげたがったが、生憎ニアはこの世界へと落ちてきてからの2ヶ月間を全て鍛錬に費やしていたため、語ることができるほどの知識を持っていなかった。


 そうして差し出された地図を見たウミは、ニアの予想通り「うーん」と微かに首を傾げる。

 だが、次の瞬間には諦めたようにパッと明るい笑顔を浮かべると、


「わかった!いこ、にあ!」


 恐ろしいことに、先ほどから歩いているニアよりも体力を使っているのではないかと疑問に思うほどに騒いだにも関わらず、ウミには未だ元気が尽きるそぶりが見えなかった。


「…なぁウミ、街に寄ったら何か服でも買おうか」


「…!!いいの!?」


 躊躇いがちなその発言に、ニアはこれまでのウミの境遇を改めて理解し、だからこそわざとらしく笑ってみせると、


「ダメだっていうと思ったか?俺はそんなにケチじゃないぞ」


「やった!」


「…それじゃ、何処かに出た時その場で衣類は買うとして、問題はそれまでどうやってその翼を隠すかだな…」


「じゃあこれ!」


「…それは?」


「なんかおめんみたい、つけたらつばさきえるってきいた」


「…聞いた?誰に?」


「んー…わかんないけど、ことばだけおぼえてるの」


 ウミはニアの疑問へとそんな言葉を返し、だが同じく嘘をついている気配のないその言葉に、ニアはやむなく疑いの意を潜める。


 そして同時にウミはどこからか取り出したその面を手に握りしめたまま後ろへと振り向き、何やらガサゴソという物音と共にニアの方へと改めて振り返る。

 だが、見えたその表情は明らかな違和感が混ざっており——、


「どお!」


「これは…」


 振り返ったウミの顔には、黒いモヤがかかっていた。

 まるで影のように顔全体を覆い隠すそれは、明らかな違和感としてそこに存在し、だが不思議なことに違和感として感じさえしなければ、不自然なほど自然に顔の一部として馴染んでいた。


 そして同時に変わったことはもう一つ。


 先程までそこにあったはずの白い翼が、ニアですら気づかぬ間にその姿をくらませていたのだ。


「すごいな、どうなってるんだ?」


「わかんない!でもウミいがいがやってもいみないみたい」


「そうなのか…不思議だな」


「ね、ふしぎー」


 不思議そうに思考するニアへ、ウミは面を外すとニアの手のひらの上に乗せてみせる。


 瞬間、先程までなかったはずの翼が再びいつの間にかそこに姿を現しており、その光景を見たニアは「なくなる」よりも「見えなくなる」感覚に近いのだと予想する。


 そして手に乗せられたことにより軽い重さだけを残す面は、ウミの言葉通りそのどこにも仕掛けという仕掛けは存在せず、文字通りウミ以外が持っても“ただの面”としてしか機能しないようだった。


 その不思議さにニアはつい首を傾げ、それを見たウミもまた真似をするように首を傾げてみせる。

 だが、いくら考えてもわからないそのカラクリにニアは諦めた様子でその面をウミへと差し出すと、


「まぁ、とりあえず今はつけなくていいか。人のいる場所に着いたらつけよう」


「わかった!」


 ウミの元気な返事を起点に、ニアは再び止まってしまっていたその足を動かし始める。


 その後の数時間もウミの元気が尽きることはなく、その騒がしさのおかげもあり、ニアの脳内に暗い出来事がよぎることは一度としてなかった。

 そうして少しの休憩ののち歩くことさらに数時間、ウミと出会ったことにより明けた空は再び息を潜め、辺りは深い闇が覆い隠していた。


 当の本人であるウミはニアにおんぶされた状態でスウスウと寝息を立てて眠りについている。


 止まり止まりで数日かけて歩くつもりだった森も、ウミの存在があったことによりニアに止まることなく歩くことを意識させる。

 その意識のおかげか、足りるかと不安だった食料は余裕を持てるほどに余っており、記した地図を見ながらニアは間も無く森の終わりであることに安堵の息を吐く。






地図によればこの先にあるのは山岳地帯。

目的地はそのさらに向こうへといった場所…

いや、一歩ずつ着実に、だ






 森を抜けた先には高々な山岳地帯が記されており、だがウミを連れてそんな危険な地帯に足を踏み入れる訳にもいかないと、ニアは静かに回り道をする決断を下す。

 書き写した地図には意識していなかったが故に鮮明に記されてはいないが、その位置と大きさから見るに国が建っているようだった。

 

 そうして止まる事なくさらに歩いた頃、ニアの足がジンジンする痛みに襲われることと引き換えに、遂にその視界の先に森の終わりが訪れる。


 いつの間にか明けていた夜は木々の隙間から微かな光を溢れ落とし、ニアは隠しきれない喜びを表現するように微かに駆け足で光の元へと歩いていく。


「これは…」


 森を抜けた先に見えた景色に、ニアはつい目を見開いてしまう。

 何故ならそこに見えた景色は、ニアの想定していた山岳地帯とは似ても似つくことのない——、


「…街…?」


 セレスティアの景色ですら可愛く思えるほどの、人混みに溢れた町並みだった。

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