選択肢
戦いを終え、2人きりになった空間の中で少女は何も話すことなく、代わりに怯えた表情でニアを見つめていた。
辺りは再び静寂が包み、耳を横切る風の音だけが鼓膜を揺らす。
「…はぁ」
その空気感に耐えられなくなり、ニアはつい深いため息をこぼしてしまう。
瞬間、ニアのため息に反応するように少女はびくりと体を動かし、より怯えた表情でニアへとその目を向ける。
それほどまでに怯えているにも関わらず逃げないのは、きっとこれまでの経験が関係しているのだろうと、ニアは目の前の少女にわずかな同情さえ抱いてしまう。
そうして次の瞬間、ニアは決心したような表情を浮かべると、やがて少し先に立つ少女の元へとその足を踏み出していく。
その動きに少女はあからさまな怯えを見せ、だがニアはその歩みを止めることなく少女の元へと歩いていく。
そうして少女の元へと辿り着いた時、ニアは怯える少女の元へとその手を伸ばしていき——、
「…?」
恐怖のあまり強く目を瞑っていた少女は、自らの身に何が起きたのかを瞬間的に理解することができなかった。
ただ、自らの足元でジャラジャラという音が鳴り、同時に自らの両腕が驚くほど軽くなったという、それだけは理解できた。
その自らの身に起きた異常を確かめるために少女は瞑っていた瞼をゆっくりと持ち上げていく。
そうしてやがて自らの足元に横たわる鎖を捉えたことにより、手足に繋がれていた鎖が解かれたのだということを遅れて理解する。
突然のことにぽかんとした表情を浮かべる少女。
そんな少女へ、ニアは余計な刺激を与えないようにと背中を向けながら、慎重に刀を鞘へとしまっていく。
「あー…それじゃあ、俺は急いでるから。気をつけるんだぞ」
やるべきことはやったと言わんばかりに、気まずさから逃げるようにニアはそんな言葉を口にする。
そうしてそそくさと踏み出された足が、少女とは真逆の方向の大地を踏みしめたその瞬間、
「あの…!」
先ほどまで怯えていた少女が声をかけてきたことにより、ニアはその動きを止め、代わりに少女の方へと振り返る。
聞こえてきたその声はやはりごく普通の少女のようで、見えたその姿もまた、背中に生えた“それ”以外はごく普通の少女と大差ないようだった。
「…どうしたんだ?」
だが、呼び止めたはいいものの話す内容までは考えていなかったのか、少女はそれ以上の言葉を続けることなく、代わりにその目線は下を向いてしまう。
ニアはそんな少女を急かすことのないように少女からさらに半歩後ろへと下がると、必要以上に怖がらせないようにとゆっくりとその場にかがみ込んでみせる。
その時、少女は俯いていた目線をわずかにニアへと向け、微かに震えるその口を開くと、
「…んか」
「…?」
静寂を以てしても完全には聞き取ることのできなかったその声に、ニアはつい首を傾げてしまう。
だが、その言葉が伝わっていないことを少女もまた理解したのか、震える手のひらをぎゅっと握りしめると、
「…わたしもつれてって、くれませんか」
目にうっすらと涙を浮かべ、震える声でそう言ってみせた。
「…は?」
だが、ニアは突然の少女のそのお願いに間の抜けた声を漏らし、わずかな間その動きを止めてしまう。
決して言葉の意味が理解できなかった訳ではなかった。
ただ、つい先程まで命の危機に晒されていたはずの少女が、ただ一度助けただけの、その素性さえわからない男へそんなお願いをするとは予想していなかったのだ。
だからこそ、ニアは困ったようにその視線を彼方此方へと彷徨わせ、そうして少しの沈黙の後に再び口を開くと、
「あのな…君、ついさっき捕まってたばっかだろ?助けたは助けたが、人を信用するのが速すぎると思うぞ」
「でも…でも、たすけてくれた」
「まぁ助けはしたが…とりあえず、俺は君にこれ以上何かをするつもりはない。それがいい意味でも悪い意味でも、だ」
「…そっか…」
「ぐ…あのな、まずだが、何で助けただけでそんな信用してくれてるんだ?俺が君を横取りしにきた悪いやつならどうしてたんだ?」
「…あっ」
『悪い奴』という言い方に少しの幼稚さを感じながら、ニアは少女へと問いかける。
だがその言葉を聞いた瞬間、少女がハッとした表情を浮かべた事によりニアはこの時にしてようやくこの場に少女を取り残すことが何を意味するのかを理解する。
だからこそ、ニアは堪えきれないため息を、だが少女に憤っているのだと勘違いされないように慎重にこぼすと、
「…君、名前は?」
「…わかんない」
「んん?」
「…きがついたらさっきのひとたちにつかまってて…」
問いかけに対する少女の反応に、嘘をついている様子は微塵として存在しなかった。
本当に何もわからないままあの男たちに捕らえられ、ここへと連れてこられたのだろうとニアは長考するまでもなくそんな結論へと辿り着く。
そうして、念の為に再び少女へとその目を向けると、
「家は?」
「…わかんない」
「親は?」
「…わかんない」
問いかけられた全ての問答に対して回答と呼べない回答が返ってきたことにより、ニアは1人で静かに頭を悩ませる。
そして、それらの回答を以てニアが導き出した答え、それは———、
「記憶がないのか…厄介だな」
数多の問いに対する返答、そしてその返答に対し嘘を疑わせないほどの自然な立ち振る舞い。
つまるところ、ニアが導き出した結論は「少女は記憶喪失」という、そういうことだった。
だが少女はそんなニアの苦悩を知ってか知らずか、ふと目を伏せたままニアの元へと躊躇いがちに歩みを寄せると、
「…つれていってくれない…?」
「あぁもう…いや、でも…んーー…」
返答に困り、頭を悩ませるニア。
だがニアが返答に困っていたその理由は、決してニアが子供が嫌いだからという訳ではなかった。
ニアが迷っていた理由、それは即ち『食料の問題』であった。
鞄の中にはセレスティアで買い貯めた食料がたんまりと敷き詰められていた。
だが、それだけの量では連れて行ったとしても目的の場所に着くまでには間違いなく底をつき、最終的には空腹を強いてしまうと思ったからだった。
そしてニアが返答に迷った理由はもう一つ。
ニアはこれまでにも幾度かの野宿の経験があり、今更外で世を過ごすことになんの躊躇いも存在しない。
だが少女は違う。
見るからに齢の浅い少女に自分と同じ野宿での生活をさせると言うのはニアの良心が許さなかった。
かと言って先ほどの様子を見るに、ここに残していけば餓死するのもまた時間の問題であることは目に見えていた。
セレスティアへ連れて行こうにも、いつ何処で先ほどの男たちの仲間に襲われるのか定かではない。
パラドックスにも近いその思考に頭を悩ませていると、いつの間にか世が明け、あたりが白み始めていた。
「…はぁ、仕方ないか」
おそらく食べ物もろくに食べていないであろう少女を長居させる訳にもいかないと、ニアは長考を断ち切るように深いため息をつく。
そうして変わらず自らを見つめる少女へ、ニアはゆっくりと立ち上がると、
「わかった、連れていく。ただしひとつ条件がある」
「なあに?」
「ちょっと走るから酔っても文句言うなよ」
「わ…!」
不思議そうに少女が首を傾げたその瞬間、ニアは軽やかに少女の体を抱き抱えると、できるだけ負担のかからないようにと気を配りながら森の中を駆けていく。
初めての体験だろうと、慣れるまでは怖がられる事を予想していたニアだったが、対する少女の反応はそんなニアの予想とは真逆のものだった。
自らが動く事なく視界が動くという未知の体験に、少女は抱き抱えられる体勢ながらも両手を大きく広げ、「わー!!」と無邪気にはしゃいでいた。
先程まで見えなかった、少女ほどの年頃の子の正常な反応。
その微かな元気が垣間見えたことに、ニアは静かに笑みを浮かべるのだった。




