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遠い世界の君から  作者: 凍った雫
夢と旅路
34/105

行ってきます

 どれほど歩いただろうか。


 踏み出した足はいくあてもなく途方を彷徨い、だがそうして見えた景色の全てには、思い出して仕方がないほどにエリシアとの思い出が染み付いてしまっていた。

 いつか本を買いに来た店、いつかのニアの成長を祝うために訪れた、少し高級な店、そして、今は赤くシミのついてしまったその服を買った店。


 流れる人混みの中でニアは人知れず声も漏らさずに1人苛まれ、


「…っ」


 瞬間、その人混みから抜け出すようにニアは人混みの中を駆け出し、そしていくつもの思い出を抜けていく。


 そうして息が切れるほどに走った時、ふと目をやったその先にあったのは、


「…いつの間に」


 見慣れたはずの、この世界にはありふれた一軒家。

 

 黙々とそこに聳えるそれはまるで然るべくして辿り着いたのだと言わんばかりにニアを見下ろし、ニアもまたその家を静かに見つめる。


 ニアは、数十日ぶりに家の前へと戻ってきていた。

 それはエリシアとの暮らしの記憶がどこよりも根付いた、1人で使うにはあまりある部屋を残した大きな家。


 その家は帰ってきたニアを変わらず温かく迎え入れるようであり、だが一切の灯りを伴わないその外見はどこか寂しさを纏っていた。


「…」


 思い出から逃げていたはずが、思い出の中心部に戻ってきていた。

 瞬間、ニアはその場所にわずかな安心感を覚えてしまっていたことを自覚し、次の瞬間には静かに自らを嘲笑する。


 そうして無意識の間に扉のそばへと歩みを寄せていたニアは、やがてそのノブへと手をかけ、


「…ただいま」


 その中へと足を踏み入れるのだった。


 中へ踏み入り、一番に目に映ったのは目の前に広がる廊下の先にあるリビングだった。

 水切りカゴに入れられた食器はいつかの日に立てかけられたまま放置され、心なしか心を被っているように見えた。


 ニアはそんな食器の元へと歩み寄ると、軽く水で被った埃を洗い流し、そして変わらず積まれた食器棚の中へと食器をしまっていく。


 そうして一通りの食器が片付けられた頃、ニアはその視界を再び部屋の中へと彷徨わせ、やがて一つの部屋へと辿り着く。


 それは先ほど通ってきた廊下の左側に広がる、エリシアが趣味で集めたと言っていた、この世界の歴史についての本などをこれでもかも詰め込んだ部屋だった。

 部屋の中ぎっしりに立った本棚は見事なまでにその全てに本が詰め込まれており、そのどれもがかなり昔の本なためか、元々の古傷なども相まってあまり変わっているように見えなかった。


「っ…」


 瞬間、ニアは家から飛び出すと、行くあてもなく駆けていく。

 その心に一切の具体的な行動案はなく、ただひたすらに心を取り巻くやるせない気持ちを紛らわせようと思い立ってのものだった。


 だが皮肉なことに駆け出したニアのたどり着いた場所は、そんなニアの考えとは相反する地点だった。


「…ほんとに、なんでだろうな」


 呟くニアの目前には、ぽつんと建った家があった。

 ——それはニアがエリシアと共に稽古を積んだ、家を除けば最も長く時間を共にした場所。


 その壁には極夜へと出かけた日と同じく木刀が数本立てかけられており、数日前に雨が降ったからか、並んだその姿は何処か湿っているように見えた。


 必然だったのだろう。


 ニアがこの世界へ落ちてきてから、最も長くの時間を共にしたのは悩むまでもなくエリシアだった。

 その思い出はニアの知り得る全ての場所に存在しており、その記憶から逃げようとした結果として、その思い出を懐かしむようにニアは無意識のうちに思い出の濃く染み付いた場所へとたどり着いていた。


 だから、ニアは目の前にその小屋が見えた今も、その場を去ることをしなかった。

 ——できなかった。


 足は自然と小屋の元へと踏み出されて行き、ニアの呼吸はだんだんと荒くなっていく。


 ニアは心の何処かで期待していた。


 扉を開いたその先には、昼過ぎなのにも関わらず起きたばかりのようなボサボサ仲間をした灰庵がいることを。

 そしてそんな面倒臭そうな態度とは裏腹に、慣れない仕草ながらニアの吐き出すことのできない弱音を聞いてくれることを。

 ——だが、そんな都合のいい現実は訪れない。


「…」


 開かれた先には先ほど()と同じ薄暗さが待っており、その部屋の中に人の姿も、その世界の一つすら存在しなかった。

 久しぶりに扉が開かれたからか、微かに舞った埃がニアの鼻を掠め、外へと抜けていく。


 その時、ニアは不意に机の上に何かが置かれていることに気がついた。


「…?」


 それは手紙のようで、あまり埃を被っていないことから考えるに少し前に何者かによってここに置かれたようだった。


 瞬間、その手紙に吸い寄せられるようにニアは手を伸ばし、手に取ったその手紙を開き、目を向けていく。


 もしかすれば、それが灰庵からの何か重大な知らせなのではないかと考えてのことだった。

 エリシアが重篤な状態になっても見舞いの一つにすら行けない程の深刻な理由があるのだと、そう思いたかったからだった。


 ——だが、目を向けたその手紙に書かれていたのは、そんな期待とは相反する、真逆とも取れるものだった。


 手紙には、こう書かれていた。


『何があったのか、おおよその事は聞いた。おそらくこれを見ているのもニアだろう。直接会いに行けなくてすまない。厄介な連中に目をつけられて、しばらくは戻るのに時間がかかりそうだ。だが、今君はひどく落ち込んだ顔をしているだろう。だから、ただ一つだけ。——前を向け。君の為すべきことのために。』


 それは、他でもないニアへと向けられた灰庵からの手紙だった。


「ほんとに、何処までわかってるんだよあの人…」


 短く、簡潔に書かれた手紙にニアはかすかに声を震わせながらそう呟いた。


 長々と書かれた文は、あの適当な灰庵とは思えないほどに真剣な物言いであった。

 そして当然のようにニアの現状すらもを言い当てたその言葉に、ニアは改めて灰庵がそう言う人間なのだと思い出すと、微かに苦笑してみせる。


「…前へ、か」


 独り言のように呟かれた言葉に、どんな思いがが込められていたのか、それをニア以外が知ることはない。


 いつの間にか頬を伝っていた雫は、やがて震える手で握られた手紙へと溢れ落ち、そこに小さな跡を残す。


 そうして滲む手紙を見たことによりようやく自身が涙していることに気付いたニアが、それを拭うために手紙から手を離した時、


「…?」


 手に持っていた手紙のその端、ニアの指でちょうど隠れていたその場所に、何やら小さく文字が書かれていることに気がついた。

 

 見ると、そこにはただ一言「うら」とだけ書かれていた。

 そうして不思議に思いつつも言われた通りにニアは手紙を裏面へと返し、そうして改めて目を向ける。

 裏返された手紙には先ほどのような文字は書かれておらず、代わりにそこには地図のようなものだけがぽつんと記されていた。


 それはどうやらセレスティア付近を記しているようであり、その中にはニアの今いる小屋らしき場所と、そこから遠く離れた地点の二箇所にだけばつ印が記されていた。


「…行けってことか?」


 瞬間、ニアはポツリとそんな声を漏らす。


 記された地図に声はなく、ばつ印にどんな真意が込められているのかなどニアにはわからなかった。

 ただ、先ほどの手紙に書かれているのなら、この地図にもきっと何か意味があるのだと、そう思ったのだ。


「…行ってみるか」

 

 ニアは近くから別の紙を引き出すと、エリシアが目覚めた時に自分の居場所が分かるようにと記された地図だけを書き写していく。

 そうして書き終えた頃、ニアは手紙を机の上に持つと、地図の書き写されたその紙を握りしめる。


 ニアの悲しみが完全に晴れたわけではなかった。

 心は依然微かに曇っており、その足取りもどこか重苦しかった。だが、






強くなるんだ、ここから一歩ずつ。

もう、誰も失わないために。






 歩く気力を失っていたニアへ、この手紙は再び歩く理由を与えてくれた。

 道を記し、無力に嘆くニアへ踏み出す勇気を与えてくれた。

 

 今のニアには、それだけで十分過ぎることだった。


 ニアは静かな決意と共に涙を拭い、そうしていつの間にか袋に詰められていた、少しボロボロになってしまった羽織を身につけてみせる。

 そうして扉を開き、重い足取りは小屋の外へと一歩を踏み出す。


 瞬間、開かれた扉からは再び微かな風が部屋の中へと舞い込み、ニアの全身を横切っていく。

 これからの新たな一歩を祝福するように、日の光がその全身を満遍なく包み込んだ。


「よし…いくか」


 微かな暖かさがニアの全身を纏い、吹き抜ける風が辺りの草木を静かに揺らしていく。

 その時、ニアは不意にこんな言葉を呟いていた。


「——…そういえばこんな色だったっけな」


 ニア自身すらもが気付かないほどに色褪せていた世界は、ニアがそのことを自覚すると共に世界に色を蘇らせる。

 どこか懐かしく思えてしまった見慣れたはずの景色に、瞬間、ニアは微かに頬を緩める。


 そうして一歩、また一歩と段々と重さを取り払うようにニアはその歩みを進ませていく。

 世界を横切る風はニアの体を微かに揺らし、だがその時、不意に飛んできた木の葉がニアの頬を通り過ぎる。

 釣られるようにして背後へと振り向いたニアは、その視界に映った王都セレスティアに気づくと、再び小さく笑ってみせると、


「行ってきます」


 この世界に来てからの全ての時間を共にしたその国に、そして長い眠りについた少女へ、そう言葉を残すのだった。


 木の葉は、いつの間にかその姿をくらませていた。

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