任せた
隠し石付近にて———
突如として音もなく現れた『ニア』は、やがて隠し石へと後数歩という地点へと着地し、不意に小さく笑みを浮かべると、
「さて、俺の出番はここまでだ。あとは自分で進め、ニアくん」
瞬間、その言葉と同時に『ニア』の体はぐらりと傾き、倒れる寸前に体勢を持ち直した『ニア』は、慎重に腕の中の少女を地面へと横たわらせていく。
ニアは未だ深い眠りについたまま目覚めず、だからこそ『ニア』はそんなニアへ主導権を返すように静かに目を瞑る。
刹那、『ニア』の上半身は意識の交代を伝えるかのように地面へと垂れ下がり、無意識に踏ん張った足だけがその体を支える。
そうして数秒後、痙攣するかのようにわずかに微動したその手とともに、ニアの瞳はゆっくりと開かれ、
「…?…ここは…俺はさっきまで…」
目を覚ましたニアは、目の前の見覚えのない光景、そして自身が何故ここにいるのかを反射的に疑問を抱いてしまう。
だが次の瞬間に全身を貫いた痛みが朦朧とするニアの意識に気を失う寸前までの出来事を思い出させる。
そうして小さな悲鳴とともに踏ん張る暇すらなくその場に崩れ落ちた時、ニアは崩れた視界の先で力なく横たわる少女の姿を捉えた。
「っ…先輩!」
這うようにして駆け寄った先の少女は、変わらず静かにそこに横たわっていた。
未だ瞳は開くことなく、浅い呼吸により微かに上下する胸だけがニアへと生存という言葉を伝える。
瞬間、変わらず少女を助けるべく、隠し石のありかを探そうとあたりへと目を向けた時、
…隠し石…??なんで…いつの間に…
ニアの中に、先ほどの会話の記憶は残っていなかった。
それが朦朧とする意識での会話だったためか、あるいはなんらかの力によりその記憶のどこからも抹消されたのか。
だが、目前に目的の場所があり、後少しで手が届くという状況のニアにとって「なぜ自身がここにいるのか」などという疑問は考えるに値しないことだった。
ただその脳内には「一刻も早くエリシアを連れて行かなければいけない」という焦りだけが残っており、そうして少女の元へと微かに足を屈ませたその時、
「っ!!」
焦りを引き裂くようにして脳内に訪れた鋭い痛みに、ニアは思わず表情を歪めてしまう。
そうして、ニアはこの時にしてようやく理解する。
っ…足も折れて…
それは至極当然の事だった。
幾十、或いは幾百もの衝撃を抵抗すらできぬままに受け続けたニアの体は、その全身が絶えず悲鳴を上げるほどまでに重症となっていた。
そんな体が今まで無理矢理にも動いていたのは、ひとえに少女の伏せる姿に、辺りが見えなくなるほどまでに激昂していたからであった。
だが意識を失った瞬間にその激昂も息を潜め、残された本来の痛みが今この瞬間のニアへと襲いかかる。
ズキズキと痛む腕は力を込められているのかすら不鮮明なほどに冷たい熱さが支配しており、その全身もがまた絶え間ない激痛をもたらしていた。
それでも、ニアはその痛みを堪えるように、あるいは最後の働きとして願うように、横たわる少女の元へと震える腕を伸ばして行く。
痛みなんて気にするな…!動け俺!!
瞬間、骨が肉に突き刺さるかのような想像を絶する痛みが訪れ、だがそれでもニアは腕を伸ばすことをやめない。
そうして限界を伝える体の異常を無視して、遂に少女の元へとその手を届かせた時、
痛みがなんだ…!!動け…動け俺…!!
今ここで挫けたら、2度とみんなに顔負けできなくなる…!!!
誓ったんだろ!!自分に!!
いつの間にか呼吸すら忘れているほどにニアは少女を抱き抱えることに意識の全てを向け、そうして遂に抱き抱えて見せる。
持ち上げた腕からは絶えず血が流れ、大地を踏み締める足は碌に立つことすらままならないほどまでに震えていた。
目前に聳える隠し石へと一歩を踏み出すたびにその足は崩れ、だがその手は少女を手放すことなく抱き抱えていた。
数秒、或いは数十秒の痛みを堪え、ニアは足を進ませて行く。
そうして再び開かれた瞼が朦朧とし始めた頃、遂にその瞬間は訪れる———。
踏み出した一歩はいつの間にか隠し石の線を越え、セレスティアの中へと踏み入って行く。
瞬間、堪えていたニアの体は遂に限界を迎え、隠し石の中に飛び込むようにして倒れ込んでしまう。
「やっと…帰って来れた…あとは地上まで…連れて…」
隠し石の先の景色は数時間前に見たのと同じ、悲しい静かさを帯びていた。
それ故にニアの荒い呼吸一つですら無数に反射し、果てがないと思えるほどまでに先へと進んだのちに霧散する。
だがニアは理解していた。
目の前に広がる、途方もないほどに長いこの階段を登りきらなければ、腕の中の少女が助からないと言うことを。
今ここで意識を失って仕舞えば、そのせいで一つの命が失われてしまうのだと———。
ダメだ、起きろ…倒れてる暇なんか…ないだろ…!!
進め、進め…進め!!
ニアはぼやけ、ほとんど色味しか捉えることの出来ないその体を無理矢理に奮い立たせ、再び歩き始める。
その体はいつ意識を失ってもおかしくないほどに極限の状態であり、踏み出した足からは無数に血が飛び散っていた。
上を見れば絶望してしまうからと、ニアは辿り着いた階段を見上げることなく、呼吸すらままならないままに登り始める。
だがその時、果てしない階段の上から、誰かの声が聞こえてきた。
「———私はに行きたいと…待て、誰かいる」
その声は何者かと話しているようで、時間と共に着実にニア達の元へと階段を降りてきていた。
だが不意にニアの気配を察したのか、声の主は話していた相手と共に息を潜めると、慎重に階段を降り始める。
そうして遂に踏み出された足がニアの視界に捉えられた時、ニアはその時にしてようやく声の正体に気がつく。
「アン…セル…?」
霞む視界にも鮮明に映るほどの、赤い髪をした女性。
そうしてその背後に見えた、恐らく王番守人であろう二人の男達。
無意識にその名を呼んでいたニアに、アンセルもまた警戒をしていた対象の正体がニアであったことを理解し、同時にその瞳に映ったニアの姿を息を呑んでしまう。
「ニア…?!それに…」
アンセルの瞳に映ったのは、その顔の全てが血に塗れたニアの姿だった。
それは雨により通常よりもさらに血の規模を広げられた姿であり、だがそれでもアンセルがニアの重症具合を理解するには十分にあまりある姿だった。
そうして次の瞬間にはアンセルはニアに抱き抱える少女の存在に気がつき、同時に抱き抱えるニアの体に開いた穴の存在をもまた理解する。
「一体何が…!?」
「ごめん…任せた」
瞬間、アンセルは驚愕に焦りを混ぜたような声色でニアの側へと駆け寄ってくる。
そうして同時に、アンセルという存在が現れたことによりわずかに安堵したその瞬間、無理矢理に動かしていたニアの意識は糸が切れるようにその場に力無く膝をついてしまう。
そうして地面へと顔を衝突させるかというその瞬間、倒れる体をアンセルは軽やかに受け止め、その腕の中から落ちようというエリシアをも優しく受け止めてみせる。
そうして自らの背後に立つ者達へ、焦りながらも冷静を崩さないようにその目を向けると、
「皆の者、今回の捜査は中止だ。急いで彼らをナースゴートまで」
「アンセル、この子達は?」
「私の友人だ。急げ、話は後だ」
短く、完結に告げられたその言葉に背後に立つもの達はそれ以上の追求をしない。
それは普段からのアンセルへの信頼の表れであり、同時にアンセルにとってそれほどまでの存在なのだと理解したからだった。
そうしてアンセルはその中の一人にニアを渡すと、瞬間、エリシアを抱えたまま階段を駆け上がって行く。
続く者もまたニアを抱き抱えたままアンセルの後を追うように階段を駆け上がり始め、やがてその場には静寂だけが残される。
この子達がこんなに…だとすれば、極夜で何かあったと見て間違いはないはず…
一体何があった…!?
人混みを縫うようにかけて行くアンセル達の表情には、ひどい焦りが浮かんでいた。
それは抱き抱えた体から腕を伝う血のためであり、だからこそアンセル達はナースゴートへと一切の歩みを止めることなく駆けていく。
極夜へと入るミラディアの前には、赤い血溜まりだけが残されていた。




