いつかの誰かと
…ここは
意識を取り戻したニアが、最初に見たのは見覚えのない風景だった。
漏れなく周囲全体が青に塗りたくられたその風景は、目覚めたばかりのニアにすらそこが現実空間ではないことを理解させる。
そうして自身の身に起きたことを思い返そうとニアがわずかにその眉を顰めた時、
「久しぶりだね」
「っ!!」
何処からか聞こえてきたそんな軽快な声にニアは咄嗟に意識を向け、警戒を露わにする。
だが、そうして声のする方へと目を向ける最中、無意識に腰にかけられている刀へと手を伸ばしたことによりニアはある事実へと気がつく。
…ない、刀がどこにも…!
伸ばされた腕は空を切るように本来刀のあるべき空間を通過し、代わりになんの感覚もないと言う事実だけをニアへと伝える。
だが声の主はそんなニアの反応に小さく笑い、そうしてゆっくりとニアの元へと歩みを進ませる。
いつから、或いは初めからいたのか、声の主はやがて持ち上げたニアの視界にその全身を映し出し、
「忘れてる…か、慣れているとはいえ、やっぱりなんだかちょっと悲しいね」
そう告げたのは、“おそらく”男だった。
それが仮定であったのはその者の声が靄がかかったかのように不鮮明であり、その姿もまた全身がぼやけたように、その体を鮮明に捉えることができなかったからだった。
180cm後半程の身長に、何処か気だるげな態度、体つき。
不鮮明でありながらもニアは目に映る最低限の情報からその者が男であると仮定し、だが、それが分かったからこそ、
「来るな、それ以上進めば容赦はしない」
「懐かしいね、初めて会ったときもキミはそうだった」
「…何を言ってる」
「キミの忘れた過去だよ。とは言ってもまだそんなに時間は経ってないけど」
男の発言にニアは再び眉を顰める。
意味深な言葉を残す男はまるでニアを知っているかのような口ぶりであり、だが対するニアは男どころか目に映るこの景色すらが記憶の何処にも存在しなかった。
そうして男は何処か楽しげに笑い、その場へと座り込むと、ニアへと同じく座るよう手で合図を送る。
だがニアはその合図を無視し、代わりに男に敵意がないことが分かったからか、わずかにその警戒を緩めると、
「何を…お前は一体…」
「まず一番キミが知りたい事の答えを教えよう。キミの体は今、いわば仮死状態になってる」
「仮死状態…?」
「そう、キミはアルクヘラン…さっき君が見た奴のことだけど、キミはあいつとの戦いの中で激しい怪我を負い、それによって意識を失った」
「やっぱりあいつがアルクヘランなのか」
「まぁ、あいつの力は厄介すぎるからね。誰が挑もうと戦いにすらならないのがほとんどだよ」
「お前はあいつの力を知って…」
「そして今、魂が抜けたキミの抜け殻は、キミの先輩が大事に抱えてる」
ニアの言葉へ返答することなく、淡々と男は言葉を連ねていく。
それはまるで伝えたいことだけを伝え、肝心な部分をぼかしているかのようであり、同時に何か話題をすり替えようとしているかのようだった。
だがニアはそんな男の態度にわずかな疑問を浮かべつつも指摘することをしない。
何故なら男の言葉の中に、それよりも重大な、ニアにとって聞き流すことの出来ない言葉が含まれていたからだった。
「…待ってくれ、先輩が?」
慎重に聞き返すニアの態度は、何処か焦っているようだった。
意識を失う寸前に見えた景色、体は動かなくとも微かに記憶に残っていたのは、血に塗れたエリシアの姿だった。
もしそれがアルクヘランとわずかにでも交戦した結果なのだとすれば、そんな状態でニアを守るという選択を選んでしまえば———、
「そう、キミがやつと対峙してから、キミの先輩はずっとキミを探し森の中を駆け回っていた。そしてようやく見つけた時、それがキミが意識を失ったあの瞬間だよ」
「…先輩は無事なのか」
「無事かと言われると何とも言えないね、だけど一つ確かな事を言うとすると、———このままだと誰も助からない」
「助からないって…、先輩…エリシアでも勝てないってことか?」
「勝てないとは言い切れない。だけどそれは『あるいは』の話だよ、厄災はその全てが殺されることなく封印されるに留まっている。では一体、なぜ奴ら厄災が殺されていないのか。封印されるに至ったのか。その理由を実際に奴の力をその身に受けたキミならわかるんじゃないか?」
「それは…」
アルクヘランと対峙してからのことを、ニアは鮮明に覚えていた。
だがその記憶はどれも戦いと呼ぶことすらが烏滸がましいほどに一方的で、虐殺と呼ぶ方が近しい程のものだった。
もしそれがニアの実力が関係したものではなく、ただ単純なアルクヘランの怪物性を表したものなのだとすれば、辿る結末は例外なく全て等しいものであり、
「…でも、ならどうして俺をここに呼んだんだ」
不穏な空気を切り裂くように、ニアは男へとそう問いかけていた。
溢れた血の量はとうに致死量を超えており、放っておいてもそう長くないうちにニアは死んでいただろう。
であれば、何故わざわざ死にゆくだけの自身へとこの話を聞かせたのか。
ニアは内に湧いた疑問をぶつけるように男を見つめ続けた。
———沈黙が場を包み、数秒が過ぎた。
瞬間、男はニアの揺らぐことのない瞳に根負けしたように小さく笑い、代わりにわざとらしく指を一本ニアの前へと立てると、
「このまま戻っても助からない。だけど、そこに『特異』が一つ加われば、結果が変わる可能性がある」
「特異…?」
「そう。だけどそれはキミにとってとても辛く、そして目を背けたいものになる。それでもキミは、立ち向かおうとするかい?」
放たれた言葉はニアはこれまで以上の苦痛を与えることを確定させ、同時にその言葉にニアの脳内にはいつかの最悪の光景が蘇る。
———だが、
「…わからない。俺はまだ、やつの力を何も理解できていない。このまま戻ってもまた同じことにならないとは言い切れない……けど」
瞬間、男は再び意味深に小さく笑い、
あぁ、そうだったね
ニアが言い切るよりも先に、男はあぐらをかいていた体勢を正し、ゆっくりとその場から立ち上がる。
それがニアの返答を分かり切っていたからなのか、男の言った『かつて出会っていた』と言うことに起因するのかは定かではなかった。
だが男を見つめるニアの瞳に、躊躇いの感情など何処にもなく、
「例えそれが手をすり抜ける空気程の希望だったとしても、少しでも助かる可能性があるなら、俺はそっちに賭けたい。俺は、俺の借りた恩を返さず死ぬような恩知らずにはなりたくない」
キミは、昔もそうだった
その言葉は何処までもまっすぐで、何処までもニアという人間を表していた。
だからこそ男は何処か安心したように小さく意味を漏らすと、靄のかかった表情でニアへと目を向け、そして告げる。
「わかった。なら、もし現世へ戻った時、キミから見て左前の方向に進むといい、だが覚悟しなよ、キミの目に見える景色は、キミが何よりも恐れている光景に他ならない」
「あぁ、わかった」
「それじゃあまた、いつの日か」
「あぁ、感謝する」
瞬間、ニアの意識は深い泥に沈むように遠のくような感覚が訪れ、同時にその瞳はぼやけ始める。
それが意識が現実へと帰還しようとしているからなのだと理解するのにそう時間はかからず、ぼやけた視界はやがて白一色に覆われる。
名前、聞いておけばよかったな
霞む意識の中でニアは不意に男の名を聞いていなかったことを思い出し、わずかに後悔の念を口にする。
だが不思議とその後悔は次の瞬間には止み、代わりに気持ちだけの笑みへと切り替わる。
また、何処かで会える気がする
それは確証のない確信であり、ニアが目覚めるためのいわば幻想。
そうしてニアの意識はやがて完全に閉ざされ、静寂が訪れる。
———そうしてニアは目を覚ました。




