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遠い世界の君から  作者: 凍った雫
遠い世界
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呪いの厄災

『ヲヲヲヲ!!!』


 光のない森を駆け抜ける最中、木々を薙ぎ倒すことによる轟音と、鼻腔をつんざくような匂いにニアは意識を覚醒させた。

 

「…っ!はぁ…はぁ…はぁ…!」


 見開かれた瞳は動揺のためか酷く揺れ、呼吸は心臓と共に荒々しくなっていた。


 瞬間、先ほどの出来事が脳裏へと蘇ったニアは咄嗟に自身の足へと目を向けるためにその瞳を動かしていく。


 同時に、ニアはその時にしてようやく自身の体が何者かに支えられるように揺れている事に気づいた。そして、


「気が付きましたか」


 真横から聞こえてきたその声により、何者が自身の体を揺らしているのかを瞬間的に理解する。


 目覚めたニアへほっと一息ついたエリシアは、続けて再び前方へと目を向けると、森の中をかけて行く。




そうか、俺は気を失って…





 そうして改めて自身の身に起きた出来事を理解したニアは、自身を抱えるエリシアのその腕に微かな傷が生じている事に気がつく。


 それは先ほどまでなかった傷。だとすれば、それを負った原因は間違いようもないほどに——、


「っ、先輩…」


 息が詰まる感覚に襲われながら、ニアは目の前に見えたその事実を受け止めていた。


———エリシアの負ったこの傷は、不甲斐ないばかりに気を失ったニアを助けた際に負った傷なのであると。


「すみません、先輩…俺のせいで…」


「いいえ、説明不足だった私の落ち度です。見た者を虚空の世界へと強制的に引き摺り込む力、奴を見るなと言ったのはこの力のせいです」


 エリシアは微かに目を伏せ、パニブリカを見た事により何が起こるのかを知っているのか、微かに瞳を揺らがせながら謝罪の言葉を口にした。


 虚空の世界。それは間違えようのないほどに先ほどの世界のことであり、ニアが今ここに生きている以上、引き摺り込まれるのは意識だけという仮説もまた立証された。

 

 だが虚空でニアが体験した痛みは紛れもないほどに本物と同一のものであり、だからこそニアはその思考を凝らしていく。


 


 

…虚空…、それに、例えその体の一端でも、一瞬でも視界に移したら終わり…おそらく虚空はパニブリカの意のままの世界、見た時点で勝ち目は消える…くそ、どうすれば…





 見ることすら叶わないその力は言葉通りの、抵抗すら許すことのないほどの絶対的な力であった。


 体験したからこそわかるその理不尽さに対抗する術はあるのかと、ニアはその思考を緩めることなく回転させて行く。


 だがその時、不意にエリシアは口を開くと、


「…それより、隠し石はこの先を真っ直ぐ行った場所です。お一人で行けますか?」


「一人で…って、先輩は?」


 エリシアのその言葉の意図が、ニアにはわからなかった。

 ——あえてわからないふりをした。


 それはこれから告げられるある提案を指す言葉であり、瞬間的にその可能性を理解してしまったからこそ、その言葉を恐れるように、あるいは他の可能性を信じるようにニアは聞き返す。だが、


「奴を足止めします」


 その言葉はニアが恐れていた言葉そのものであり、同時に先ほどの地獄へと自ら身を投じると言うことを意味していた。


 見ただけで終わりのそれは戦いとも呼べず、逃げの一手以外全てが禁じられた理不尽。

  

 この一月、エリシアの実力を誰よりも近くで見てきたニアでさえ、否、ニアだからこそ伝えられたその言葉を容認することはできなかった。


「なら…なら、俺も一緒に…!!」


「いいえ。私一人で、です。必ず後で追いつきます。だからどうか、先に逃げてください」


 勇気を振り絞って伝えられたその言葉を、エリシアはバッサリと切り捨てる。


「でも…!」


「どうか、私を信じてください」


 そうして安心付けるためか、エリシアは微かに笑ってみせた。

 

 それはこの場にいないニアを逃すためか、はたまた戦うとなった際にニアが足手纏いになるためか。


 そのどちらの可能性も、ニアには理解できた。


 だが、この一月の間にニアの目に映ったエリシアは決して自分の命を軽んじる人ではなかった。

 他者を助け、自身も助かる最善を常に選択し続ける人物。だからこそ、


「っ…、分かりました、必ず後で合流しましょう」


「はい。ではまた後で」


 拳を握りしめるニアへエリシアはわずかに安堵したように笑みを浮かべ、やがてニアを地面へと下ろすとパニブリカが到着するよりも早く本来の道へと駆け戻って行く。


 瞬間、エリシアの駆けて行った方からはパニブリカの絶叫にも近い咆哮が轟き、辺りの草木をもれなく揺らす。




行こう





 迷いがなかったわけではなかった。


 ニアの手は心配のためか軽く震えており、だが、だからこそニアは自身の先輩であるエリシアを信じることを選ぶのだった。

 














「…どうかご無事で」


 ニアと別れた直後、エリシアは背後に迫る怪物から逃げながら、小さくそう呟いていた。


『ヲヲヲヲ…ヲヲヲ!』


 直後、迫る“それ”は自身の存在をエリシアへと知らしめるべくさらなる咆哮をあげ、辺りの草木をざわざわとどよめかせる。


 積み上がった泥により成された、人よりも遥か巨大な姿をした怪物。

 怨念の集合体であり、元来ここにいたはずのライハ達を生贄に呼び起こされた存在。


 そうしてこの場を去った少年、ニアは知らない。

 エリシアがあえて教えることをしなかったから。


 伝えて仕舞えば、きっと意地でもついてくるのだろうと予想できてしまったから。


 エリシアはニアが去ったことにわずかな安堵を覚えていた。

 そうして小さな呼吸を幾度か繰り返したのちに、エリシアは間も無く自身の元へと辿り着くパニブリカの元へと振り向く。


「…『呪い』の厄災パニブリカ。『永遠』の厄災アルクヘランの俗物として生まれた…ここに生きていた方々の怨念の集合体」


 ニアへと伝えなかった、ただ一言の言葉。


 そして同時に、世界が恐れる最悪にして最恐の怪物の総称。


 



…パニブリカ…、自身の姿を見た対象の意識を強制的に自身の世界へと堕とし、そして意のままに世界を操作することのできる力。





 それはニアの体験した異常の、その実態。


 見ることすら叶うことのない、一方的な惨死だけが許される絶対にして回避不可の呪いのような力。


 だからこそ、人々はパニブリカと遭遇した時点でその人生を諦め、その大半がパニブリカに殺されるよりも先に自害の選択を選ぶ。


 それほどの脅威。それほどの存在。


「ふぅ…」


 エリシアは目を瞑り、短い呼吸と共に刀の柄へと手をかける。


 パニブリカは既に動きを止めたエリシアのすぐそばへと迫り来ており、その距離は手を伸ばせば届いてしまうほどの両者にとっての射程圏内。


 そうしてパニブリカの巨大な手のひらがエリシアへと伸ばされたその瞬間、遂にエリシアは刀を握るその腕へと力を込める。

 瞬間、引き抜かれた刀は極夜から失われてしまった光の全てを奪い取ったかのように白く輝いていた。


 そうして同時に、エリシアはただ一言、小さく呟いた。


(マユズミ)


 瞬間、伸ばされていた腕を含めたパニブリカの左半身は消し飛ぶようにして消滅する。


 事態が飲み込めないのかパニブリカはわずかにその体を硬直させ、だが次の瞬間には瞬きよりも早く失われたその部分を新たに再生させる。


 見開かれたエリシアの瞳は紅く輝き、見ることのできないはずのパニブリカを、悠々と見つめていた。

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