唯一の技で
「真喝」
「…ッ」
振るった一撃が命中することなく、代わりに自身が傷を受けたということにルエアはひどく激怒していた。
地面を転がっていくその体は次の瞬間には体勢を立て直し、代わりにその瞳には、先ほどまでなかった明確な殺意が含まれていた。
「何をした…?見切られた…?違う、どうでもいい、なんでもいいの、死んで」
吐き捨てるようにそう呟くルエアには、先ほどまで縮こまっていた少女の面影は何処にもなくそこにはただ、殺戮だけを望む凶殺者が立っていた。
やっぱり、あいつの力はただ『見えない』だけだ。確実にその場にいるし攻撃も当たる。
その足音が速く聞こえるのは見えてないから起こるただの“勘違い”
実際はごく普通の歩幅と足音だ。
『真喝』
それはニアがこの一月の血の滲むような努力の果てに身につけた唯一の技であった。
攻撃を弾いてから相手へと切り返す他の攻撃とは違い、『真喝』は相手の攻撃、その風圧が、音がニアへと接した瞬間に半自動的に放たれ、相手の技自体がニアへと届くよりも早く切り伏せる。
通常では習得までに数ヶ月を要するその技を1ヶ月で自分のものにしたのは、非凡ならざるニアの反射神経の賜物であり、まさしく先手必勝の技だった。
いける、この技なら…!
初めて自身の攻撃が当たったことによりわずかな勝ち筋が見えたと歓喜したのも束の間、よろよろと立ち上がったルエアは不意に背中へと手を回すと、
次の瞬間にはその手に先ほどと同一のナイフを握りしめる。
銀色に光り輝くその刀身をニアが視界に捉えたその瞬間、不意にルエアの姿は消え、
「っ…!」
瞬間、足音すらが響くことなくニアの体にはいくつもの鋭い痛みが訪れ、やがてその身からは小さな悲鳴が溢れる。
そうして再びルエアの元へと刀を振り抜いた瞬間、再びルエアの姿は消え、代わりにニアの全身にはまたしてもいくつもの切り傷が生じる。
さっきよりも早い、つまりこれがこいつの本気…!それに、あの男は未だ何もして来ない…一体何を企んでいる…?
先ほどの出来事を追体験しているかのようなその出来事にニアは一撃で仕留められなかったことにわずかな後悔を覚える。
消えたルエアの足音は意識して聞かずとも先ほどまでとは比にならないほどの速度でニアの周囲を駆け巡っており、今度こそ音よりも早く駆けているのではないかと思うほどだった。
「くっ…!」
そうして比例するようにニアの体に刻まれる数の数も増え、文字通り今度こそ、ルエアは殺戮を遂行する人形と化したのだった。
その猛攻に怯みながらも、ニアは再び真喝の構えを取ろうと刀へと手を伸ばす。
だがわずかにでも刀へと意識を向けたその瞬間、ニアの意識を逸らすようにその目、喉元へと容赦のない一撃が迫り来、ニアは文字通りの防戦一方を強いられていた。
それでもニアの心臓や脳を貫くことをしないのは、冷静さを欠いたルエアの中にも未だ戦いを楽しみたいという残虐性が残っているからか、はたまた相手の苦しむ様を見たいという気持ちからか。
「痛い?ねえ、痛いのかな?あははっ!!」
致命傷になり得る傷を何とか躱しながらも、一つ、一つとニアの体から血が流れるたびにルエアは狂気に満ちた声を発しながら楽しげに笑い、次の瞬間には再びニアの身に新たな傷を残す。
その速度は時間を追うごとにヒートアップするように加速していき、長期戦になれば勝ち目は潰えてしまうとニアはその地点にでようやくその事実を理解する。
どうする、真喝の構えを取ろうにも構えに移行しようとした瞬間の隙を狙われる…
かと言ってこのまま耐え続けるだけじゃじきにやられるのは俺の方だ…
荒い呼吸を何とか落ち着かせ、ニアは平然を強制するようにその思考を回転させていく。
だがその時、先ほどまで姿の一旦すら見せなることがなかったルエアは、不意にニアの目前へと現れた。
そして手に持ったナイフをニアの方へと向け、不敵に笑って見せると、
「終わらせるね、本気の一撃。お前じゃ防げない。死んで終わり」
瞬間、再びルエアの姿はニアの視界から消滅し、代わりに先ほどまでと違い、ニアの周囲の木々すらもが激しく揺れ始める。
まだ早くなるのかよ…!考えろ…どうする、どうすればあいつより先に構えを取れる…?
どうすればあいつに勝てる…?
思考する脳はやがてある結論へと辿り着くことで停止し、同時にニアは諦めたように小さく一息をついた。
「…やっぱり、これしかないか」
それは幾度もニアの脳内を埋め尽くし、だがアングレインが戦いに参戦する可能性を危惧したからこそ敢えて排除していた言うなれば“最悪”の手。
そうして一息と共に覚悟を決めたニアは不意に何処かへと駆け出し、やがてルエアから弾いたナイフの落ちているその地点へと辿り着く。
転がるナイフはニアの血で塗れていた。
だがニアはそのナイフを拾い上げると、迷うことなく自身の腹部へと突き刺した。
瞬間、耐え難い痛みがニアの腹部を訪れ、全身を駆け巡る熱さと共に地面へと膝をついてしまう。
「…!?…なにして…!…いいや、なんでもいい」
突然の行動に理解ができないというふうに声を漏らしたルエアは、その動揺のせいかほんの一瞬、1秒にも満たない短い時間のうちに微かに速度を落としてしまう。
見たとしても違いのわからないほどのわずかな減速。
だがそれでも、その“わずか”さえあれば、ニアには十分だった。
「…餌だよ。お前が一瞬でも動揺するためのな」
ルエアはすぐさま再び目標をニアへと定めると、トドメを刺すべくこれまでの最高速度を以てニアへと振りかぶったそのナイフを振り抜く。
だが、それはもう手遅れだった。
ニアの行動に動揺し、生まれた0.1秒にも満たないの隙。
それはルエア本人にとっても取るに足らない隙であり、同時にニアにとって真喝の構えを取るために足りない、ルエアとの戦いに決着をつける隙であった。
そうして溢れる血と共にゆっくりと立ち上がるニアの手は既に刀へと添えられており、その事実をルエアもまた次の瞬間には理解する。
だが引き返すことは叶わない。
何故ならその速度は今までの最高速度であり、ニアへとトドメを刺すために自ら得てしまった速度であるのだから。
「しまっ…!!」
振り抜かれたナイフはニアへと接する寸前にてかろうじて停止を果たし、だがそれだけでは足りない。
その風圧は微かに、だが明確な殺意を以てニアの元へと届いてしまったのだから。
そうして回避が間に合わないと理解したルエアは、瞬間、防御の体勢を取るべく腕を折りたたむ。
だが、それすらもが意味を成すことはない。
そうして目を瞑ったニアは、自らへと接敵したそれを払いのけるように、小さく、ただ一言呟く。
「真喝」
「か…ぁ…」
最速の反撃はルエアが防御の体勢を取るよりも早くその胴体へと一撃を放ち、やがてその体はなす術のないままに地面を転がっていく。
そうして転がるルエアの体が完全な停止を告げた頃、ルエアの意識はすでに手放されていた。
初めての、稽古以外での格上での戦闘。
勝ち目のほとんどなかったその戦いは、ニアの機転により勝利に終ったのだった。
だが、ニアは倒れ込んだまま動かないルエアから目を離すと、続けてもう1人へとその目を向ける。
2人の戦いを楽しんでいたかのように笑顔でぱちぱちと手を叩くアングレインへ、ニアは荒くなった呼吸を落ち着かせ、そうして小さな一息と共にその目を向けると、
「…お仲間は倒した、…次はお前か?」
「いやなに、素晴らしいね。ルエアは私たち幻龍師団の中でもかなりの上澄みなんだが…まさか冷静じゃなかったとはいえ技ひとつにやられるとは…。少々ガッカリだよ」
足元に倒れ込むルエアを見ながら冷たくそう吐き捨てるアングレインの表情には、先ほどのルエアと同じ、あるいはそれ以上に何の意思もこもっていなかった。
そうして遂に動き出したアングレイン。
だがその行先はニアではなく、そのさらに背後。
倒れ込んだまま動かないルエアの元へと歩みを進ませるアングレインは、やがてルエアの元へと辿り着くと同時にその耳元へ何かを呟いていた。
その言葉が何と言っていたのかはニアにはわからなかった。
だがその背中は呆れるほどに隙だらけであり、敵である以上、その隙を見逃す義理はニアにはなかった。
だが、そうして一歩を踏み出したその瞬間、ニアの全身は酷い寒気に覆われてしまった。
心臓は鼓動を早め、意識すらしない間に呼吸は荒れ、過呼吸に近しいほどへと加速する。
それが何故なのか、それは考えるまでもなかった。
隙だらけのはずのアングレインの背中。
なのにも関わらず、その一挙手一投足にニアは死を連想するほどの圧を感じてしまっていた。
そうしてアングレインは動くことのできないニアの存在に気づくと、わざとらしく小さく笑ってみせ、
「賢い判断だね。僕としても君にはまだ生きていて貰わないと困るんだ」
「お前達の…いや、違うな。お前の目的はなんだ」
向けられたアングレインの瞳は、光の一片すらが見えないほどに暗く、絶望しているようだった。
そうして同時に、その瞳を見たからこそニアは理解する。
この者は、嘘をついているのだと。
アルクヘランと呼ばれる存在の封印を解くことの他に、あるいはそれ以上に優先するべき目的のために動いているのだと。
「僕の目的…そうだな、さっき言った封印の解放。あれは嘘じゃない。だけど、確かにあれは僕じゃなく『僕たち』の意思だ」
「ならお前の目的は…」
「それは答えられないな。何故なら僕ははなから君を殺すつもりはなかったし、君をここへ呼んだのもちょっとした用事を済ます為だからね」
「用事…?」
「それじゃ、また会おうね、ニアくん」
「待っ…!!」
意味深な言葉を残し、アングレインはその場を去ろうとニアへ背を向ける。
だが踏み出されたその足は数歩ののちに停止し、
「…あれ?」
そんな間の抜けた声が聞こえてくるのとほとんど同時だった。
アングレインが声を漏らした次の瞬間、ニアとアングレインの間には突如として光の柱のようなものが通過し、やがてその空間に亀裂という名の違和感を残す。
正体不明の出来事。誰がそれを成したのかすら、この場にいる誰も知り得る事はない。だが、
「…先輩?」
残された亀裂はゆっくりと、だが確実にその規模を拡大させ始める。
それは時間と共にニアの周囲一帯へとヒビを連鎖させ、次の瞬間、遂に崩れ落ちる。
ぱらぱらと降り落ちる光のかけらはニアへアングレインの世界から離脱したことを理解させ、同時にその先には、
「…ふーん」
柄へと手をかけたエリシアが、静かな瞳でそこに立っていた。




