暗く、敵襲
「さて、ニアさん。この前私が教えた、『隠し石』ですが、ちゃんと覚えていますか?」
「あー、えーっと…はい、一応」
極夜へと向かう途中、エリシアは念のためと言わんばかりにニアへとそう問いかけていた。
だが対するニアは目を逸らしながら答えるほどの曖昧さで返事をしており、同時にその脳内にはいつかの記憶が蘇っていた。
それは二週間ほど前の、ある稽古終わりの出来事。
『ニアさん、私たちが行く極夜ですが、ミラディアを通って行くことができます。ですが当然、こちらから向こうへ行くという事は、向こうからこちらへも来れるということです』
『じゃあ王都も危ないんじゃ…』
この一月の間に気づいたミラディアの性質は相互性。
つまり、こちらから向こうへと行けるのならば、逆もまた然りということだった。
だからこそニアは極夜からこちらの世界へと危ない何かが溢れ出してくることはないかと危惧し、問いかけた。
だがエリシアはその言葉を待っていたと言わんばかりに何処からか画帳を取り出すと、ニアの前へと自信満々に立てかけてみせた。
『ですが、これを見てください。私たちはミラディアを石に擬態させ、そしてその足元に、『向こうの者達』が入れないよう、彼らが恐れるもの、すなわち『聖水』を撒いています。ですがたまに擬態に惑わされ、どれがミラディアかわからず帰ってこられない人もいます』
『それとこの玉に何の関係が?』
『玉?何言ってるんですか、これが私たちが通ってくるミラディアです。通称『隠し石』、迷わないよう、よく覚えておいてくださいね』
『はぁ…』
エリシアの見せた画帳。
そこには大きな丸が一つと、その周囲に数本の木らしいものが立ちそびえているだけという、言って仕舞えばそれだけの何とも情報量の少ないものであった。
だが対するエリシアはどこから湧いて来るのかわからないほど自信満々にニアへとその絵を見せており、その様子にニアは文句の一つさえ言うことが出来なかった。
そして遡ること現在——
「覚えているのなら安心です、絵で見るよりも実物を見て覚えるのが確実ですからね。向こうに着いたら、向こうでも場所の確認をしましょう」
「そうですね」
エリシアの言葉に間髪入れず声を挟むニアは、いつか見たその絵が本当にその通りなのかを確認するべく足を進めていく。
そうしてエリシアに案内されること数分後、やがて2人はある一枚の鏡の前でその歩みを止めていた。
「こんな場所にあるんですね」
「もしライハ達が溢れ出してきた場合の保険ってやつです」
2人は地上から遥か下の、地下にいた。
長い螺旋階段を降り、少し歩いたその先にはわずかに古ぼけたミラディアがぽつんと一枚置かれており、だがその異様な雰囲気からそれが極夜の入り口なのであると図らずとも理解できた。
ただならぬ雰囲気にわずかにニアは息を呑み、だが次の瞬間、エリシアは不安に揺れるニアを見るや否や迷うことなくその手を握り、小さく微笑んで見せる。
「大丈夫、私もいますから」
その声はいつもと同じ、何故だか自然と不安が取り払われるような声だった。
そのおかげかニアの身を取り巻いていた不安はやがて姿を小さくしていき、同時にニアは覚悟を決めたように小さく息を吐いてみせた。
「では行きましょうか、準備はいいですか?」
「…はい!」
そうしてエリシアはニアの手を引き、2人は極夜の中へと足を踏み入れるのだった。
「ここが…」
眩い光に思わず目を瞑ってしまったニアは、開いた先に見えた景色に小さな言葉を漏らしていた。
最初に見えたのは赤い炎だった。
燃え上がるそれは尽きない燃料を薪にするようにごうごうと2人の前方を燃え上がらせていた。
空はそんな炎のせいか黒い煙に覆われており、聞いていた通り一片の光も差し込まない、薄暗い暗闇を染められていた。
そんな状況に圧倒されつつも、やがて時間と共に暗さに目が慣れてきたニアは周囲へと警戒するべく目を向ける。
だがその警戒は長くは続かず、代わりに瞬く間に心配の意へと変化する。
何故なら——
「先輩、無事ですか?」
極夜へと足を踏み入れたから数十秒が過ぎた。
だが未だ隣に立つエリシアは一つとして声を発しておらず、あたりへと目を向けている最中、そんなエリシアの姿が視界の中に収まったからだ。
そうして心配の声に何処かはっとした表情を浮かべたエリシアは、続けてニアへと軽い笑みを浮かべると、
「…はい、大丈夫です。では先を急ぎましょう。ここがセレスティアとは別の世界とはいえ、経つ時間はセレスティアと違いはありませんから」
「…先輩?」
平然を装っているだけなのだと、ニアにもすぐに理解できた。
エリシアはいつも通りの涼しい表情を浮かべており、その声色もまたいつもと何ら変わったものではなかった。
だが、一月とはいえ並大抵の人以上にエリシアの近くにいたニアだからこそ、その変化に確信を持つことが出来ていた。
だがニアはエリシアはその疑問を問いかけることはしなかった。
ニアにはエリシアのその表情が、どこか悲しみに暮れている自身を隠そうとしているように見えてしまったから。
その事実に気づいてか否か、エリシアは今度こそ大丈夫と言わんばかりに小さく息を吐くと、やがて遅れて周囲の状況を理解するべくその目を向ける。
「やはり何もいませんね。私が昔ここへ来た時には、ミラディアを通ってすぐにライハに襲われる人もいたほどですが、どうやら本当にここで何かが起きているようですね」
恐ろしいことをさらっと告げるエリシアへニアはそんな事態にならなくて良かったと胸を撫で下ろす。
エリシアの視線の先には赤い煉瓦の破片のようなものが長く散乱しており、そこに何かが建っていたのだろうということが容易に想像することが出来た。
「もし気分が悪ければ休んでもいいですからね?」
「いえ、大丈夫です。ご心配おかけしました。行きましょうか」
再びニアの言葉に対しエリシアは何でもないと返し、やがて先へと足を進めていく。
その様子からこの地で過去に何かがあったのだと察したニアは、やがて心配の言葉をかけること自体がエリシアにとっては苦痛なのかもしれないと言う結論へと辿り着く。
だからこそ、ニアはそれ以上何も言うことなく歩くエリシアの背を追いかけるのだった。
極夜へと進行してから30分が過ぎた。
だが状況は一つとして変わらず、エリシアは変わらない事実を記すようにどこからか取り出した紙に記録を残していた。
「極夜へ立ち入ってから30分、ライハの目撃は0、と」
「なにしてるんですか?」
その行動を不思議に思ったニアはやがて疑問の声を漏らしてしまう。
するとエリシアは手に持ったその紙をニアの前へと広げると、
「状況確認です。もしライハを見つけた場合、どの箇所にどのくらいの数がいたのかを記しておくんです。そうすれば、もし私たちがライハがの数が減った原因を見つけられずとも、次の人たちの助けになりますから」
「なるほど」
「ここら辺はあらかた記し終えました。先に進みましょう」
そうして記録を記し終えたエリシアは、やがて紙を懐へと仕舞い込むとニアと共に先へと歩き始める。
だが、その後いくら探せど2人はライハと呼ばれる亡霊の一体もを見つけることが出来なかった。
「三時間、未だライハの目撃は無し…と」
「本当にいるんですか?」
「まさかそんな言葉を言われる日が来るとは考えてもいなかったです。ですが、確かにこれは異様ですね」
エリシアにとっても初めての出来事なのだろう。
ニアの言葉を賛同の意を返し、何かを考えるように顎へとその目を伸ばしたその瞬間、
「ニアさん、警戒を!」
近くで煉瓦の崩れる音が聞こえてきた。
それは2人からすぐ近くの、微かに形を残した建物から聞こえてきた音だった。
反射的に刀へと手をかけたエリシアは、やがてニアを後ろへと下がらせ、ニアもまた流れるように周囲へと警戒の意を露わにする。
だが、その煉瓦音以降その場に一切の音は聞こえて来なかった。
そうして心ばかりの静寂が2人を覆った頃、
「私が確認します。ニアさんはここで、もし万一誰かがいた場合の警戒をしてください」
伝えるべきことを簡潔に伝えたエリシアは、ニアを残し一歩、また一歩と慎重に音のした方へと歩みを進ませていく。だが、
「…劣化、ですか」
辿り着いたその場所に人の姿はなく、代わりにそこには先ほどの音と同じ、一つの砕けた煉瓦だけが散乱していた。
「ニアさん、どうやら私の思い違い…」
そうして自然劣化であることを理解したエリシアは警戒を解くと、やがて自身の背後に立つニアの元へとその目を向ける。
「…ニアさん?」
だが振り向いたそこにいるはずのニアの姿は何処にもなく、代わりにそこには——
「ほっほっ…残念じゃの、小娘」
長く、白い髭に大きな杖を持った、見知らぬ老人だけが立っていた。




