目標
目の前のエリシア…否、剣士を前に、ニアは深呼吸を繰り返していた。
合図ととほとんど同時に迫り来た一撃は幸いなことにニアへと命中することなくその寸前を通過した。
だがそれは決してニアが躱したと言うことではなかった。
目の前に立つエリシアはニアが万全を期すタイミングを待つかのように未だ動くことなく見つめており、それが表すことはただ一つ。
『見逃された』。その事実にニアは改めて目の前に立つ者の脅威を再確認し、2度も遅れは取らないとその意識を集中させる。
だがその集中は、仕方のない事態により崩される。
目の前のエリシアへと細心の注意を払ったまま瞬きをした次の瞬間、開く瞼の先には迫る何かが映り込んでいた。
「っ…!?」
それはエリシアの握っていた木刀。
そうして次の瞬間にはその一撃はニアの肌を微かに横切り、同時にその視界には先ほどまで離れた場所に立っていたはずのエリシアが映り込む。
「…っぶね」
少しでも顔を動かすのが遅ければ直撃していた一撃は到底手加減をしているようには見えなかった。
だがなんの気無しにそれを成してみせるエリシアの表情が、その仕草が、それが本当に手加減をした上での威力なのだと理解させる。
「よく避けました。ですがまだですよ」
心臓は加速し、たいして動いていないにも関わらずその呼吸は微かに荒くなっていく。
だがそんなニアの気など知らないかのようにエリシアは再びニアへと攻撃の構えを取ってみせる。
瞬間、目に見えないほどではないものの瞬く間にその側へと接近したエリシアは躊躇うことなく一撃を振り抜き、同時にニアが再び地面へと屈み込んだことによりその一撃はニアの上空を削り取っていく。
「っ…手加減とか…!」
そうして続けて迫り来る攻撃をニアは死ぬ気で躱し、息をする間さえ碌にもらえないまま次の一撃に対する間一髪の回避を強いられる。
「だいぶ本気じゃ…ないですか!?」
悲鳴にも近しい声を漏らすニアは変わらず目の前に迫る攻撃を躱すことがやっとであり、だが当人のエリシアはその言葉に不思議そうに首を傾げると、
「…?この程度が本気な訳ないでしょう?」
本気で不思議そうな表情を浮かべるエリシアにニアは諦めたように改めてその意識を集中させる。
迫る一撃はニアがギリギリ躱せるように手加減されているのか、おかげでニアへと命中することなく空を割いていく。
だがそれも長くは続かない。ある一撃を躱したニアは再び距離を取るべく足を後方へと引き下げ、だがその時にしてようやく自身の体が傾いている事を理解する。
「…!?」
木刀にばかり集中するニアの足元は言葉通り絶好の的であり、エリシアがその隙を見逃すはずもなかった。
目線を胴体へと向けたまま一撃を振り抜き、その元で意識の一切を割かずにニアの足を払ってみせたのだ。
そうして流れるように膝から崩れるニアへ、エリシアは狙っていたと言わんばかりにその頭部目掛けて軽く木刀を放ってみせた。
予想外のタイミングで体勢が崩れたことにより本来あるはずの場所にニアの手はなく、同時に放たれた木刀の存在に気付いていながらも次の瞬間には軽い音と共にニアは後方へと押し倒されてしまう。
「待っ…」
「腕には当てないので安心してください」
そうして倒れる最中に何かを訴えるニアだったが、エリシアは息の一つも乱さずにそう返事をすると、倒れ込んだニアの手足を押さえつけてみせる。
放り投げられた木刀が地面へと落ちる頃、エリシアは横たわるニアの体を馬乗りの体勢で押さえ込んでいた。
「私の勝ちですね」
束縛から抜け出そうと力を込めるニアだったが、両足と右腕を押さえられている状況ではそんなことすらままならない。
そうして完全に押さえ込まれた事を理解したニアは深いため息と共に負けを自覚する。
「はい、そこまで!」
倒れたニアと押さえ込むエリシア。
その光景に勝負がついたことを確認すると、灰庵は稽古の終了を伝えながらニア達の元へと歩いていく。
そうして稽古を終えてしばらくした頃、エリシアは何処か顔色を悪くしながら木の根に座り込むニアの元へと歩み寄ってきた。
「あの、腕…大丈夫ですか?」
「なんとか」
押さえ込む際の力加減を心配したのか、笑顔で見せられた包帯に巻かれた左腕にエリシアはホッとしたように一息つき、続けてニアの隣へと腰掛ける。
そして近くへ来たのだから丁度いいと、ニアもまたエリシアの方へと目を向けると、
「…先輩。途中から明らかにちょっと力入れてたよね?」
予想以上にニアが動けたことに驚いたのか、はたまた無意識のうちか。
途中からわずかにだが木刀を払う速度が上がっており、ニアもまたそのことに気づいていた。
稽古の最後の方に関してはほとんど見えていても避けられないほどの速度になっており、ニアはわずかな不満をぶつけるようにエリシアへと問いかけた。
「それは…一応そこまで力入れた気はなかったんですけど、もしかすればほんの少しだけ力入ってるかなーと私も思ってました」
「やっぱり…」
困ったように視線を逸らしながらエリシアはそう答え、予想通りの返答にニアは小さく笑ってみせる。
その時、エリシアと同じく灰庵はこちらへと歩み寄り、そうして座り込むニアの隣に立ち並ぶと、
「どう?流石僕の一番弟子って感じの強さでしょ」
自信満々にそう問いかける灰庵は、初めからあの結末がわかっていたのか何処か嬉しそうであり、だが事実その力の差はニアが思っていたよりも歴然たしたものであった。
「本当に、流石としか言えない」
正直な所、実際に相手にするまでニアはエリシアの実力を少し侮っていた。
灰庵程の者の一番弟子だろうと、エリシアは自分と同じ凡人側の人間なのであろうと。
だが違った。受けたからこそ理解したエリシアの剣筋は灰庵のような理不尽なまでの圧倒的な力ではなく、純粋な、膨大な量の鍛錬によって身につけられたものであった。
そこに辿り着くまでにどれほどの時間を費やしたのか、ニアにはそれを知る術はない。
ただ、理解したからこそ今やニアの中にエリシアを侮る気持ちは一般たりとも存在しておらず、そこにはただ、尊敬の念だけが浮かんでいた。
この瞬間、エリシアはニアにとっての目標となり、同時にいつかは追いつくべき尊敬の対象となったのだった。
そうして少しの休憩を得たエリシアはその場からゆっくりと立ち上がると、
「ニアさんもなかなかよかったと思いますよ。最初の一撃、油断してる人はあれで終わりますから」
「何回かやったことがあるんだな…」
当たり前のように経験談として語るエリシアにニアは苦笑強いられてしまう。
そして灰庵もまたそんな言葉に賛同するように小さく首を振ると、
「もっと自信を持っていい。初見であの一撃を避けたのは今の所君だけだよ」
「ちなみに何人の人が今までに犠牲に…」
「そうだね…おそらく16…?いや、少なくとも17が犠牲になってしまったね…」
「17人も犠牲に…」
「私が人を殺すような人に見えてるんですか?だったらかなり心外なんですが」
2人の失礼極まりない会話にエリシアは珍しく感情を表へ出しながら言葉を挟んでみせる。
だが正直なところ、運良く躱せたからよかったものの、初めの一撃を最初とした全ての攻撃は当たれば死にはせずとも死ぬほど痛い一撃だったことに間違いはないだろう。
この場にいない犠牲になった17人の来世に期待するべく手を合わせるニアへ、エリシアは不服そうに顔を顰め、それを見て灰庵は笑っていた。
そしてエリシアは小さく息を吐くと、ニアへと向かい、先ほどの不意打ちの意味を伝え始める。
「大した理由もないのに強さだけを求める人はあまりにも多いです。格好をつけたいから、好きな人に自分の強さを自慢したいから。昔からの憧れだから。そう言う人は私が女だから強くないと決めつけて油断をしてきます。そういう甘え切った根性を私が叩き折ってるだけです」
「俺は大丈夫なのか?」
エリシアの言葉はとてもシンプルで、それ故ににニアも共感することができた。
ニアの世界にも身の丈に合わない力を行使しようとし、結果として肉体が追いつかず破滅した者達が何人もいた。
だからこそ自らもそんなふうに思われているのではないかと居ても立っても居られず、だがそんな問いにエリシアは分かりきった回答を伝えるように薄く笑ってみせると、
「ニアさんはきっと私よりももっとたくさんの人たちのために強さを求めてるのでしょう。これでも長いこと生きてるんです。目を見ればわかります。なによりニアさんは最初の一撃を避けました。それはニアさんの中に強くなりたいと言う気持ちと、相手を侮ることのない誠実さがあったからです。それを知った後にとやかく言うほど私の根は捻じ曲がってないです」
真っ直ぐな眼差しでそう伝えるエリシアへ、ニアは何処か安心していた。
それはエリシアがニアを自らの後輩として、改めて認めてくれたように思えたからであり、その優しい口調に心は静まっていく。
だが本音を言って仕舞えば、最初の一撃をエリシアが当てるつもりで振るっていたのだとすれば避けられたのはほとんどまぐれであった。
そしてそれはニアの性格故に気付いて尚黙っておくことはできず、
「ありがとう。でもほとんどまぐれだったし、もし後少しでも本気出してたら手も足も出ずにやられてただろうな」
「そりゃあそうです。本気の不意打ちが防がれたなら先輩として見せる顔がないです」
ニアの謙遜に対し涼しい顔でそう返すエリシア。
だがその内心で自らのことを認めてくれたことは先の会話の中で理解しており、だからこそ俄然としてニアはやる気に燃えていた。
「君の目標はとりあえずエリシアの技をしばらく避け続けること。そうだね、まずは20秒くらい?簡単そうに思えるかもだけどすごい難しいからがんばってね?ちなみに今ので半分の10秒」
当分の目標として伝える灰庵は、参考程度にと先ほどの経過で経過した時間を伝えてみせた。
だがそれはあくまで手加減をした状態での話であり、怪我が治るにつれエリシアの加減がなくなっていくのだとすればその難度は一気に跳ね上がっていくだろう。
実際に相手にしなければわからないその難しさを前にニアは上等と言わんばかりにその手のひらをぐっと握りしめてみせる。
「任せてくれ、絶対にクリアしてみせる」
そうして伝えられた言葉に灰庵は満足そうに笑ってみせ、近くに立っていたエリシアもまた、小さく笑みをこぼすのだった。
そうしてもう一度稽古をするべくニアが立ち上がったその瞬間、
「それじゃ、今日はここまでにしようか」
「え」
被せるように放たれたその言葉に、ニアはつい間の抜けた声で返事をしてしまう。
そんなニアへ、灰庵は「やっぱり」と言わんばかりに小さくため息をついてみせる。
「エリシアはいつも通り続けてていいけど、君はもうダメ。目標ができて燃えているのはわかってるけど、調子に乗って訓練した結果腕に何かあったら元も子もないからね」
「それは…わかった、その通りだな」
やる気に燃え、意気込んでいたニアの炎はそんな灰庵の一言で鎮火されてしまう。
だが心配ゆえにかけられたその言葉はささやかな灰庵の優しさを物語っており、それに気付きなお異議を唱えることはニアにはできなかった。
言われた通りに訓練を終わり、しばらく休憩したのち来た道を引き返そうとしていた時、ふとエリシアと灰庵が稽古をしようとしている風景が目に映った。




