怪我の行方
「これは…ダメだの」
「えっ」
呟かれた言葉に、ニアは短く悲鳴のような返事を返していた。
ニアたちは医療所へと赴いていた。
赴いた訳は他でもないニアの腕を治すためであり、その為に室内に大量にいた人々の圧にも負けじと並び、数時間の待ちの末に呼び出されていた。
だが結果として伝えられた言葉は否定的な言葉であり、腕につけた緑色の石を用いてニアの腕を物色する老人は、どうしようもないと伝えるようにその口を渋らせる。
「ダメって…治らないってことですか…?」
「あぁすまないね、言い方が悪かった。正しくは『一回じゃ治らない』ってことじゃよ」
聞き間違いの可能性を信じ、恐る恐る聞き返すニアへ老人は慌てて訂正を加える。
ニアの腕へと目を向ける老人は首を捻りながら眉を唸らせ、だが口で説明するのは難しいと判断したのか、腕につけた緑色の玉をニアの前へと差し出すとそう答えたわけを伝え始める。
「まずその左腕じゃが、元々ヒビみたいなのがいくつも入ってたみたいでな。でも問題なのはそのあと。原因はわからないが、とてつもない力で握りつぶされてて骨が粉々になってる。これを治すには最低でも3回…3日は来てくれないと」
目をやった緑色の玉の中はレントゲンの映像のように腕の中を透過しており、折れた骨が躊躇うことなく映り込んでいた。
その光景を予想していなかったニアは、自身の腕ながらと眉を潜ませ、横から見ていたエリシアもまた流れるように目を逸らす。
だが不幸中の幸いとも言うべきか、折れたニアの腕を見た老人は幾度か治療を施せば腕が戻ると語った。
それが頭に出てきただけの日数なのか、はたまた今までも経験から来る目測なのかはニアにはわからなかった。
どちらにせよその報告に、今日で腕が治るかもしれないとわずかに期待していたニアの心は打ち砕かれ、同時にその意気は消沈していく。
「そ、そうですか…」
「まぁこんだけ砕け散ってても元に戻るんだからよかったと思うべきだよ。もう少し砕け散った骨が多ければ直すのは至難の業になってただろうからの」
事実、老人が見せたニアの腕の断面図は治るだけでも奇跡と呼ぶに相応しいほどだった。
骨はある一定の箇所から粉々になっており、元々そこに骨などなかったかのように散乱していた。
落ち込むニアを見かねてか、ねぎらいの言葉をかける老人は続けてもう反対の、右腕へと目を移していく。
「そしてその右腕だけど、それはまだ比較的マシだった。君が望むなら今日完治させるのも可能だと思うよ」
「本当ですか!?」
途端に大声で反応したニアへ老人はわずかに体をビクッと揺らし、だがそれが歓喜から来る反応なと理解すると、安堵したようにほっと息を吐き、問いへと頷き返してみせた。
片腕の回復。それはニアにとって願ってもいない報告であり、日常の中で腕が使えるようになるということはこれ以上にないほどに価値のあることだった。
「それじゃ、こっちへ来てもらえるかの。可能だってだけで簡単ってわけじゃないんだ。少し時間をもらってもいいかえ?」
席を立った老人はニアを手招きしながら奥の部屋へと突き進んでいき、同時にエリシアへと目を向けると時間がかかると言葉を残していく。
「はい、私は問題ないです。それより、どうかニアさんをよろしくお願いします」
そうして2人が去って行った頃、エリシアは安堵したように溢れる息を躊躇うことなく吐き、薄く笑って見せるのだった。
数分後、奥の部屋の扉は開き、中からはニアが出てきた。
その右腕からは包帯が外されており、老人の言葉通り完治したのかとエリシアは急ぎ駆け寄る。だが、
「どうしたんですか!?」
戻ってきたニアの表情には恐怖が浮かんでおり、その手は小さくではあるものの落ち着きなくぶるぶると震えていた。
そうして目の前のエリシアの存在に遅れて気がついたニアは、先ほど体験したことを簡潔に語り始めた。
「麻酔とかなくて…ほんとになんか…死ぬかと思った…」
瞬間、エリシアはその先の部屋でニアが何を体験したのかを理解し、だからこそ表情を引き攣らせる。
だが包帯の外れた右腕はスキアと戦った際のような傷にまみれた状態ではなく、文字通り怪我の一つもない完治の状態へと回復していた。
「…すごい」
「…本当、みるみるうちに治って俺もびっくりしたよ」
何気なく腕を持ち上げるニアの様子からも、その動きに支障がないことは見てとれた。
そうしてエリシアまたニアの腕へと手を伸ばし、触れるが、訪れたのはニアの不思議そうな表情だけだった。
「無事に回復したようでよかったの。腕の中で骨を組み立てるなんて普通なら痛くて泣き叫ぶんじゃが、強い子で助かったわい」
その声はニアが出てきた奥の部屋の方から聞こえてきた。
見ると、老人が治ったニアの腕をまじまじと見つめながらそう口にしていた。
そして同時に再びエリシアは硬直する。
腕の中で骨を組み立てる。想像しただけで鳥肌の立つ作業に、それを体験したからこその先ほどのニアの反応なのだとエリシアは改めて理解し、表情を固まらせる。
だが完治は完治。治してもらったことは感謝以外に伝える言葉が見つからないほどの恩であり、だからこそニアは老人へとその頭を下げると、
「ありがとうございます」
「いいんじゃよ。それよりも、左腕はまだ全然ダメだから油断してぶつけたりしないようにの」
感謝の言葉に老人は慣れたように笑顔で返して見せる。
だがその時、再び奥の部屋からは若い女の人が老人へと歩み寄り、耳元で何かをコソコソと呟いていた。
そして去っていく女の人を背に、老人は深いため息をつくと、
「それじゃ、ワシはまだ仕事なのでな。お大事に」
忙しなく奥の部屋へと姿をくらませた老人。
そうしてしばらくの静寂が訪れた頃、エリシアはニアへとその目を向けると、
「では帰りましょうか」
「そうだな」
かけられた言葉にニアは賛同の意を返し、そうしてやがて2人は来た道を引き返していく。
外へ出た頃には明るかった空はわずかにではあるが暗い藍色となっており、歩くニアの足取りは何処か上機嫌であった。
そうしてしばらく歩いた先には灰庵の待っているであろう小屋が見えた。
戻ってくるや否やニアは躊躇うことなく治ったばかりの右腕で扉を開き、中にいる灰庵へとその腕の存在を見せびらかす。
「どうしたのニア君」
だが灰庵はそんなニアの様子を何処か不思議そうに見ており、気づく様子のないその態度にニアは呆れたように右腕を前へと出してみせる。
そうして差し出された腕を見たことで灰庵はようやくニアが元気なその訳を理解する。
「なるほどね、完治したんだ。よかったじゃない」
「まだ片腕だけですけどね」
未だ包帯に巻かれたままの左腕を差し出し、ニアは灰庵の言葉に小さく笑って見せる。
そうして回復したニアの腕を見た灰庵もまた、何か考えるようにその額に手を添える。
「うーん…どうしよう、片腕か…一応刀は握れるといえば握れるけど、変な癖ついても困るだろうし…」
ぶつぶつと呟く声は弟子になったばかりのニアが今できることを模索しているようであった。
そうしてぶつぶつと呟きながら灰庵が思考していたその時、隣に立ったエリシアは何かを思いついたように灰庵の元へと一歩を踏み出した。そして、
「では避ける練習なんてどうでしょうか」
「避け?」
予想外の提案に聞き返すニアへ、灰庵は納得したようにその目を向ける。
そして改めてニアの容態の程を確認すると小さく頷いてみせる。
「回避の稽古。刀を使えないなら使えないで、回避の練習は必要でしょ?何も戦いは攻めが全てじゃないんだし」
「確かにその通り…か」
その言葉にニアはハッとしたような表情を浮かべ、同時に自身が事を急いていたことを自覚する。
そうしてやる気を出したニアへ灰庵は小さな笑みを浮かべてみせた。
「いいよいいよ。んじゃあ…早速だけど始めよっか、ルールは簡単、エリシアが君を攻めるから君はそれを避けるだけ。終わるタイミングは僕が言うから気にしないで続けて」
隣に立つエリシアは自身の名が挙げられる事を予想していなかったのか、ぽかんとした表情を浮かべていた。
そうして改めて挙げられた自身の名が聞き間違いではない事を理解すると、
「私ですか?私そんな怪我人を痛めつけるようなことしたくなんて———」
「お願いします、先輩」
否定的なその意見を連ねるエリシアの言葉は、ニアが頭を下げたことにより中断される。
しばらくの沈黙が流れた。
それはエリシアが判断を迷っていると言うことであり、お願いされようと怪我人を傷つけたくないと言う気持ちと、ニアのこれまでを知ったからこそ少しでも力になりたいと言う気持ちがせめぎ合っていたためだった。
そうして数秒後、不意にエリシアは変わらず頭を下げたままのニアに負けたように息を吐くと、
「…わかりました、ですが決して無理するようなことはしないでください」
「ありがとうございます、先輩!」
「では行きましょうか」
その言葉に灰庵は安堵したように笑みを浮かべ、ニアは居ても立っても居られないとその拳を握りしめる。
そうして小屋を後にした3人はやがて開けた森の中へと辿り着いた。
そこには大きな白い線が引かれてあり、近くには数本の木刀が立てかけられていた。
その様子にニアはそこが2人の稽古場なのだと言う事を理解し、灰庵は白い線の外側に立つように2人から離れていく。
「よし、じゃあ早速2人とも位置についてくれるかな?」
「ニアさんはそこにいてください。私が離れます」
「わかりました」
そうして両者が適切な間合いを開けた時、灰庵は何かを待つように目を瞑り始める。
そして突然のその行動にニアが疑問を浮かべたその瞬間、
「それじゃ、開始!」
予想外のタイミングで始まった稽古に、ニアはわずかに反応を遅らせてしまう。
そうして急ぎエリシアの方へと目を向けた時、その先に映った光景はニアに驚愕を覚えさせた。
「なっ…」
「油断しないでください」
振り向く寸前、目の前には茶色い木刀が通過し、それを以ってニアは瞬く間に接近したエリシアの存在を理解する。
わざとか図らずか、不意打ちにも近しい一撃が横切ったその瞬間、ニアは咄嗟に身を捻り、右腕を地面へ叩くと次の攻撃が来るよりも早く後方へと飛び下がってみせる。
地面へと着地した足はわずかな痛みを訴え、だがそれすらもが気にならないほどまでにニアは目の前に立つエリシアに驚愕を覚える。
「…結構本気な気がするんだけど」
目の前のエリシアはニアが体勢を立て直すのを待つように動く事なく見つめていた。
その姿に先ほどの乗り気ではなかったエリシアの姿は何処にもなく、そこにはただ、刀を持った一介の剣士だけが立っていた。




