聖女となったアデル
聖女となったアデルは、律儀に聖堂で働いていた。
もう五年近くになる。
「今日中にこれだけは終わらせる!」
カリカリカリカリカリ……。
アデルは数人しか残っていない執務室の木机で、猛烈な勢いで羽根ペンを走らせていた。
ふわふわとしているのに緑色の艶のある長い髪は、二十代の娘らしく美しい。
だが、残念ながら残業中の彼女にとっては、これは邪魔なものという認識でしかない。
レースのリボンでもなく、色鮮やかな飾り紐でもなく、羊皮紙をとめる余った茶色い革紐で縛っている。
冷静さと悪戯っぽさを兼ね備えた瞳は、賢く小さな小動物のようだ。
愛想良く喋る口元は、業務上、必要があるときはいつも微笑んでいる。
愛嬌のある表情は、密かに一部の男性に人気がある。
アデルはプクッと頬をふくらませて、一人静かにこっそりと腹立ちを露わにしていた。
「ったく、王家や騎士団はもっと自分の頭で考える訓練をすればいいのになあ!」
こっそり呟くくらい罰はあたらないだろう。
ぼやいてないとやってられない。
本音を言えば、騎士団は剣の善し悪しを問うよりもまず自分たちのペンの技術力をあげてほしい。
つまりは筋トレだの何だのの前にやることがあるはずだ、というのがアデルの言い分である。
「えー……伝説のミスリルソードでも無い限り、あんた方が使ってるその辺の量産型の剣は、ディーツ産でもカロット産でもそこまで魔力量に大差はないですよ。そして、そんなことはこの間送った資料に何万箇所も書いてありますよ、羊皮紙に穴があくまでお読みあそばせ……っと。よし、完了」
王家のミッシェル第三王子の流麗で優美な署名。
パシンと指で弾いて、少し溜飲を下げる。
このお偉方に会ったこともないけれど、字で何となく想像がつく。
第三王子ミッシェルとかいう貴人は、きちんとした美しい文字を書く。
それを見るに、色白で女のようになよやかで、弱気な人にちがいない。
この無数にサインをした書類の量からみても、頼まれたら嫌といえないような性格なのだろう。
きっと靴下の色から枕のカバーまで、自分で選んだこともないに違いない。
うん、王家なんてのはだいたいそうだ。
そうに違いない。
アデルは大聖堂の欄を確認する。
ここに名前を書けば、聖堂、つまり聖女の仕事は終わりだ。
「アデル・ド・リュースバーグ……っと」
公爵家に属した自分の名前を何百回と書いてきたが、未だに慣れない。
たぶん一生慣れないだろう。
「だいたい貴族のド・なんとかってのが長いんだよな。ファーストネームだけなら楽なのにさ」
「あらあら、アデルさん。まだいらっしゃるの」
「あ……」
独り言を聞かれてしまった。
「精が出るわね」
鍵をしめる当番のリディアがアデルに声をかけてきた。
アデルよりも何歳か年上だが、一緒の年に聖女になった。
いわゆる同期だ。
「遅くまで頑張っていらっしゃって尊敬しますわ。もう閉める時間なのですけれど、よろしいかしら?」
リディアは生粋の伯爵令嬢で、育ちの良さが行動のはしばしに感じられる娘だ。
彼女はおっとりして誰にでも優しいけれど、きっちりと仕事をするので先輩にも上司にも好かれている。
「もうそんな時間!?」
「ええ」
執務室はきっかり六の刻に閉まる。
気付かなかった。
「ごめん。もう出るよ」
アデルはせわしなくペンを置いて、荷物を持った。
ヴァレリアン夫妻の養子になった聖女アデルの話。
前作を読まなくても読めます。




