桐島輝夜
太古より、妖魔の脅威からこの瑞光国を守護し続けてきたのが退魔巫女という存在であるが、では、常勝不敗なのかといえば、そうではない。
戦いであるからには当然のことであるが、時には敗北し、撤退を選ばねばならない局面もある。
そして、多くの場合、魔界と突発的に繋がる歪みというものは、人里離れた山奥などで生まれるものであった。
だから、背後に気をつけつつ野を駆け、山林を越えるのはお手のもの。
武芸者にとって、体力作りというのは基本中の基本。
退魔巫女たちは、下手な修験者が裸足で逃げ出すほど厳しい修行に身を投じているのだ。
そんな女傑たちが、今は力なく肩を落とし、そこらの地べたや木の根にだらしなく腰かけている。
霊気の消耗も含む肉体的疲労は――大きい。
おそらく、普段の状態を十とするならば、余力を残している者でさえ六と五の間くらいでしかないだろう。
だが、それ以上に大きいのが、精神的な衝撃。
「皆、結界を破られたことが、堪えているようですね……」
魔月特有の赤い月光に晒され、思わぬ脆さを見せる退魔巫女たちの姿に、桐島輝夜はそのような言葉を漏らした。
齢18にして今年の鬼ケ原調伏総責任者となった娘は、退魔を司る戦闘者というよりは、どこぞ大名家の姫君と言われた方が納得のいく美しさである。
明るい茶色をしている妹のそれと異なり、髪はまことに艷やかな黒色で、それが枝毛一つもなく腰のあたりまで伸ばされていた。
顔立ちは気高く、凛としており、生まれ持った魂の品格というものが、そのまま表れているかのよう。
ほっそりとした肢体を包み込むのは、背負った役割と裏腹にごく一般的な退魔巫女の巫女装束であるが、他の者と同様に闇夜を駆けてきたというのに、汚れ一つも見当たらない。
しかも、誰よりも大量の霊気を先までの結界構築で消費しているというのに、表情は冷静そのもので息の乱れすらないのだから、隔絶した実力を感じさせる。
まさに、百年に一人の英傑。
輝夜こそは名門桐島家を……ひいては、未来の退魔巫女たちを率いるにふさわしい存在なのであった。
「無理もありません。
神世の時代から、一度たりとて破られなかったのが、鬼ケ原に敷く大結界だったのですから」
独り言を漏らした輝夜に、側近たる巫女の一人がそう答える。
その側近自身もまた、顔色は非常に悪く、まるで大病からの病み上がりであるかのようだ。
「我ながら情けない。
皆の力を貸してもらっていながら、結界を破られてしまうとは……!」
初めてそのような様を見せた側近の姿に、ますます口惜しさが増す輝夜だ。
「輝夜様のせいでは、ありませぬ。
そもそも、結界は万全の状態ではありませんでした。
これから時空の裂け目が出来てくる、という時刻に合わせ、徐々に練り上げ、構築していたのですから」
「それが、まさに私の甘さであり、龍帝天凱はその甘さを見事に突いてきたのです」
『我こそは、妖魔軍総大将……!
――龍帝、天凱なり!』
鬼ケ原中へ響き渡ろうかという大音声による名乗りは、当然、後方で結界構築に従事していた輝夜たちの耳にも届いている。
距離があったこともあり、直接にその姿を見たわけではない。
だが、この名乗りと、何より地の底から放出された天変地異そのものな昇雷の凄まじさを見れば、伝説に語られし大妖魔が復活を遂げたのは明らかだった。
「いかに龍帝といえど、歪み始めたばかりの次元を無理やりに跳躍し、不完全とはいえこちらの結界を完全粉砕したのは、並大抵のことではなかったはず。
つまりは、賭け。
かの龍帝は、こちらの心理的な隙をつくために全身全霊を込め、見事それを果たしたのです」
出現時の名乗りにはいささか余裕を感じたが、それは古より復活せし大妖ならではのはったりであるというのが、輝夜の考えだ。
次元を隔てた世界同士を飛び越えるというのは、それほどに力の消耗が激しきもの。
天上の神々ですらこれを成すのは容易でなく、神話通りなら、龍神から龍帝へと堕とされし際に力の多くを削がれていることを思えば、初手の異界転移と強襲で妖気の半分以上は消費。
さらに、妖気を帯びた雷で生まれた次元の狭間を広げ、かつ門として固定したことで、全妖気の七割近くを消耗したものと推測できた。
で、あるならば、輝夜が第六感じみた超感覚によって察知していたその後の展開も、納得ができるのである。
「それにしても、意外なのは妖魔たちが追撃してこないことでしょうか?
通常……特に、人の形に達していない位階の妖魔であるならば、獣じみた勢いでこちらを追ってくるものですが」
背中を見せた相手に対し、本能的な攻撃を加えるのは野に生きる獣も、低級妖魔も同じ。
いや、人型をしている上級の妖魔であっても、あの状況ならば、勢いに乗って追撃戦へ打って出るのが定石であった。
それを、しなかったのは……。
「阻止した者がいるのです。
私の霊感が、それを察知しました」
「十里を超える輝夜様の霊感が、ですか?」
側近の言葉に、うなずく。
十里――約40キロ――を超える、というのは、誇張ではない。
体調によって射程範囲は増減するが、おおよそ、その範囲が把握可能な領域だ。
輝夜の第六感じみた霊感は、その範囲における霊気や妖気の動きを余すことなく捉えるのである。
さながら、人間が将棋盤の戦局を把握するがごときものであった。
「ですが、龍帝出現時、凄まじい雷撃が天に昇るのをわたくしも見ました。
あれに飲まれた先鋒の巫女たちが、耐えられたとはおもえませんが……」
「いいえ、ただ一人、耐え抜いた者がいたのです。
もっとも、本人自身、覚醒した霊気で己を守ったことは、自覚できていないかもしれませんが……」
「その巫女とは、一体?」
「舞」
短く告げたのは、妹の名。
それに対し、側近が驚き息を呑む。
桐島舞といえば、姉に才能の全てを持っていかれたみそっかす。
これが全退魔巫女の認識であり、それは、姉の贔屓目をもってしても覆せない事実だったのである。
だが、輝夜は自信をもって続けた。
そもそも、今は状況を正確に把握し、共有することが肝要だからだ。
「あの子の内には、思いもよらぬ力が眠っていたようです。
まさに、火事場の底力と呼ぶのがふさわしいでしょう。
舞はそれを振り絞り、殿としてわずかながら妖魔軍を押しとどめた。
……龍帝の妖気と舞の霊気がぶつかったことは、把握できています。
おそらくは、一騎打ち。
消耗した龍帝は、覚醒した我が妹にほんの一時だけ、時間を稼がれた。
結果、間を外したと悟った妖魔軍は、追撃を断念したというのが、霊感を分析した結論です」
「なんと、妹君が見せた力の恐るべきこと……」
「いいえ、恐るべきは敵方の冷静さです」
側近の言葉を切り捨て、妖魔軍が見せた動きと決断をそう評価する。
「素早く集結を済ませ撤退していた我らは、後方に対する警戒を十分にしていました。
仮に、あの龍帝本人がまたもや先陣を切ってきたとしても、痛撃を与えられたことでしょう」
つまりそれは、やはり本人が意図していないだろう舞の生み出した勝機。
そのわずかな勝ち筋は、冷静な対応によって潰された。
完敗だ。
「……この小休憩を挟んだ後は、また全力で駆けましょう。
伝説の龍帝が復活し侵攻してきたのは予想外でしたが、損害は最小限で済みました。
これは、あの子の功績。
私は姉として、それを最大限に活かす義務があります」
「御意」
側近がうなずき、伝令へと今の命令を伝えていく。
「舞……。
最後、霊気は弱まったけど、消えてはいなかった。
あなた、生きてるの……?」
退魔巫女の健脚で全力撤退したため、すでに鬼ケ原は霊感の範囲外にある。
輝夜は姉として、せめて聞こえない問いをその方角に発するのだった。
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