☆きっとそれは、優しい水底
「な、んで……!?」
「あ、ええと、銀二郎さんが連れてきてくれて」
「ははは、見たか那月、このバカ弟子、儂の演技に見事欺されてマジギレしてマウント取ってきおったぞ、よほど惚れられておるのだなあ」
「っ、お、お師匠様!!」
先ほど自分がやったことを思い出し、ナツメは顔を真っ赤にして怒鳴る。
ふぅぅっ、と猫の威嚇じみた声をあげる恋人を、那月は微笑ましく思った。
「先輩、迎えに来ました」
「む、あ……な、那月、くん」
「帰りましょう、先輩」
「……だめ、だ。ダメなのだ」
伸ばされた手を、ナツメは受け取ることができない。
「どうしてですか?」
「だって、吾輩たちはこんなにも違うのだ」
言って、ナツメは正体を晒す。
彼と暮らすようになってから極力見せるまいとしていた、完全な猫の姿。
銀色の毛並みと、ブルーの瞳を、那月は綺麗だと思った。
「人の姿を真似ることは出来ても、吾輩の本質はこれだ」
猫は目に涙を溜めて、言葉を紡ぐ。
「正しく生きた猫では無く、こうして化生と『成り』、理の中にあって理外となった。人と同じ時間も生きられず、人の世界に在ることもできない。そんな吾輩と、いっしょには……」
「いられますよ」
「っ……!?」
「だって僕は、ナツメ先輩のことが好きだから」
迷うことなくそう言って、彼は跪き、猫の目に溜まった雫を拭う。
そのまま抱き上げられたところで、猫又は我に返ったように首を振って、
「そ、そんにゃ簡単に……!?」
「簡単です。だって僕は先輩のことが好きで、先輩だって僕のことが好きですから」
「そ、れは……そう、だけ、どもっ……で、でも、吾輩とキミは、寿命だって、常識だって……!」
「違います。それでも一緒にいられます。それでも、離れる方が辛いです。だって……先輩、泣いてますから」
「っ……それは……」
ダメだ、と心の中の自分が訴える。
いつか迷惑がかかる、いつか後悔を得る、いつか痛みになると、心が叫ぶ。
けれどそれ以上に、目の前の相手が語る言葉が心に染みてくる。
「後悔を……する」
「きっと、誰だって後悔をします」
「え……」
「ニンゲンも、妖怪も同じです。ひとりひとり、みんな違っていて、歩み寄ることはできても、同一になることはできない。それは別に僕と先輩に限ったことじゃなくて……僕と誰かだったとしても、先輩と誰かだったとしても、同じです」
腕の中の猫の背を、彼は撫でる。
それはふつうの恋人のスキンシップではない、猫と人だからこそできる触れ方で。
彼はそんな恋人を選んだことを、いつか後悔しても、構わないと思っていた。
「例え同じ種族同士であっても、ちょっとしたことで喧嘩をしたり、食い違ったり、分かって貰えなかったりします。先輩だってさっき、銀二郎さんと喧嘩になりかけてましたし」
「それ、は……お師匠様が、那月くんを……」
「はい。先輩が僕を心配してくれたからですね。……きっと誰と付き合っても、誰と一緒にいても、言わなければ良かったとか、しなければ良かったとか、後悔することはあります。あのときもっとこうしていればって……思うことは、あります」
それでも、と、那月は首を振った。
「後悔なんて、ひとりで生きていても、誰かと生きていてもあります。だったら……僕は、後悔しても良いと思える人と一緒にいたい」
「っ……ず、るい」
ダメだと叫ぶ声が、小さくなる。
怯えがねじ伏せられて、良いのだろうかという甘えに変わってしまう。
「ずるい、ずるい。そんなこと言われたら……吾輩、期待してしまう……」
「期待に応えられるように頑張ります。ダメだったら、ぶつかりましょう。だって……僕は、あなたと一緒にいたいから」
「寿命だって……違うのに?」
「人間同士だって、違いますよ。妻か、夫かが早く死んでしまって、何年も残される人もいます」
本質的には同じ事だと、那月は思う。
例え同じ種族同士であっても、同じように死ぬことはできないのだと。
「だから、ニンゲンは……いつか分かたれてしまうときのために、病めるときも健やかなときも、積み重ねるんです。『いつか』、『かつて』のことを思い出して寂しさを感じても……それに負けないくらいの幸せを、積み重ねる……僕は、そう思います」
「っ……吾輩は、そんなふうに……できるだろうか」
「分かりません。でも……僕はそうなりたい。今別れて、ずっと寂しい気持ちを抱えて、想い出だけを持っているより……『いつか』が来るときまで、あなたといっしょにいたい。だから……」
那月は腕の中の猫を、そっと地面へと降ろした。
銀色の毛並みの猫は、彼をじっと見上げる。涙はいつの間にか、止まっていた。
「ナツメ先輩。僕と、結婚しましょう」
「っ……うん、うん!!」
迷いも、後悔も、いつかの痛みも。
すべてを振り切って、猫は愛しい人へと飛びついた。
腕の中で姿を変えた猫又の恋人を、ニンゲンは優しく抱き留める。
「いっしょに……吾輩も、キミといっしょにいたい……!」
「……はい。僕も、同じ気持ちです」
お互いの体温を求めて、ふたりは口づけを交わす。
愛情の交換であり、誓いの印でもある、あたたかなキス。
「ん、ぁ……」
「先輩、ん……」
自分が捨てようとしたものを想って流れた涙が口づけで拭われることを、猫又は幸いだと感じた。
「あの、那月くん……その……ご、ごめん、なさい……吾輩、勝手なことをして……」
「そう思うなら、もう二度と離れないでくださいね。次は飼い猫みたいに首輪をはめてでも阻止しますから」
「……那月くんにそうされるなら……悪くない、よ……だって、好きだから……」
「……本当に先輩は可愛いなぁ」
「う、にゃうぅ……ちゅ、ん……」
尻尾をぴん、と立てるのは、猫の喜びの印だ。
口づけを何度も繰り返せば、尻尾はゆるやかに揺れ、気を許したことを示す。
「ん……やっぱり、吾輩離れられない……」
自分の手のひらがあっさりと返されたことを理解し、ナツメはもはや抗うことなく身を寄せた。あたたかく受け入れられる幸せに、包まれながら。
「僕も、同じ気持ちです。なにがあっても先輩から、離れるつもりはありません」
「……ああ、本当に。恋というのはこんなにも、溺れるものなんだな」
「……酔っ払って水に落ちた猫ですか?」
「うん。あの猫は酒だったが、吾輩は……恋に、落っこちた」
それはひどくあたたかで、致命的で、どうしようもないのに逃れがたくて。
猫又はついに、身体の力を抜いた。
「じゃあ僕たちは、生きて太平を得る方法でも探しましょう。僕が教えるのでも、先輩が教えるのでもなく……ふたりで、知りましょう」
「……ああ、それはとっても、素敵なことに違いないな」
感情が溢れた証が、瞳から零れる。
「早速ひとつ、吾輩は学んだよ。……涙は、嬉しくても流れる」
感情の熱を拭うこと無く、猫又は腕の中で笑った。




