前編
「えっ、ワタシ以外にもいるのですか!?」
「そりゃそうよ、サンプルがひとつだけしかない実験なんてしたことないでしょ?」
「いやそうですけど、こんな実験に志願する人がワタシ以外にいたなんて……」
「ああ、その人は志願者じゃないわよ」
「ええっ!?」
「まあ3号基地の研究主任の知り合いらしいんだけど、選出自体はランダムだってさ」
「そんなことを……」
「確かにこの実験で志願者以外を使うってのはいよいよ人間やめちゃってる気がするわよねぇ……」
先輩が遠い目になる。
「被験者に人間やめさせるわけだし、あたしらも人間やめるべきなのかなぁ」
「人外に勝つのは人外ってのが当然なのでしょうけれど、だからって全員そうならなくてもいいと思います。先輩は人間でいてくださいね」
「……あんたの頼みってどうも重いのよねぇ。そんなんだから彼氏に逃げられんのよ」
「それ関係ないですよ! ……たぶんですけど」
「なんで監視員がひとりだけなのか、分かった気がする」
「ど……うし……て……ですか……?」
ガラス越しの先輩の顔は伏せっていて、台上に横たわるワタシからは表情が窺えない。
「わざわざ何人もの心を壊す必要なんてないのよ、きっと」
「そん……な……こと……」
「なんでずっと見とかなきゃいけないのよ……」
「せん……ぱ……」
「成果がないまま、あんたがただ弱ってゆくのを見てなきゃいけない。成果が出ないことはあたしのせいでもあるから、放り出せやしなくて……」
もはや時間差しか生まなくなってしまったこの身体を呪いたくなる。
「放り出したいって、逃げ出したいって、そう思っちゃうなんて……」
先輩が自己愛を嫌悪しているのが分かる。そこに善悪なんてないんだって言ってあげたいのに、その言葉を伝えようと力を絞り出そうとする時には、もう先輩が先へ行ってしまっている。
「今さらかもしんないけど……成功しなくていい、失敗だって言われてもいい、信頼を失って二度と研究に携われなくなっても、生産区送りにされてもいいから……あんたをこんな行き詰まった実験から解放したい……」
次に来る言葉が分かってしまうほどに、ワタシは先輩と長い時間を過ごしてきた。だけど、ワタシは今やこの思いを伝えることができない。
「被験者があんたじゃなかったらよかったのに……なんで……なんで志願したのよ……」
なぜって、ワタシは人が好きだからだ。
人を好きになれたのは先輩のおかげ。
だからどうか、先輩だけは人でいてほしい。
でも、この思いも――――
「……あれ?」
そして、急変した先輩の反応に、ワタシは悟った。
「どこに……」
この瞬間、ワタシの実験が膠着を抜け出したことを。
「マリっ!? どこ!? マリっ!」
そして、世界がワタシに告げていた。ワタシはもう誰にも認識できなくなっていて、まもなく存在そのものがこの世界から失われるのだと。
ワタシはこの世界での最期の“確たる自分”を先輩のそばに置けることをうれしく思った。
「マリっ!」
あなたがワタシの名前を呼んでくれる瞬間は、いつもうれしかった。
あぁ……さよならの言葉を届けられたらいいのに――――
また、目を開けた。
吹雪の荒野だ。また同じ景色かと思った。
けれど――――
「あ……」
白く煙る視界の中に、空へと伸びる6号塔が見えた。
幾度となく世界に現れては消えた。極寒にも、灼熱にも、深海にも、どこにでも、ワタシはほんの少しも関与できないで。そんな時間をワタシは流されようと決めていた。決して終わらないのだから。
けれど、今は、今だけは、想いを抑えられない。
あれが伸びる先へ、誰にも見えることがなくても、たどり着けなくてもいいから限りまで近づきたいという、この想いを。
「先輩……」
誰にも届かない呼び声。
「先輩っ……」
けれど、きっと意味はある。
「先輩っ!!」
世界は、そんなワタシを静かに消した。
「《虚人》……」
それは周囲を見渡しながらどこかへ向かっている。
「なあ……」
聞こえないと分かっている。
「ワタシも、付いて行っていいか?」
けれど、その名と違って、そこにいる。
本当に虚なのは、ワタシのほうだ。
「これからは、お前たちが返事をしない時はぜんぶ肯定だと思うことにしよう」
そこにいるということさえも、求めなければならないものになってしまっていた。
防衛隊にいた頃の習慣が抜けなかった。
「一式、青……あとは識別名なしでいいか」
それが終われば語りかけた。
「これほどの数で固まってるなんて珍しいな。なにを企んでる? そもそも企みとかするのか? あっ……」
たいてい、《虚人》は話の途中で突然、凄まじい速さで侵攻を始める。けれど、今のワタシはそれにさえ追いつける。
「こうやってどこかへ向かうってことは、まだ人間は絶えていないのだな……」
追える限り、ワタシは追い続ける。時によっては《虚人》が塔を襲撃するところを目撃できる。ほとんどはその前に消えてしまう。少なくとも、全部が砕けてしまう前までに消える。
どれだけ弾雨が高密でも、ワタシには決して当たらない。誰もワタシを狙うことはないのだから。そもそもワタシのことが見えていないのだから。
ワタシがこの世界に触れられないのと同じように、世界はワタシに触れられないのだから
ワタシの身体に触れるものはみな、ワタシの干渉など存在しないかのように振る舞う。それでも、ワタシにだけはその感覚がある。突き抜けたりすり抜けたりする感覚だけが、このような存在になる前には無かった感覚で、他は変わりない。
いつからか、ワタシは演じるようになっていた。感覚に盲従し、まるで自分が世界にいるかのように。そうすることで、ワタシはなにかを守っていた。もはやそうする価値もないはずのなにかを。
演じるために、いくつかの設定を決めた。『ワタシは役割を担っている』。『《虚人》はワタシの連れ添い』。他にもたくさん。
そして、ワタシはそこにひとつだけ、願いを込めすぎたものを忍ばせていた。
『いつかワタシは誰かの手によって役割から解き放たれ、再び世界に確たる自分を現す』。
どんなに利己的になろうとも、夢想的になろうとも、今のワタシは誰の心も汚さない。
世界はワタシをどこに定義しているのだろうか。
限りなく無や虚に近い座標なのは確かだろう。規則性や周期性は見出せていないが、境界のようなものは次第に掴めてきたように思える。少なくとも、世界への干渉ができない領域から外れることはない。
ふと意識を放り込み、すぐに引き戻す。あの日からいくつもの途方もない間を挟みながら、世界はそれを繰り返していた。
だが、あの時は様々なものがいつもと少しずつ違っていた。
「三式まであるのか。初めてだな、こんなに識別個体が固まっているなんて」
いつもは集団といっても5体ほどの小規模なものしか見たことはなかったが、そこには数十体もの《虚人》が集結していた。そして、いつもは1集団に1体だけだった識別個体が、その集団にはなんと3体もいた。
「進化……なのか……?」
侵攻を開始してからも、いくつかの差異に気づいた。
まず、明らかに識別個体たちの速度が大きすぎた。ワタシは追随するのに苦労はないとはいえ、他の通常個体たちはすぐに離されてしまった。
まもなく3号塔が見えてきた。3号塔に行くのは初めてだった。そもそも塔にたどり着くまで留まれたのが数えるほどしかなかったのだが。
反撃がないままかなりの距離を接近した。時間的にはそれほど長かったわけではなく、むしろ6号塔より反撃の開始は早かったのだが、識別個体たちの速度がそれほどまでに大きかったのだ。
そして、ワタシは彼に出会った。
再び世界へ現れた時、ワタシは確信めいた推論を思いついた。彼はあの実験の成功例だ、という推論を。
そして盲信した。彼はワタシを解き放つ者なのだと。
そこに根拠はなかった。いや、雑に考えれば、同じ目標の下に行われていた実験の被験者なのだから、ワタシと彼になんらかのつながりがあってもおかしくはないかもしれない。だが、そんな解釈などワタシはしていなかった。ただひらめいて、そのまま掴み取っただけだった。
それからは、どこに現れても希望があった。極寒にも、灼熱にも、深海にも、どこにでも、ワタシはほんの少しの、でも決して消すことのないその希望と共に現れ、刹那を過ごした。
再び6号塔に現れても、ワタシはその希望を見つめ続けていた。
惨劇と崩壊の跡を前にしても。
絶たれた天への架橋を見上げても。
また次に現れたのが6号軌道基地の内部でも。
そこに人間がいなくても。
人間が、いなくても。
「なん……で……」
だが、ひと目で分かってしまった。
見つめていたのではなく、目を向けないようにしていただけだったのだから、それをやめてしまえばもう止められやしなかった。
「人間でいてくださいって……人間で……」
もう遠くなったあの日、ワタシが世界から消えた場所。
6号軌道基地・機密研究区画・ルームA。
ガラスの向こうに隔離されている、1体の《虚人》。
分かる。分かってしまう。
捧げたのだ。ワタシと同じように。
ワタシはこうして、人間を愛するための的を失った。
やけに長く留まっている。時間の感覚が働くのはいつ以来だろうか。
6号軌道基地と6号人口区はすでに《虚人》の世界となっているようだ。ただ、侵攻があったとは思えないほどに、基地にはほとんど損傷が見当たらない。
構造はワタシがいた頃とほとんど変わっておらず、おかげで目的の場所を迷わずに見つけ出すことができた。
塔と起動基地とにおける防衛行動のすべてを記録して情報や指示を供給する、人類のコンパス。6号起動基地のそれは名をノアといった。
「ノア、ワタシが見えるか?」
返答はない。と、思い込んでいた。
だが――――
「被験者No.001、マリ・セノウとの推論。相違の確認を求む」
ワタシの知らないところで人類は進化していたのかもしれない。あるいはワタシが変わったのかもしれない。どちらにせよ、ワタシはまた世界から認識されているのだ。
「推論は真だ。ならば次に、ワタシには今、アクセス権限がどこまで認められているか開示しろ」
「現在、マリ・セノウのアクセス権限はマスター状態である」
「マスターだと? 誰がそんな権限をワタシに……」
「権限移行の責任者は特定できない。24時間以上前に当該記録は自動消去されている」
「ワタシ以外のマスター権限保持者はいるか?」
「権限を行使し、当該事項の開示を請求するものとの推論。相違の確認を――――」
「真だ」
「……確認完了。6号塔防衛隊・塔隊長、同階下隊長、同基地長、《虚化》臨床実験被験者No.001。以上4名が現時点でのマスター権限保持者である。うち塔隊長、階下隊長、基地長の3名は、申告なく通信途絶状態に入って48時間が経過しており、死亡推論の確定待ち状態にある。当該推論の確定を求む」
「……ワタシにはできない」
「当該推論の確認を保留する」
「全機密事項を開示し、閲覧モードに移行しろ」
「権限を――――」
「真だ」
「……請求されたタスクの完了まで約5秒。4、3、2、1、完了した。閲覧モードに移行」
薄々分かってはいたことだが、ワタシに見せるための準備がされたに違いない。現にこうしてモニターに表示される機密事項の先頭から、“《虚化》研究・発展理論報告”の名称がずらりと並べられている。
ワタシが知りたいことはここにある。そう宣言しているのだから。
ノアの全機能を落とさせ、部屋をあとにした時、ワタシはどんな顔をしていたのだろうか。
そういえば、ノアに認識されたのなら、もしかすると自分の姿も視認できるのかもしれない。
確かめておけばよかった。だが、近くに鏡になりそうなものはない。
それにもう、というよりかはようやく、ワタシは消えようとしていたのだから、確かめようがなかった。
なぜ今だけは願いが通じているのだろう。
3号塔が見える。すでに戦闘が始まっている。
ここはまだ死に絶えていない。
まだ、彼がいるかもしれない。
もう解放など望んでいない。ただ会えること、それだけが願いになっている。
ここの戦闘は《虚人》側の勝利のようだ。《虚人》たちが塔壁に沿って移動し始める。ワタシもついてゆこう。
きっと導いてくれるだろう。果てまででも、半ばまででも。
扉をすり抜けると、彼はいた。
だが、彼ひとりではなかった。
その瞬間だけは。




