エピローグ~あなたは確かにそこにいた①
木枯らしが吹き始めた。
あの、人生で最も濃密な時間――少なくとも彼の十六年の人生で最も濃密で緊張に満ちた、そしてその後の人生にもそうないと予想される――を過ごした日々から、半年、過ぎてしまった。
今日、彼――九条円は、恩師の見舞いに来た。
もはや通いなれたリノリウムの床を踏んで進み、彼はナースステーションに声をかける。
マスクと検温、手の消毒を済ませ、とある病室のドアをノック。
「やあ」
45度ほどベッドを起こし、そこにもたれかかって彼は、ぼんやりとテレビを見ていたらしい。手元のリモコンでスイッチを切ると、しわの増えた顔をほころばせる。
会うたびに彼が老い、小さく縮んでいくような気がして、円は内心いたたまれない。
「お加減は如何ですか?」
あまり意味のない問いだと知りながら、彼は問う。
ルーティンのようなものだ。
「まあ、ぼちぼちだね」
答える彼もルーティンだ。
彼の全身には数多くの癌が広がっていて、もはや手の打ちようがないということは、二人ともが知っていた。
『キョウコさん』と呼んでいた、彼女――【管理者・ゼロ】の身体が砕けた時。
仰向けに倒れて意識を失っていたとしか思えない、白髪の多い胡麻塩頭の男がむくりと起き上がった。
「やれやれ。彼女もずいぶんと無理をしたんだな。……我々のせいだが」
声は若干しわがれていたが、その男の口調はスイだった。
彼は、状況が理解できず固まっている九条円へ、やや痛ましそうな顔を向けた。
「九条君」
呼びかける口調が耳に馴染みのあるスイの口調なのに、円は、余計に混乱した目で男を見るしか出来なかった。
「そう心配するな、少なくとも最悪の事態じゃない。最悪から二番目か三番目の事態だから……まだ、希望があるというものだよ」
そんなことを言いつつ彼は、片頬だけでニヤリとする。魔王のような不敵な笑み、確かに『スイ』だ。
「せん、せ……」
意味のわからない涙が湧いてくるが、乱暴にそれをぬぐい、円は足腰に力を入れ、身を起こす。
「とりあえず、家の中へ入ろう。今ならまだ、彼女の『中の人』と話が出来るだろうし」
「『中の人』?」
意味がよくわからなかったが、促されるまま彼は、スイらしい老人とよろめきながら家の中へ入る。
家の二階、キョウコさんが私室として使っていた一番広い部屋へ、スイは躊躇なく入る。
部屋には……何もなかった。
ただの真っ白な壁が四方を囲んでいる、フローリングの床の洋間。
そんな、がらんとした部屋だった。
「マスター。管理人。キョウコさん。それともイザナミノミコトと呼ぼうか? あんたは嫌がっていたが、卑弥呼の方がいいか? 神功皇后か?」
『うるさいぞ』
冷ややかな声がいきなり聞こえてくると、半透明の彼女の3D映像が部屋の中心に表れた。
「ただいま戻りましたよ、マスター。術が解けて、どうやらあなたの使い魔は、生きた時間分の憐れな老爺に戻ったようですね」
『お前が私の使い魔かどうだかはしらんが。無理矢理引き延ばしてきた、長すぎる青春は終わったらしいな、スイ……いや』
彼女はふと、いたずらっぽい目つきになって言った。
『角野英一君』
スイは何とも形容しがたい複雑な感じに顔をゆがめ……、だが一瞬後、ふっ、といい笑顔になった。
「……ですね。あなたは身体が維持出来なかったみたいですが、その解釈あってます?」
(アバター?)
首をひねる円をよそに、話は進んでゆく。
『ああ。維持出来なかったな。まったく……史上稀にみるやんちゃどものせいで、せっかくの愛着ある身体が壊れてしまったではないか。まあ、かわりにいいものを見せてもらったから今回はチャラでいい』
「いいもの?」
これはさすがのスイもわからなかったのか、不思議そうに問い返す。
『ああ。チーム【eraser】によるタイプ・球の浄化だ。そうそう……見られるものではない。【管理者】として大変貴重な経験だった。お前たちだからこそ成し得た、比類のない浄化だったとも思う。身体が壊れるくらい必要経費というものだ』
ふっと彼女は口許をゆるめるが、すぐに真顔になった。
『今後のことはマニュアルにした。リビングにあるローテーブルへ置いておくから、基本はそれに沿って動いてくれ。巻末に質問欄を設けているので、疑問や質問はそこへ書き込んでほしい。私は、次のアバターがそれなりに育つまで、現実の時間で5年は遠隔での管理を余儀なくされる。まあ、大きな【Darkness】がひとつ消えたから、しばらくは遠隔でも大丈夫だろう。【home】の機能も限定的になるが、そこはあきらめてくれ』
「了解」
スイがそう答えると、彼女の3D映像は円の方へ目を向けた。
『九条円君』
「……はい」
『本当によく頑張ってくれた。君のおかげで、それこそすべてが丸くおさまった。君は、君の名前に込められた願いの通りの素敵な奴だ。ご両親から素晴らしい贈り物をもらったね。そのまま、どうかいい大人になって……また会おう。次の『キョウコさん』は、君の目からは小生意気なクソガキにしか見えないだろうが、そこは勘弁してほしい。……ではな。素晴らしい【eraser】たち』
彼女は明るい笑顔を残し、フェイドアウトした。
「さようなら」
「さようなら」
ふたりは、さながら残された子供のような頼りない声で、各々、彼女が消えた空間へ向かってつぶやいた。




