3 エン・顕現②
もちろんです。
言おうとした、その刹那。
けたたましい音が鳴った。
スラックスの右ポケットに入れていた、スマホの着信音だった。
舌打ちする気分でマドカは、相手の確認だけして消音をするつもりで、ポケットからスマホを取り出した。
『ザ……ザザザ……九条!……ザ……』
別に応答したわけでもないのに、電話口で誰かが絶叫している。
ザリザリと耳障りな雑音の入った割れた声は、かろうじて男の声だとわかる程度に聞き苦しかった。
『そこは…何処……ザザ……だ? 目の…ザザ…前にいるのは…ザザザ、誰、だ?』
「は?」
一瞬、間違い電話かと思ったが、相手はさっき『九条』と呼びかけてきた。
『君…ザ…ザ…は目がいい……ザザ…ザ…筈だ、……ザ…よくよく……ザザ…目を見開いて、周りと、相手を見る…ザ……ザザ…んだ!』
(……目を見開いて?)
どこかで誰かから聞いた言葉。
深い意味のあるニュアンスで、言われた、ような。
「は? あんた誰? さっきから何言ってるの?」
『……よくよく、目を、見開け!』
電話の主は最後にそう絶叫し……、プツン、と電話は切れた。
「九条君? どうしたの?」
もの問いたげな声にマドカは顔を上げ……息を呑む。
そこにいたのは『さっちゃん先輩』の筈だ。
筈、だった。
「え?」
違う。
そもそも、コレは人間なのか?
マドカのブレザーを身体?に巻き付け、巨木にもたれかかっているコレは……。
「ねえ」
甘やかな声が言う。
「私のパートナーに、なってくれる?」
九条君。
笑みを含んだ優しげな声。
幾重にも折り重なり、厚みや重みさえ感じさせる影、のごときものが。
マドカを捕らえようというのだろうか、腕のようなものを伸ばしてゆうらりと近付いてくる。
また、巨木からシュルシュルと音を立て、つる草のつるを思わせる黒っぽい何かか地を這い、マドカの足首に絡みついてもきた。
「うわっ」
絡みつかれた刹那、性的な快感に近いものが電撃のように走ったが、快楽に溺れるより前に、強烈な嫌悪と恐怖が勝った。
マドカは反射的に足をめちゃくちゃに振り、つる草を振りほどく。
「そばにいるって、言ってくれたのに」
恨みがましい声に、マドカはギクッと顔を上げた。
マドカのブレザーを大事そうに巻き付けながら、影の塊がすり寄ってくる。
「嘘つき。……逃がさないんだから!」
「う…うわああああ!」
絶叫し、マドカは脱兎のごとく逃げ出す。
走る。走る。走る。
空は夕映えに染まり、どこまでも真っ赤だ。
走る。走る。走る。
不思議と疲れないし、息も切れない。
眼前に広がる景色は、一面の黄色いチューリップ畑。
幼稚園入園式の日に見た黄色のチューリップの群れを、彼はふと思い出す。
一面の黄色いチューリップが、瞬きの間に何故か真紅へ変わる。
恐怖に一瞬、立ち止まる。
鮮血のような真紅。あまりにも美しい。
ぞわ、と背筋が寒くなる。チューリップから目をそむけ、彼は再び走り始めた。
走る。走る。走る。
さすがに息苦しくなってきた。
眼前に広がるのは、あきれるほど巨大な、だけど浅そうな人造の池。
赤い和金がすいすいと、何百匹も楽しそうに泳いでいる。
小学校の池にいた、皆が忘れてしまった可哀相な金魚たちのことを、彼はふと思い出す。
次の瞬間、金魚はすべて、青黒い甲羅のクサガメに変わった。
思わず足を止める。
「あ、あ、あ、ああ…ああああ」
彼の口から意味をなさない声が漏れる。
ああ、わかった。今わかった。
ここは、バグの生まれる場所なのだ!
『九条…く…ん……九条く……ん……』
ヒイッと息を引き込む。
振り返ることも出来ない。
あれはさっちゃん先輩の声。
だけど、さっちゃん先輩ではないモノの声。
(……食われる。間違いなく、食われる!)
本能的な恐怖に、マドカは再び走り出す。
本物の彼女は何処へ行った?
そもそもさっちゃん先輩は無事なのか?
いったいいつ何処で、自分はこの悪夢――バグに捕らわれた?
クラブハウスへ行くまでは、いつもと同じだった筈。
では、クラブハウスでのあの出来事は?
角野がさっちゃん先輩を襲っていたのは、現実なのか? それとも悪夢なのか?
いつしか景色は、延々と続く一本道になっていた。
道の果ては地平線、真っ赤な夕映えが広がっている。
そして他には何もない。
時折、思い出したように黒いつる草が伸びてきて、からかうようにマドカの足首に絡まる。
瞬間的な快感に、足が止まりそうになるが、振り切る。
意味不明とか訳が分からないとか、そんなレベルはとっくに超えていた。
足元から這い上ってくる生理的な快楽と恐怖を、振りほどくようにただひたすら、彼は駆ける。
諦めたりほだされたりすれば、たちまちあの得体のしれない影の化け物に食らいつくされるのが、本能でわかる。
足をもつれさせながらも彼は駆け続ける。
息が切れて目がかすむ。
カッターシャツはすでに汗だくだ。
制服のスラックスが汗で脚にまとわりついてくるのも不快だし、ローファーの底が時々滑って転びそうにもなるが、止まる訳にはいかない。
一本道の果ては地平線。
いつまでたってもそこは、気味が悪いほど美しい夕映えだった。
まるで書き割りの絵のような。
もはやここがどこなのかわからない。
ハッと気付くと、いつの間にか狭い路地の果てにある袋小路に追い立てられていたことだけは、足を止めた一瞬後、彼は理解した。
『……九条…く…ん……九条く……ん』
何処かしら甘やかな、官能的ですらある低い声が、後ろから何度も呼びかけてくる。
「……さ、さっちゃん…先輩」
憧れ、だった先輩。
だけど。
違う。
コレは、違う!
「く、来るなあああ!」
お前は違う。違う!
本物の彼女を、返せ!!




