第77話 アルネストへ忍び寄る影
人々が寝静まり、暗い夜空に星が瞬く時間帯。
虫たちの声だけが響くアルネストの入口付近へ、人影が一つ近付いていた。
――シーシャ・アンディルバルトだ。
彼女は闇夜に溶け込む黒い服を着込み、音もなくアルネストへと舞い戻っていた。
頬を、少し冷たい風が撫でる。この季節に吹く夜風にしては、やけに冷たく感じられた。
「もうずいぶん昔な気がする」
誰に言うでもなく、シーシャはつぶやいた。
否応なく湧いてくる郷愁のようなものを押し殺すため、腰に提げた愛刀の柄に触って気持ちを落ち着かせる。戻ったのではない、仕事をしにきただけ――シーシャはざわめく心へ必死に言い聞かせる。
そのままほとんど音を立てることなく、アルネストの入口の前に立った。町は暗く、人気もない。まるで誰もいないようにすら思えた。それでもシーシャの目には、その懐かしい風景が鮮明に思い出されるようだった。
「来たね」
入り口の門を支える頼りない柱の陰から、何者かが出てきた。
この深夜に、普通なら人が起きているわけがない。
「…………ムコルタ」
「何日か見ないうちに、すっかり辛気臭い顔になったねぇ」
現れた人物の名を、シーシャは噛み締めるように言った。それに応じてムコルタは、吐き捨てるように表情を歪めている。
シーシャはすでに夜目を利かせているため、ムコルタの姿がよく見えた。彼女はいつもとは違う、物々しい格好をしていた。
かなり年季の入っている革の鎧を全身に身に着け、長大な薙刀を持っていた。いつもなら曲がっているその背筋はピンと伸び、精悍さを醸し出していた。
今のムコルタは、盟友ルカ・オルカルバラと共に戦場を駆けた姿そのものだった。
「ワタシを殺しに来たんだろ?」
「…………」
「わかってるよ、シーシャ。アンタのことは色々と調べさせてもらったからね。今の立場も状況も、これまでの成り行きも、ね」
ムコルタはアルネストの入口門、その中央に陣取るように仁王立ちしている。
対するシーシャは、黙ってその様子を見守っていた。
「今アンタがなにを思っているのかは、はっきりとはわからない。でもね、こう見えてワタシも無駄に長生きしてきちまった身さ。アンタがここで過ごし、感じていたのが喜びだったってのは、はっきりとわかる。アルネストで過ごしていたアンタは、見るからに幸せそうだった」
「…………」
「シーシャ、お前はここに戻るべきだ。それがアンタの幸せなんだよ」
「……ムコルタ、もう言わないで」
「いいや、言いたいことは言わせてもらうよ。……なにせ、これが最後になるかもしれないんだからね。年寄りってのは、おせっかいなもんなのさ」
そこまで聞き、シーシャは武器の柄に再び手を伸ばした。
ムコルタが一瞬だけ悲しそうな顔をするが、すぐに表情を引き締めた。
「はぁ。ワタシとしたことが、本当に鈍っちまってイヤになる。昔なら、痕跡など残すことなく諜報活動ぐらいこなせていたのに……こんなことで、ルカ様に迷惑をかけるわけにはいかないねぇ」
ムコルタは腕を下げ、グレイブを両手で握った。
「そもそも、アンタをここに招き入れたのもワタシだ。その責任も取らなくっちゃならないしね」
「……ムコルタ」
「ワタシはワタシが今やるべきことをやる。アンタもアンタがやるべきことをやるだけだろうさ。ただ……この後は、アンタが幸せになる道が、どこかにあるといいね」
「…………ありがとう」
言葉と小さな笑みを交わし合った二人は、同時に腰を低くした。
武器を構え、一瞬の静寂。
――そこで再び、夜風が吹き抜けた。
「「――――ッ!」」
交差する両者。
勝負は、刹那で決した。
「…………シーシャ、アンタ……強い、ねぇ」
「…………」
腹を裂かれ、血を噴き出したムコルタが、その場に頽れた。
◇◇◇
「もう深夜になっちまったなぁ」
俺はアルネストへと黙々と走り続ける魔法馬車の中、独り言ちた。
隣と正面の席では、ヒロカちゃんとヴィヴィアンヌさんがすーすーと寝息を立てている。
俺は少し前に寝入ってしまっていたせいか、今はあまり眠くなかった。
馬車の小窓から、夜空の星を眺めている。
と、そこで馬車が停まった。
「……ん、んぎぎ、ふわぁーあ……あー、そろそろ着いたかのう」
「ヴィヴィさん」
ヴィヴィさんが反応して起き、のそりと身を起こす。魔法馬車はヴィヴィさんの調整によって、ここまで御者なしで自動で走ってくれるようになっていた。マジで便利、魔法馬車!
深夜にはなってしまったが、おかげで通常より早くアルネストに帰ってくることができた。本当にありがたいことである。
馬車から降りると、虫の声がうるさい。この季節の風物詩だ。
アルネストの入口までは、まだ少し距離があった。
「……ん? これって……血の匂い?」
が、少しすると、鼻に違和感が。
――強烈な、血生臭さだ。
どうして、のどかで平和なアルネストで、こんな臭いがする?
この類の臭いがするのは、冒険者総出で大量の魔物を狩る大規模作戦のときぐらいだ。そんな依頼、一切入っていなかったはず。
俺は妙な不安に襲われ、急ぎ足でアルネストの入口へと駆けた。
闇夜に目が慣れ、夜目が利いてくる。
見慣れた門に、少しだけ心が安心してくる。
が。
「――――ッ!?」
辿り着いた先、目に飛び込んできたのは。
――血まみれで門柱にもたれる、ムコルタさんだった。




