第68話 組織の掟
「…………」
ひた、と天井から垂れた水滴が、髪に落ちて冷たさが伝わる。
シーシャはゆっくりと瞼を開け、息を吸う。どうやら気を失っていたらしい。
少し身体を動かすと、天井からぶら下がった手錠が手首に食い込み、鈍い痛みが走った。
もう一度呼吸すると、地下特有の湿り気のある空気が、鼻孔を通って肺に満ちる。ここは以前から拷問などで使われていた部屋なのか、妙な血生臭さを感じた。
気を失う前と同じく、魔解石で作られた重たい足枷もそこにあった。衣服は度重なる鞭によって、ほとんど布切れのように身体にまとわりついているだけになっていた。
「やあシーシャ、起きたか。可愛い可愛い、俺の娘よ」
「…………」
特徴も抑揚もない平坦な男の声に反応し、シーシャは俯いていた顔を少しだけ上げた。
ようやく意識がはっきりしてきた頭で認識したのは――無機質な鉄仮面。
顔全体を覆い尽くす鉛色の仮面で、装着者の表情を窺うことは不可能だ。薄暗い地下室の中、目元の穴から覗くやけに鋭い眼光だけがシーシャを射抜いていた。
その不気味で威圧的な容貌は、見る者に悪寒のような畏怖を与えてくる。
「この数年、お前のことを探していたよ。まさか、あんな辺境でギルドの職員になっていたとは。ギルドはウチに負けず劣らず大きい組織だ、隠れ蓑にするにはちょうどいい。木を隠すなら森に、というわけかな。なかなか見つけるのに時間がかかったよ」
ただ連絡事項を述べるかのように、淡々と語って聞かせてくる鉄仮面。
「少し前にアルネストの仕入れを担当していた末端がな、お前に気が付いたんだ。ソイツの情報提供がなかったら、まだまだ時間はかかっていたかもしれない。ヤツには感謝だよ、本当に。あぁそうそう、ソイツにな、お前のギルドの制服姿をさ、絵に描かせたんだ。売れない画家志望だったらしくてな」
「…………」
言って鉄仮面は、部屋の隅に置かれた棚の引き出しを開け、一枚の絵を取り出した。そこには繊細なタッチで、シーシャのギルドでの制服姿が描き出されていた。胸から上だけのバストアップではあるが、着色してあり完成度は高いように見受けられた。
「どうだ、なかなかだろう? この辺りの色使いなんて大したものだよ。俺もこれを見たときは、お前がキレイになっていて嬉しくなったもんさ。……でもな、こんなに美しいお前の姿を、末端の分際で俺より先に見たんだと思ったら、だんだんと腹が立ってきてな。だから目を抉り出してやった」
「…………」
「その後、勝手に自殺したらしい。『目がないんじゃもう絵が描けない』って絶望していたそうだ。ま、これがヤツの遺作ってわけだな。それを俺が持っているなんて、なんだか感慨深いよ」
支離滅裂な話を、一切感情を滲ませず話す首領。そう、この男はあらゆる手段で恐怖を与え、相手を支配しようとする――シーシャは首領の語る凄絶な手口に、未だに組織はこの仮面の男の完全支配下にあるのだと痛感した。
「そういう経緯で、ようやくお前を見つけたんだ。俺はな、あの頃と変わらずずっとお前を求めていたんだ。お前ほどウチの仕事を上手くこなせるやつは、俺を置いてそういないからな」
「…………」
「本当に、また会えて嬉しいんだよシーシャ、俺の娘。こう見えてもな、かなり感動しているんだ。お前がしっかりと仕事をこなして、組織に戻って来てくれたことに」
それならば、なぜわたしを地下に閉じ込め、肉体的苦痛を与えているのか――シーシャは黙ったまま、鉄仮面を睨んだ。
「はは、いい眼をするじゃないか。それでこそ俺の娘だ。お前にこんなことをしているのは、言わば組織としてのケジメってやつだよ。いくら俺の娘でも、勝手に組織を抜けてのうのうと生きていた人間を不問では戻せない。それじゃ、他へ示しがつかないからな」
シーシャのように組織を脱した者の末路は本来、若き画家と同じようなものであるのは想像に難くない。組織の論理――いや、目の前の男の論理で言えば、十分に情状酌量を与えられているというわけだ。
「ただ、そろそろこの時間も終わりだ。お前は戻るための依頼を、しっかりとこなしてくれたからな。あの標的は、ウチの長年のクライアントからの仕事だった。先方もかなり喜んでいたよ」
「…………」
そこでシーシャは、ダイトラスでの月夜を思い出す。最後に見たヒロカの戸惑いの表情が、冷たく閉ざそうと努めていた心を揺らす。
「シーシャ、もっと何か語ってくれてもいいんだぞ? 俺はもっと打ち解けたいんだからな。まぁお前は元々、口数が多いタイプではなかったか」
「…………」
「変に口が軽い女になるよりはいいとしようか。俺はペラペラと節操なくしゃべる女は大嫌いだ。舌を斬り刻んでやりたくなる。さて」
ひとしきり言い終えると、仮面の男は再び棚に近寄り、なにやら鉄の棒のような物を持ちだしてきた。
「今組織の者は、全員この印を身体に焼き付けるようにしているんだ。お前には俺が直々に押してやるからな」
「…………」
鉄仮面は掌から火を出し、それによってを鉄の棒――焼き印を熱しはじめた。
瞬時に熱された鉄が、濛々と煙を出しはじめる。
「シーシャ、おかえり」
鉄仮面はそう言い、シーシャの露出していたへその脇辺りに――焼き印を押し付けた。
ジュ、と肉の焼ける音がする。
「ん…………ぅッ」
「はは、さすがのお前も声が漏れるか。たまらないな」
シーシャの苦痛に歪む顔を、嗜虐的な色を含んだ瞳で見つめる鉄仮面。
白く細いウエストに、禍々しく痛々しい刻印が残った。
「よし、これでお前は晴れて組織に戻ったわけだ。これからは俺の手足となってたくさん活躍してくれよ」
「…………」
そこではじめて、男は妙に嬉しそうな声を上げた。
「一応言っておくと、アルネストには引き続き監視の目を光らせている。聡いお前のことだ、変な気など毛頭起こす気もないだろうが」
「アルネストに、手を出す、な…………」
最後の気力でシーシャは言い、再び気を失った。




