第61話 追跡の先で
皆が寝静まったダイトラス王国城塞の裏路地を、ディルビリア・ビスチェルは夢心地のような気分で駆けていた。足に絡まるドレスのスカートは、城を出てすぐに引き裂いてある。闇夜に踊る白く艶っぽい生足が、黄泉を彷徨う亡霊のようにも見えた。
「フフフ……フフ、フハハハ!」
不気味な笑い声が、辺りの静寂を破る。
ディルビリアは絵に描いたような哄笑を、止めることができないでいた。数年間を費やし、思い描いた混迷への脚本を、今宵ようやく完成させることができた興奮ゆえの笑みだった。
「魔王様……魔王様ッ! ワタクシが作り出した混沌に染まった魔元素を、その御身で感じ取ってくれていますでしょうか? この国でできることはし尽くしましたゆえ、次なる人の集積地にてさらなる混沌を生み出してみせましょう!」
飛び跳ねるように走りながら、嬉々として独り言を垂れ流すディルビリア。恍惚とした表情のまま、片手で自らの下半身を弄っている。
「あぁ、魔王様……愛しき魔王さまぁぁ! ワタクシめはあなた様の奴隷、これからもあらゆる地にて混沌と怨嗟を生み出し、その御身への供物として捧げ続けることを誓いますッ!! だからこの穢れ抜いた我が身を、極楽へ導き快楽の坩堝へと誘ってくださいましぃぃ!!」
夜深い時間とは言え、人目も憚らず達したような声を上げるディルビリア。その場で膝から崩れ落ちるように身震いすると、その場にへたり込んだ。半開きになった口の端から、唾液が流れ落ちている。
「ヒヒ……フヒヒ……ぎ、ぎもぢぃぃ…………」
壁にもたれ、愉悦に咽び泣くディルビリア。そこにはこれまで築いてきた宰相としての権威も品格も、もはや一切なかった。
「…………ん?」
そこで、じり、と砂利を踏む音がディルビリアの耳に届いた。
意図してこっちに近付いてくるとは、どういう了見であろうか。
こんな時刻に出歩いている者など、深酒した酔っ払い、もしくはゴミ漁り中の浮浪者か……なんにせよ、色香に誘われて湧いた蛆虫に他ならないだろう。
ディルビリアは懐に隠していたナイフを握りしめ、立ち上がった。
見ると、真っ暗な路地の先に――人が立っていた。
月明かりに浮かぶシルエットを見る限り、予想に反してかなり身なりは良さそうだった。が、月を背に立っているせいで、顔は窺えない。
では、こいつは何者なのか――ディルビリアの警戒心が、一気に跳ね上がった。
「そこ、通してくださる? ワタクシ、先を急いでいますの」
念のため、宰相としての体裁を保った声音で言うディルビリア。が、引き裂かれたドレスと粘液にまみれた脚のせいで、どちらかと言えば仕事を終えたばかりの娼婦のように見えた。
「お前か。魔王の復活を謀る者」
「貴様、無礼なッ! 魔王様と呼べッ、この愚図ッ!!」
理性の鎧を脱ぎ、本能のままに快楽を貪った後だったためか、ディルビリアは人影の発した言葉に反射的に激怒する。彼女にとって、神に等しき存在である魔王を呼び捨てにするなど、この世にあるまじき言語道断であった。
「そうか。今のが証拠でいいな。じゃあ死ね」
「あぁ鬱陶しいッ! なんだっての、このクソ女!!」
ディルビリアは影の発する声を聞き、ヒステリックにそう叫んだ。人影の発する声は女性のものであり、彼女は行く手を阻む闖入者を同性と判断したのだった。
――ならば力ずくで口元に齧りついて、醜い豚顔のオークにしてやるッ!!
状況を把握し即断したディルビリアは、ナイフを眼前に構え、口の涎を拭うことすらせず影へとその牙を向けた。
――が。
「あ……え……?」
次の瞬間。
ディルビリアの眼には路地裏の薄汚れた地面と自分の身体の首から下が映っていた。
彼女の首は、蹴られた石のように道端へ転がったのだった。
◇◇◇
「はっ……はっ……!」
私は暗いダイトラス王国の道を、スキルを駆使して走っていた。さらにギフトも全開にして、あの女の人の痕跡を追っていた。
絶対にあのディルビリアって人を、逃がしちゃいけない。
何が目的なのかはわからないけれど、エデンダルト王子のように深く傷つく人を、私はもう見たくないから。
「いた!」
道を曲がり、さらに暗い路地裏に入ると、ようやくディルビリアの背中が見えた。『空気を読む』ギフトの恩恵で、私は暗い中でも比較的夜目が利く。
狭い一本道の路地裏には、彼女が発していたキツい芳香が充満していた。そこへさらに汗や埃っぽさ、ゴミかなにかの腐臭が混じって、かなり不快な臭いとなっていた。少し頭がクラクラする。
「…………!?」
よく見ると彼女の目先には、誰かが立っているようだった。その姿はディルビリアの背に重なってしまっていて、さすがにここからじゃ視認できない。
「っ!? 逃げてッ!!」
が、次の瞬間ディルビリアが、その人へ向けてナイフを突き出そうとしたのがわかった。この距離じゃ間に合わないと悟った私は、思わず叫ぶ。
「え……!?」
しかし瞬きの後、私は自分の目に映った光景に、愕然とした。
ディルビリアが、首を斬られて死んだのだ。
「――――」
「ま、待って!!」
何も言わずその場を去る人影。脚を動かし目を凝らし、その姿を確認しようとするが……忽然と、その姿は闇に紛れるようにして消えてしまった。
「はぁ……はぁ……いったい、なにがどうなって……」
事態が飲み込めない私は、肩で息をしながら今しがたの情景を必死で思い出そうとする。今のはいったい誰? 言うなれば、正体不明の……暗殺者?
「……よく思い出して、ヒロカ。今の一瞬で確認できたのは……」
頭を振り、眼を閉じてその姿を思い返す。
少し背が高く、華奢で女性的な体つき、髪はショートカットで、一瞬だけ目が合った。その目元はキリっとしていて、いかにもクールな雰囲気で……。
まさか――
「シーシャ……さん?」
――自分の口から意図せず零れた名前に、私は凍えるような寒気を感じた。




