第143話 人の業
「――はい、かしこまりました」
ザイルイルの口から出た言葉を受け、フィズはいつもと変わらぬ微笑みをたたえ、頷いた。
フィズが、俺を殺す。
……ただ言葉が耳に入ってきただけで、その意味するところをきちんと受け止めることは、到底できなかった。
どこからか取り出したナイフを両手で握って、フィズはこちらに向かって歩き出した。貼り付けたような笑みのままで刃物を正面に構え、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「フィズ! やめるのだ!!」
「イルミナ、いい! 止めるな!」
「し、しかしっ!」
状況を見て取ったイルミナが、フィズを止めようと動く。
だが俺は、その行動を制止する。
フィズはおそらく、ザイルイルの命令には従わざるを得ない。そんな彼女を無理矢理に止めたり、命令行動を阻止したりしてしまったら、彼女に悪影響が及ぶかもしれない。
だからと言って黙って死ぬつもりもないが、まずは状況を注視しなければ。
そんな思考をしながら見ていると、フィズは正面にナイフを構えたまま、目の前まで進んできた。
「ユーキさん。死んでください」
「……はは、フィズには似合わない台詞だ」
微笑みを消し、少しだけ真面目な雰囲気に表情を変え、ナイフを煌めかせてみせるフィズ。
……そんな風にしたところで、全然怖くないぞ。
血濡れで凶器を持っても、威圧的な表情をしたとしても。
幼く見える小柄な姿と、人好きのする愛くるしさを感じさせる顔の造形が、どうしたってフィズを可愛らしい存在として認識させる。
……フィズ、みんな、お前が好きなんだよ。
「ナイフを、刺します」
立ち止まり、一度深呼吸してからわざわざ宣言するフィズ。
俺は思わず笑ってしまいそうになるが、なんとかこらえる。
ナイフが、胸に迫る。
「フィズ! くっ、ユーキ! こんなことさせるべきではない!!」
「いい、大丈夫だ」
再び叫んだイルミナを制し、全身に力を込める。
「……!」
「痛……ぅっ」
フィズの握った刃が、俺の胸に突き刺さった。
肌を破られた痛みのあと、血液が暴れ出したように熱くなりはじめる。
傷口から、どくどくと脈打ちながら血が垂れ落ちる。
「……ふぅ!」
「ぅ……ぐ……」
フィズが力み、徐々に刃が食い込んでくる。痛みが増し、自分の肉が裂かれていくのがやけにはっきり分かる。
熱く赤い血液が、容赦なく流れ出ていく。
「ぶふぉ、ふほぉぉっ!?」
「ほほ、ヒロカさん見えますか? あなたの大切なユーキさんが、生き返ったフィズによって殺されようとしていますよぉ!」
「はふぅぅ! ふ、ふほぉぉ!」
口腔内に蝋燭を含まされたまま、ヒロカちゃんは何かを叫んでいた。
フィズを止めようとする言葉なのか、それとも俺へ向けた言葉なのか。
ただ分かるのは、彼女が深く苦しみ、悲しんでいるということだった。
「ほっほっほ! あまり興奮してはいけませんよぉヒロカさん。唾液が出て蝋燭を溶かしてしまいますからねぇ、毒で身体をダメにしてしまっては、せっかくの御身が台無しですので!」
「ぼふぉぉ、ふぼぉぉ……!」
ヒロカちゃんの瞳から、大粒の涙が零れ落ちている。
俺はナイフの痛みと失血で気が遠くなりながらも、ザイルイルへの怒りを糧とし、なんとか全身を奮い立たせていた。
――アイツを、殺す。
「あふぁぁぁ……!!」
「ぬほほほ! ヒロカさん、辛いですか、悲しいですか、心が壊れそうですか!? ほほそうですかそうですか、いやはや効果てきめんですねぇ!! ヒロカさんの心が、木っ端みじんに砕けていくのが手を取るようにわかりますよぉぉ!」
「ユーキ、さん……はやく……死ん、で……!」
「ぐ、ぅぅ……!」
フィズの最後の力みにより、ナイフの刃渡が全て自分の体内に入り込んだ。痛みより身体に何かが捻じ込まれた異物感を、強く感じていた。
喉の奥から、鉄の味がせり上がってくる。
「がはッ!」
吐血。
視界が揺らぎ、気が付くと俺は倒れていた。
世界が、横になって見える。
「ふぇんへぇぇッ!!」
「ほっほっほ! ヒロカさん見てください、あなたの大切なあの男が、そろそろ死にますよぉ、しかも、あなたの友人であるフィズ・イグナシアの手によってねぇぇ! どうですか、心が痛みますか!? 痛みますよねぇぇ、そうですよねぇぇ!!」
「へぶぇ……へふべぁぁ…………!」
薄れていく視界の中で、興奮してせせら笑うザイルイル。
一方のヒロカちゃんが、再び失神したのが見えた。
完全に脱力し、倒れる。
く……俺までぶっ倒れてる、場合じゃないのに……!
「……ザ、ザイルイル様の教えを守り、わたくしは……」
「…………」
「わたくしは、ユーキ、ユユ、ユーキ、さんを……」
そこで、傍に立っていたフィズの身体が小刻みに震えだす。そして、なにかに抗うかのように、自分の頭をかき乱しはじめた。
「フィズ……俺は、大丈夫……だから……」
「……ッ! ユーキさん……!」
なにがきっかけかはわからないが、ザイルイルの命令の強制力が解けたのだろうか? フィズが俺に寄って来て、上半身を起こすようにして支えてくれた。その眼にはあろうことか、涙が浮かんでいる。
「ユーキさん……わたくし……」
「いい、いいんだフィズ。仕方なかったんだから」
「…………!」
フィズは泣きながら、俺の顔を見て歯を食いしばった。
ふと、魔力の流れを感じる。
まさか。
フィズが、俺に回復魔法を――
「勝手な真似は、お仕置きですと教えたはずですよぉぉ?」
「ひっ!?」
ザイルイル大司教が、フィズのすぐ後ろに立っていた。
俺の全細胞がその瞬間、燃え上がった。
そして――動いた。
「死ねぇ、ザイルイルッ!!」
「ぬぅお!?」
なけなしの魔力でヤツの目に『魔眼』を叩き込み、自分の胸から引き抜いたナイフを、そのでっぷりと肥えた腹目掛けて投げ込んだ。
「ぎゃあああああああ!!」
ザイルイルの甲高く醜い悲鳴が、洞窟内で反響した。




