恩の章 8
昭和六年。
四月の終わりに生まれた赤子は男児だった。
一郎と名付けられた赤子は、月足らずで生まれたと思えないほど丸々として健康そのものだ。海城の当主によく似て、からだが大きく育つだろうと皆は言った。
母屋の庭には、真新しい大きな鯉のぼりが掲げられた。恩たちの表座敷からは、鯉の尾が時おり風にひらめいて見えた。
海城家は、世継ぎの出生を祝い、大きな宴を開いた。
町の名士たちばかりではなく、取引をしている東京の会社社長まで呼んで三日に分けてもてなす、盛大なものだった。
母屋のほうからは、賑やかな歌や手拍子が聞こえてくる。廊下からは食器がぶつかる音がする。
壁で隔てられた廊下へ出たなら、酒やたばこのにおいもしただろう。
恩と糸穂は、宴会にはよばれなかった。
ただ表座敷にいることは許された。もしも客人が間違って迷いこんだときに不審に思われないよう、ふたりとも極上の着物を着せられた。
ふだん、青い着物ばかりの糸穂が、明るい桜色の召し物をまとっている。恩は赤というよりは落ち着いたえんじ色に蓮の花が描かれた艶やかな着物を着付けられた。
表座敷に、宴会と同じ料理が並べられた。
鯛の尾頭付きは言うに及ばず、生の雲丹、あわびの焼き物、なまこの酢の物。山のものは、猪のぼたん鍋も添えられた。
床の間には花が生けられ、髪を結い上げられた糸穂と恩にも、造花で飾られた。
恩はそんな糸穂を美しいと思った。
恩と糸穂は、座敷の庭に面した縁側の戸を開けて並んで座った。
「お祝いの日が晴れでよかった」
糸穂の穏やかな声は恩の胸を静かに締め付けた。それでも、海城にとってめでたいことなのだと思うことにした。
「食べましょうか。お菓子も果物もあるから」
恩は糸穂の手の甲を人差し指で、ぽつんと叩いた。糸穂は恩の手をそっと握った。相変わらず冷たくはあったが、恩は握り返した。
二人がたちあがり、膳の前に座ると座敷の襖が開けられた。
「邪魔する」
恩が振り返ると、寒川がいた。相変わらず徳利のセーターに長目のコートを羽織っている。思わず立ち上がる恩を手で制した。
「立たなくていい。食べてくれ。向こうは騒がし過ぎて耳が変になる」
寒川は眉間に皺を寄せ、両手で頭をもんだ。男性にしては長い髪が、もみくちゃになり恩は笑った。
「恩、よく勤めを果たしているようだな」
恩は笑顔のままうつむくと、自然と涙が込み上げてきた。
「おまえは賢い。読み書きも短い間に覚えたと旦那さまが褒めていた」
あふれる涙を恩は手で押さえた。寒川は手拭いを恩に渡し肩を抱いた。
「五月になっても火鉢が手放せない。きっとおまえが聞いてきたとおり、冷夏になる。食べ物が不足し、世の中は混乱するだろう」
寒川の言葉のひとつひとつには、実感がこもっていた。言葉に重みがあるように感じられ、恩の中に積もっていく。
「ただ、さらなる出来事があるように思う。こんな祝いの場で言うのはなんだが、早めに御囲部屋に入ってやつらの声を聞け」
寒川は恩の耳にささやくと、恩を体から離し両肩に手を置いて恩を見つめた。
――いま? 部屋に入る?
「今だ」
寒川の目は、恩の体に氷の矢を刺すほどの冷たさがあった。
「寒川さま、そんな。今日くらい恩を休ませてあげてください」
糸穂の懇願を恩は立ち上がることで拒んだ。恩の衣擦れの音に糸穂が頭を振り、従う。
糸穂は、御囲部屋の重い襖に手をかけて開けた。恩はもう、いざることなく部屋の中央へ進むと正座し彼らを待った。
どれくらいの時間が過ぎたか。
恩が部屋からでると、表座敷には灯りがともっていた。
「聞けたか」
寒川は座布団から立ち上がり、恩へ尋ねた。
恩はうなずき、糸穂が差し出した筆をとると紙に文字を書いた。
九月十八日。
銃声。
寒川は紙を見つめると、小さく喉を鳴らした。




