第十二話 グリーンアイズ
近くの公衆便所で用を足していたニコラだったが、外が妙に騒がしいのが気になってすぐに戻ろうと思ったが、一度出している間は止められず、すっきりともどかしさを同時に感じていた。
用足しがようやく終わり、騒ぎの元と思われるカフェに戻ろうとするも、人だかりが出来ており、それらの人垣をかき分けて進むと、連れの少女二人が帯剣した如何にもガラの悪そうな男共に囲まれている光景に出くわして頭痛を覚えた。この世界に迷い込んでからどうしてこう面倒事に巻き込まれるのか。
居るかどうか分からない神にボヤいた所で事態が改善されるわけでは無いが、当事者としてはうんざりする気持ちでいっぱいだ。
しかしいつまでも嘆いているわけにもいかず、囲んでいる男の中で一番偉そうにしている16~17歳の身なりの良い赤髪の若造に話しかける。
「俺の連れに何か用か?こんな何人もの男に囲われる謂われは無いはずだが」
「おい貴様、エドガー様に何と無礼な物言いだ!この方はポワレ家の御曹司なのだぞっ!」
「まあ待てドナルド。こんな下郎に礼節を説くなど無駄と思わないか?下賤な者にはそれなりに合わせてやるのが高貴な者の務めだぞ」
いきり立つ羊人の護衛を宥めるように見せかけて、実の所このエドガーという男はニコラを完全に見下している。いや、どちらかと言えば自分が偉いと思い込んでいるから、この場に居る者全てが格下に見えるのだろう。
エドガーはニコラを見上げる形で見下すと、一つの提案を持ちかける。正確には命令と言った方が良いが。
「お前の連れという少女だが、今から私の物になった。これは幸福な事だぞ。お前のような下賤な男が傍にいるより余程良い暮らしを与えてやれる」
言っている意味が分からない。いや、何を言わんとするかは何となく分かるが、どうしてそんな結論になったのか、その過程がさっぱり分からない。これはアレか、大昔の映画で金持ちや馬鹿貴族がヒロインを強引に手籠めにしようとしているシーンか何かと同じで、二人の美貌を一目で気に入って愛人になれと迫っていると見ていいのだろうか?
混乱するニコラが二人に視線を送ると、セレンは何が何だかわからないという顔をして、ジゼルの方は能面のような無表情を貫いている。
説明の無い茶番劇にうんざりしていると、手下の馬人がニコラの手に革袋を握らせた。ずしりと重く、動かすとジャリと音がする事から貨幣か何かだろう。
「それは私からのせめてもの餞別だ。それでお前に合う別の女でも買うといい」
馬鹿とは生まれと身分問わず居るものだと、ニコラは生まれて初めて実感した。そしてギルスの兵士がエルフの村を襲った時と同等の憤怒を抱きながら、それでいて頭はいつになく冷静に、自分の行動をどこまでも客観的に捉えられる二度目の感覚を味わっていた。
じっと革袋を眺めるニコラをエドガーの手下達は馬鹿にしたようにニヤニヤ嘲りながらも、内心では冷静に目の前の大男を観察していた。彼等も男の方が黙って女を差し出すとは思っていない。何度も抵抗する男を数と腰の剣で黙らせてきた経験から、きっと今回も力の限り抵抗するに違いないと確信していた。相手は大男だが丸腰、囲んでしまえば武器を持つ自分達が負けるはずがない。
彼等も白昼堂々こんな強引な人攫いのような行為はやりたくなかったが、雇われた以上は雇用主に逆らえない。金と権力に物を言わせるクズでしかないと思っていても、ゴロツキでしかない自分達に高い給料を払ってくれる飼い主は大事にしたかった。
一触即発があると踏んでいた手下達とは違い、エドガーの方は呑気にしている。自分に逆らえるような者などこの世に一人も居ないと信じて疑わない若造は既に、自分の物となった二人の美しい少女達をどうやって味わうかしか考えていない。それこそこの場で安っぽいドレスを剥ぎ取って組み敷いて、男の前で鳴かせてやってもいいと思っている。
特に褐色肌のエルフなど生まれて初めて見るのだ。精々可愛がってやるのが選ばれた人間である自分の使命である。だがその前に、無表情ながら瞳の奥底では、自分を路端の犬の糞のように蔑むもう一人の黒髪の少女のほうが気になる。
服装は平民が着るようなさして質の良い物ではなく、修道女のように髪を短くしているので、どの宗派かは分からないが、おそらくこの街の尼僧見習いか何かだろう。それなら珍しくもないし、今まで何度か領内の修道女を味わった事がある。だが、この黒髪の少女はそいつらとは何かが違う。あいつらは食うに困って聖職の道を選んだような乞食のような女ばかりだったが、無表情を繕いながら自分を蔑む視線を送る様は、どこか高貴な雰囲気を纏っている。エルフも初めてだが、今は未知の感覚を味合わせてくれる、こちらの少女の方が興味は大きかった。
興が乗ったエドガーはジゼルの後ろに回り込み、碌に労働や武器を扱った事の無いような女のように綺麗な手を肩に乗せる。
不快感から能面が僅かに揺らぎ、セレンが怒鳴ろうと息を吸うが、その前にニコラが溜息を吐きながら一言だけ呟いた。
「おい、これだけで足りると思っているのか?」
「なんだ、それでは足りないのか、意地汚い奴め。ならどれだけ欲しいんだ?望みの額をこの場で払ってやるぞ」
せっかくの楽しみを邪魔してくれた木偶の坊には怒りが湧いたが、むしろ男に売られた少女達の絶望する顔が見れたので、エドガーは機嫌が良くなる。それこそ今握らせている十倍の金を払った所で自分には小金だ。手下達も金で解決しそうだと分かり、なけなしの罪悪感を刺激されずに微妙に喜んでいる。
「お前の家なんぞ知った事じゃないが、お前の家の有り金全てと領地全てを合わせた価格の百万倍の金を積めば考えてやる」
これにはエドガーや手下達どころか周囲の野次馬達からも呆れた声と共に歓声が沸き上がる。この騒ぎの元凶であるエドガーの実家であるポワレ家はボルド帝国に編入されるまで独立した王家として君臨し、現在も領内のアダマンチウム鉱山を幾つも経営して帝国有数の資産を有している。
そんな由緒ある家の総資産の百万倍など、この大陸全てを差し出したところで確実に足りないだろう。そんな天文学的な金と少女二人とでは全く釣り合わない。仮にそれを知らなくとも、貴族の領地の百万倍の金など現実的ではない。つまりニコラは最初から二人を金で売るつもりなど無いのだ。
群衆は誰もがニコラの事を知っている。ほんの一月前に驚くべき戦いを見せて、今年の武術大会の優勝を手にして、既に騎士見習いとして帝国に仕えている。しかも風聞では鼻持ちならないギルス共和国からデウスマキナを二騎奪い取り、我がものとして同じギルスのデウスマキナを撃破した。そして美しいエルフの少女と恋仲にある。出来過ぎるほどに話題性のある、民衆にとってのヒーローだ。
そんな青年が金と権力で女を無理やり従わせるようなクズ貴族を真っ向から突っぱねた。これほど痛快で清々しい話は無い。
歓声を上げる民衆達とは反対に、エドガー達は面白くない。手下達は自分達が悪役なのは分かっているが、エドガー本人は自分が何故批難されるのかまるで分かっていない。彼の中では自分に抱かれて所有物になる事こそ世の女にとっての至上の幸福と信じて疑わない。だから周囲の声が理解出来ずにイラつき、元凶と思わしき生意気なニコラを黙らせたくなった。
「おいお前達、この木偶の坊を斬れ。斬った奴には今月の金は三倍やる」
「―――――わかりやした」
こんな白昼堂々刃傷沙汰など嫌にも程があるが命令なら仕方ない。最悪このボンクラの父親が何とかしてくれると思い、渋々手下達は剣を鞘から抜く。だがそれが彼等にとって不幸の始まりであった。
まったく警戒していなかったわけではないが相手は丸腰。しかも気乗りしない命令だった事からかなり油断していた。だから剣を手にした瞬間にもニコラの動きに付いていけなかった。
ニコラは一切躊躇う事無く、手近の椅子を掴むと一番近くにいた手下目掛けて薙いだ。手下は全く反応出来ずに左腕を砕かれながら吹き飛び、そのまま回転して反対側に立っていたもう一人の手下に、遠心力を利かせて半壊した椅子をぶつける。二人目は咄嗟に剣で防ごうとしたが、力任せの質量攻撃に対処しきれずに吹き飛ばされて、離れた席で成り行きを伺っていた男女のテーブルをひっくり返してお茶と菓子に埋もれた。
突然の凶行に周囲の思考が数秒停止したのをニコラは逃さず、残り三名の内、一番狼狽えている男にテーブルに置いてあったお茶入りの陶器のポットをぶちまけた。中身のお茶は熱湯に近く、まともに食らった手下は全身を火傷して絶叫しながらのた打ち回り、剣を取り落とす。これで残る手下は亜人二名。
ここまですれば流石に荒事に慣れた護衛はニコラを警戒して迂闊に近づこうとしない。ここでセレンやジゼルを人質に取る選択を選ばないのは意外だが、どうせやる事は変わらない。
但し問題は残る護衛の羊人と馬人がそれなりに手練れという事だろう。今倒した三人は明らかに格下ゆえに奇襲であっさり倒せたが、エドガーの傍に侍るあの二名はゴロツキと違い戦いを専門にしている節がある。イスやテーブルでは分が悪い。
せめてタクティカルアーマーを着ていればどうとでもなっただろうが、最近は訓練でも着用していなかったので、休日の今は尚更着ていない。今持っているのはサバイバルナイフぐらいだが、こちらが刃物を抜くのは後の言い訳のために出来る限りやりたくなかった。
考えている間にじりじりと間合いを詰めてくる亜人二名をどうするか迷う。こんな時に銃があれば近づく間もなく倒せるのだが。
「あーそういえばアレがあったな」
間の抜けた呟きに亜人達は胡乱げに目を細めるが、彼等が警戒を緩める事は無い。
習慣になっていたが、今の際まで存在を忘れていたもう一つの頼れる武器を腰のホルスターから引き抜き、両手で構えて引き金を引いた。
パンッ、パンッ。拍子抜けするほど軽い音が鳴ったと思えば、護衛の亜人が二名とも足を抑えて蹲る。足からは夥しい血が流れていた。
ニコラが存在を忘れつつも、毎日肌身離さずサバイバルナイフと共に持ち歩いていた自動式拳銃がこの窮地を救った。同時に硝煙の臭いが風に流れ、血の匂いと混ざり合い、かつて殺戮の限りを尽くしたエルフの森の記憶を思い起こす。
タクティカルアーマーと多目的ヘルメットの射撃補正も無く、二か月近く訓練をしていなかったが、身体に染みついた動作は嘘をつかず、狙いそのままに護衛の剣の間合いの遥か遠くから一方的に蹂躙する。これこそが銃の神髄である。
残る相手は一人だが、困った事にあの馬鹿のすぐ傍にはジゼルが居る。破れかぶれになって彼女を人質に取られたら厄介。かといって銃を使うのは失血死を招く可能性がある。流石に貴族の跡継ぎを殺してしまったら、こちらを擁護してもらえないだろう。
仕方が無いので銃を仕舞い、砕けた椅子の脚を拾って即席の棍棒として使う。
「手下は居なくなったが、貴族が逃げたら駄目だよな。ほら、掛かって来いよ。それとも女の影に隠れる玉無しなのかお前は?それなら生まれてきた事が間違いなほどに屑だな」
軽い挑発を入れて注意をこちらに向けさせるが、それすら脅えて震えるエドガーの耳には届かなかった。
「ひっ!よ、よるなっ!こ、この女がどうなっても良いのかッ!」
短剣をジゼルの首筋に突き付け、ニコラへの人質とする。一応想定していたがこれには参る。周囲の観衆も一斉にエドガーを恥知らずの卑怯者と罵るが、恐慌状態の男の耳には全く届いていなかった。
抜き差しならぬ状況。群衆の怒りと狂気。この異常な状況に置かれながら、しかしジゼルは取り乱す事は無い。寧ろ隣に座っていたセレンの方が狼狽してあたふたしている。
「――――いつまでそうやっているつもりですか?刺すのであれば迷わず一思いになさってはいかが?」
その言葉に周囲は静まり返る。恐慌状態だったエドガーでさえ我に返り、信じられないような物を見る目でジゼルを見下ろした。
「お、お前自分がどうなっているのか分かっているのかっ!お、脅しじゃないんだぞ!私が剣を突き刺せばお前はそのまま死ぬんだぞ!」
どうせ出来ないと嵩を括っていると思ったエドガーが、これみよがしに細い首筋に切っ先を触れさせるが、却ってジゼルの嘲笑を誘ってしまう。
「私のような生きている価値の無い―――いえ、生まれてきた事が間違いな女を人質に取った所で、事態が好転すると本当に思っているのでしょう。それを愚かと断じるのは間違いかしら?」
「な、なにを言っている!お前頭がおかしいのか!少しは脅えろよ!普通命乞いぐらいするだろうがっ!」
生まれて初めて理解不能の異質な怪物に出会ってしまったエドガーは恐怖に脅え、短剣を持つ手が震える。既に切っ先は首筋から外れ、動きを縛る手にも碌に力が入らない。それどころか目から涙がとめどなく流れる。
周囲もジゼルの言葉が決して強がりでないのを本能的に察し、誰も彼もが彼女を恐れた。何故そうまで自分を卑下し否定するかは誰にも分からないが、自らの命をどうでも良いと断ずるその異常な精神は、刃物を持って暴れる凶漢よりもずっとおぞましいナニカに思えて仕方が無かった。
彼女とそれなりに親交のあるニコラとセレンもまた、ジゼルの事が理解出来なかった。既に半月は毎日顔を突き合わせているが、彼女は自分の事をあまり話したがらない。趣味や好物などの話しやすい話題や家族の事など自分から話そうとせず、専ら授業やジュノー教の教義などばかりだった。規律や教義を絶対視する傾向はおおよそ分かっていたが、なぜそのような姿勢になったのか、その過程は分からない。
だから休日に三人で遊び、少しは親交を深められないかとセレンが提案し、多少なりとも彼女の素を見る事が出来たのは良かったが、それとは別に愚か者のせいで悪い意味で彼女の内面の一部を知る羽目になった。
そのどす黒い深淵を間近で覗き込んだ愚か者は、死ぬほど後悔しているがもう遅い。今さら剣を降ろす事も出来ず、かと言ってこの場から逃げるには観衆が壁となって邪魔をする。謝罪など最初から頭に無く、仮にあった所で平民に頭を下げるなど貴族の面子が死ぬ。
迷子の子供のように途方に暮れたエドガーは何かこの状況を打開するためにあちこち周囲を伺うも、不意にジゼルと目が合う。透き通った翡翠のような美しい瞳には自身を嘲る感情と憐れみ、そして形容し難い狂気を纏った負の感情が溢れるほどに満ちていた。
それを覗き込んでしまった馬鹿な男は恐怖のあまり失禁して白目を剥いてその場に倒れ込んだ。
何もしていないのに急に倒れたエドガーに近づき、短剣を取り上げてから抵抗する力が無いのを確認したニコラは、恐る恐るジゼルに安否を尋ねる。
「はい、特に怪我などはございません。心配なさっていただきありがとうございます」
礼を言う姿はいつもの彼女だったが、先程の狂気を孕んだ様相との差異に些か疑心を抱いてしまう。セレンもニコラと同様、色々と聞きたい事があったが、残念ながらそれは叶わなかった。
騒ぎを聞きつけた警邏担当の兵士達がやって来て渦中の三人を問い詰める。幸い、兵士達は全員ニコラの顔を知っており、身元確認の必要が無かったのと、民衆の誰もがニコラを擁護する声を挙げたので、力づくで言う事を聞かせるつもりは毛頭無く、怪我人を運びつつ、事情聴取の為に城への同行を要請されただけだった。
ニコラはせっかくの休日にケチが付いたと、気絶したエドガーに唾を吐きたい気分だったが、公衆の面前だったので自重した。




