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騎神戦記  作者: 卯月
第二章 支配者達の遊戯盤
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第五話 薄幸少女ジゼル



 ノンノとの昼食を終えたニコラは彼女と別れて、今は別の部屋に向かっている。

 騎士となったニコラには学ぶ事が数多くある。騎士としての戦闘訓練以外にも最低限読み書きとこの国の礼儀作法は必要だ。さらに書面上はエルフの村の代官も務めている以上、ある程度の政治的知識も修めなければならなかった。それを考慮して近衛騎士団長のフランシスは、午前中は騎士団での訓練を、午後からは座学をニコラに命じた。

 教室は城の中でも奥まった場所にある。重厚な扉を開けるとそこは数十もの長椅子が並べられて、壁や天井から幾重にも刺繍した布が垂れ下がり、その最奥には大理石で形作られた女性像が鎮座していた。明らかに宗教目的で整えられた内装によって自然と部屋の中は清浄な空気を生み出していた。教科書や辞書でしか見た事の無い、信仰心に薄いニコラにはこの礼拝堂に居る自分が酷く似つかわしくなく場違いに思えた。

 ニコラが部屋に入って来たのに気付いた短い黒髪の少女が入口へ近づく。他の使用人とは異なる黒装束を身に纏っているので、もしかしたら宗教関係者なのかもしれない。


「初めまして、ニコラ=古河と言います。こちらにヤン司教殿がおられると聞いたのですが」


「はい、お話はメレス騎士団長より伺っております。ようこそコガ様、わたくしはヤン司教様のお手伝いをさせて頂いているジゼルと申します。どうかお見知りおきを」


 年の頃は15歳程度か。世間一般では十分美少女と言って差し支えが無いが、同年代のセレンやノンノに比べると、どことなく愁いを帯びた影のある瞳がニコラには気になる。何というか、このぐらいの年頃の少女特有の咲き誇る花のような生気に満ちた情動の強さがまるで感じられない。ともすれば熱を持たない人形と見間違えるような虚ろさが彼女の顔には張り付いていた。さらにうなじまで丁寧に切り揃えた黒髪と同様の黒衣を纏っている事が余計に陰の部分を強めているのだろう。

 とはいえニコラは初対面の相手の顔をまじまじと見るのも不躾な質問をする気も無い。気にはなるが今は上司から言われた通り、教師役のヤン司教なる人物に会う事が先決だった。

 ジゼルに先導されて、奥の部屋へと通された。簡素な部屋には同様に装飾の無い簡素な黒衣を纏う中年男性がニコラを出迎えた。


「初めまして騎士コガ殿。私が貴方の教師役を務めるヤンと申します。どうぞ狭苦しい部屋ですがお掛けになってください」


 温和な笑みを向けられ、ニコラは初対面相手特有の緊張感が少し緩和されるのを自覚した。成程、相手の警戒心を自然に解いて好意的に接するように誘導している。それ自体は責任ある立場なら誰しも備えている技術だからさして気にすることは無い。

 彼の言う通り椅子に座り、ジゼルもヤンの隣に座る。彼女もここに居続けるという事は、ニコラの勉強にも幾らか関わるという事だろう。


「さて、コガ殿は勉学を希望されていますが、どこまでお修めするつもりでしょうか?」


「最優先は読み書きですね。数学は基本を抑えていますから、この国で使う数字を教えて頂ければおそらく対応は容易です。

 それと今不自由なく会話をしていますが、これは連れが精霊にお願いして言葉を通訳してくれているお陰ですが、三日も離れていれば精霊は居なくなってしまうので、精霊に頼らないように会話も出来るように習得しなければなりません。何せ連れは少女ですから、戦場まで連れて行くなど考えたくありません」


「ほほほ、まさしくその通り。戦いは男の仕事です。もちろんご婦人の警護に幾らかは戦える女性も必要でしょうが、それは城の中での事。戦場で婦人の影に隠れるなど男の名折れ。では易い所から始めると致しましょう。まず、この国で用いる数字から説明させていただきます」


 あらかじめ用意しておいた紙と羽ペンで複数の記号を書いていく。それらの記号はどことなくローマ数字のように棒を組み合わせた物で、百や千などの桁の上げ方も漢数字のような規則性があるので比較的覚えやすい。早見表を書いてもらったニコラはその横にアラビア数字を書き足して、一目で翻訳出来るように手を加えると、二人が興味を示して説明を求める。


「1から9はこんな形で、桁の上げ方は左に足していく。例えば72にならこう書く。334ならこのように書けばいいんです」


「ほほう、これはエーシア大陸で使われている数字より利便性が高いですな。ところでコガ殿は兵士だったと聞き及んでおりますが、数学はどうやって習われたのです?元は教育を受けられる身分だったのですか?」


「いや、そもそもうちの国は6歳から15歳まで、どんな生まれや血筋でも教育を受けるように法で義務化されていますから、余程の事情が無ければ誰でも読み書きや数学は出来ますよ。でないと社会に適応出来ませんから」


 ニコラの言葉に二人は驚く。教育とは特定の階級か一定の経済的余裕のある家の独占的財産であり、全ての民が享受出来るようなものではない。ましてや法で義務とするなど、ボルドを含めたエーシア大陸のどの国でも行われていない。建前上は全ての民の自由と権利、そして幸福の保証を掲げるギルス共和国でさえ、そのような教育の義務化などされていない。

 ヤンは元は平民だが13歳の時に聖職者の道を選び、そこで初めて文字や数学に触れた。それまではただの農夫の倅として朝から日が暮れるまで土を弄っていた。そんな生活では到底勉学に励む時間など確保出来ないし、何より勉強には金が掛かる。富農なら読み書きぐらい出来るが、そんな余裕のある家はごくわずかだ。

 それでもどの国も問題無く統治しているのだから、社会に適応出来ないというニコラの主張は理解が及ばない。全ての民に教育が必須など二人には想像すらし得ない世界だった。

 互いの常識が通用しないと分かった三人だが、取りあえずそれはひとまず置いておき、数学の指導を引き続き行う事にした。ニコラの言葉を疑うわけでは無いが、一応の確認の為にヤンは簡単な問題を出してみる。

 四ケタの足し算引き算をほぼノータイムで回答したニコラに感心しつつ、同様に割り算や掛け算も解かせてみると、こちらも難なく解いてしまった。今はまだ数字の対応表を見ながらの回答だが、ヤンが教える事はもう無かった。


 開始三十分で数学は合格が出てしまったので、次の勉強は語学となる。こちらは数学のように簡単には終わらない。

 教材は聖職者が用意した物に相応しく宗教関係の本だった。ニコラはほぼ無神論者だったが、宗教への忌避感などは持ち合わせていないので、単なる教材や異文化交流程度にしか考えていなかった。

 ボルド帝国の国教はジュノー教と呼ばれる宗教であり、豊穣の女神ジュノーを主神に信奉する多神教らしい。エーシア大陸は基本的に多神教が主流で大抵の国の国教は多神教である。ボルドの隣国であり、極めて仲の悪いギルスもユピリウスという男の神を主神と祀っているが、実はこのユピリウスとジュノーは姉弟であり夫婦だそうだ。つまりボルドもギルスも国教の元を辿ると原典は同じなのだ。それどころか大陸の大半の宗教は共通の多神宗教から分派した兄弟に近く、主義や教義の対立から主神と祀る神を変えているだけとの事。

 どこかで聞いた事のある宗教対立だと呆れを感じたニコラだったが、それが人の性と思えばこのファンタジー世界にも親近感が湧くというものだ。

 教材も旧約聖書にある創世記の類の神話かと思ったが、どちらかといえば簡単な法律や道徳心を養う目的の文章ばかりなので、宗教色が薄く、ニコラにも親しみやすい。教本を見ながら、綴りを真似て書きつつ、ヤンから口語で訳してもらう。


「殺すな、犯すな、盗むな、嘘を吐くな。―――こんな感じで大丈夫でしょうか?」


「はい、初めてにしては良い出来です。流石、教育を受けた方は上達が早いですな」


 ヤンの称賛の言葉にニコラはさして動じない。元より複数の言語を扱えるニコラにとって、新しい言語を覚えるのは苦にならない。それより紙と羽ペンなどという前時代の筆記用具の使い心地の方がよほど慣れるのに時間が掛かりそうだ。せめて鉛筆でもあればもっと楽に字が書けるのだが。

 一時間ほど勉強を続けていると、ヤンが面会の約束があるので中座すると言って部屋を出て行った。彼は司教という責任のある立場なので何かと忙しいのだろう。特に疑問に持たず、もう一人部屋に残っていたジゼルで教師は事足りた。

 さらに一時間、ジゼルに手伝ってもらいながら書き取りを続けていると、疲れからかジゼルは溜息を吐く。それに気付いたニコラから、休憩を入れてはどうかと申し出ると、彼女は恥ずかしいのか余所余所しく同意した。

 ジゼルは棚からクッキーのような焼き菓子を取り出し、ガラス製の水差しの水を杯に注いでニコラに差し出す。礼を言って杯を受け取り、一口飲んでから焼き菓子を頬張る。クルミやアーモンドに似た食感の木の実が入ったクッキーは中々美味であり、糖分を欲していた脳に染み渡る美味さだった。


「ふふっ」


 大の男が甘みを美味そうに食べるのがよほど可笑しかったのだろう。会ってから初めて愁い以外の良い感情をニコラに見せた。


「男でも甘い物が好きな奴は結構居るんだがなあ」


「あっいえ、申し訳ございません。決してコガ様を馬鹿にする意図はございませんの。ただ、ひとづてに貴方の事を伺っていたのですが、実際の人となりと異なっておりましたので」


「人の噂なんてさほど当てにならないよ。もしかして酒好きだから甘いものは食べないと思ってた?」


「そうでございますね。強いお酒のお好きな方とお聞きしておりますので、甘い物は好まれないと勝手に想像しておりました。お許しくださいませ」


 下げる頭にさえ気品が溢れる様を見ると、彼女はきっと貴族の令嬢か何かだろう。多分行事見習いや花嫁修業としてあの司教の元で勉強しているのだろうと勝手に判断している。

 ほんの少しだが距離の縮まった二人は雑談に興じる。と言っても主に話しているのはニコラで、ジゼルはあまり自分の事を話したがらなかった。それがニコラに対してだけなのか、それとも誰でもなのかは分からないが、彼女は自分の懐に他者を招き入れる事を拒絶しているように思えた。

 ただ、それでもニコラの話、特にセレンやフィーダとの旅や街での買い物の事を聞いている時のジゼルは酷く羨ましそうな顔をしている。


「――――それでセレンの奴、昨日買ったばかりのジュレだったか、お菓子を一人で全部食べて「もう無い」って言ってものすごい悔しそうにしていたんだ。だったらもう少し大事に食べろって思うんだがなあ」


「でも、それは仕方がありません。女性にとって甘いお菓子はどれだけ食べても満足する事は無いのですから」


「そうは言うが、今日の朝もパンにジャムを塗りたくって、瓶の半分を一人で使うのは使い過ぎだろうに。まったく、病気になっても知らないぞ」


「ふふふ、コガ様はそのセレンさんを大事に想っていらっしゃるのですね」


「そこは否定しないが、何事もほどほどに留めておかないと後々苦労や痛い思いをするんだから、こちらの忠告も少しは聞けと言いたくなるよ」


「わたくしはエルフの方を存じませんが、セレンさんは人と何も変わらないのですね。何だか親近感を抱いてしまいます」


 くすくすと口元を隠して笑う。最初に会った時は随分と辛気臭い顔だったが、今は年相応の少女として振る舞っている。人間なのだから何かしら事情があって抱える物があるのだろうが、ニコラはこっちのほうが似合っていると思った。

 それからしばらく会話を楽しみ疲れを取ってから勉強を再開した。何度か書き損じや綴りが読み辛いなど注意を受けるが、その都度地道に書き取りを続けた。

 そうしている間にヤンが戻って来て、留守にした事とジゼルに任せっきりにした事を謝罪する。


「そのような謝罪は無用に願います司教様。わたくしは司教様とコガ様のお役に立てる事に喜びを感じています」


「ジゼル様にそう言って頂けるとは。コガ殿、貴殿のおかげですかな?」


「はあ、俺は何もしてませんが。むしろ、色々と教えてもらっている身なんですけど」


 身に覚えのない事で礼を言われても困るだけだが、ヤンは構わず上機嫌なままだった。

 夕刻近くになって今日の勉強は終わった。久しぶりに長時間机に座っていたのと、極めて原始的なツールを用いて腕を動かしていたので、体のあちこちが固まっていた。それらを動かして筋肉をほぐしていると、ヤンが明日の予定を告げる。


「メレス騎士団長からコガ殿のお連れの方を明日の朝、連れてくるように言伝を預かっています。取り敢えず行事見習いとして働かせるように話を付けたそうです。それとこれは私の提案ですが、午後からは一緒に勉強してはどうでしょう?」


「お二人が構わないのであれば俺の方から連れに話します。何から何までお手を煩わせて申し訳ない」


 なぜそこまでしてくれるかは分からなかったがヤンの好意には頭が下がる。セレンは今日一日自由にさせているが、本当の所はまだ一人で居させるのは心配だったので、目の届く範囲に置いておけて良かったと思う。それに実年齢はともかく、見た目の年齢の近いジゼルとなら、きっと友人になれるだろう。

 セレンにも良い土産話が出来たニコラは、充実した気分のまま礼拝堂を後にした。



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