平原の国(26)……越境
斜陽の熱い日差しを瞼に感じて、ラズはゆっくりと目を開いた。
意識が途切れた時と同じ、黄褐色の天幕。頭の下にはいつの間にか硬い枕が敷かれている。
何か夢を見ていたような気がする。でも、珍しく思い出せない。猫やファナ=ノアに会う『夢』ではなくて、たぶんただの夢……だと思うのだが、脳裏に残った何か白いモヤみたいな映像が妙に引っかかる。
天幕内の少し離れた場所に、人の気配を感じた。……多分、四人。それと微かな話し声。
「……シャルグリートが、なんて?」
「今ひとつ要領を得なかったんですが、ビライシェン=エンデイズと会ったみたいです。男だったぞ、と言ってました」
「…………」
ピアニーが呆れたようなため息をつくのが聞こえた。
(……あれ、輝石は!?)
彼女が離れているということはラズは輝石がない状態のはず。その割には生命力の流出がない。
その理由はすぐに分かった。ずっと手の中に、輝石を握っていたからだ。小さな、銀の指輪の。
「あっ──、痛ッ」
声を上げようとして、痛みに唇を噛む。──そうだった。左足は歩けないくらいの大怪我を負っているのだ。寝ている間に錬金術で治療なんて器用な真似は流石に無理だから、応急処置した状態のままになっている。
「ラズっ」
意識が戻ったことに気づいて、仕切りの向こうからピアニーが顔を出した。その出立ちは、こざっぱりした男物の庶民服に変わっている。帽子に眼鏡をかけていて、まさかさっきの少女と同一人物とは誰も思わないだろう。
「身体の調子はっ?」
「さっきと変わんない……ってか、こっちの台詞なんだけど」
腕を支えに起き上がり、ピアニーに手の中の指輪を見せる。
「数時間くらい大丈夫よ」
彼女は言いながら指輪を受け取って左手の小指にはめ、さらに甲だけを覆う薄手のグローブで隠した。
「それよりお腹、空いているでしょう」
「あ──」
せめて礼を言わねばと開きかけた口に、むぐ、と何かを押し付けられてラズは目を瞬かせた。
にっこり笑うピアニーに促されるままゆっくり咀嚼する。
(……クッキー?)
適度にさっくりした食感に、独特な芳醇な香り。舌の上で解ける甘みに、空っぽだった胃が飛び上がった。
都にいるときに材料を買い込んでいたのは気づいていたが、これのためだったのか。
砂漠で話した、ラズの母がよく作ってくれた卵入りのクッキー。……目を合わせもしなかった数日間、どんな思いでこれを作ったんだろうと想像して、胸がそわそわした。
「できたてじゃなくてごめんなさい。お口に合いそう?」
「あ、うん……すごく美味しい」
ピアニーの後ろからリゼルがニヤニヤしながら顔を出したので、ラズは慌てて誤魔化すように飲み込んでしまった。
右隣に座ったピアニーは、輝石の指輪をはめた左手を、ラズの右足にそれとなく添える。そこにはいつの間にか包帯が巻かれていた。
「さっき、シャルの話をしてたけど」
「ああ、おかげで補給部隊の到着は夜遅くなるって話だ」
「僕が怪我したことは言ったんだよな」
「はい。でも夕方の作戦は打ち合わせ通りだと」
リゼルと<犬>が交互に答える。
その夕刻は、陽の高さからいってもう間もなくだ。……ということは、あまり時間がない。
「……リン姉は?」
「無事よ。でも身柄は押さえられたまま」
ピアニーが答えて苦い顔をした。
「ラズ。竜と、竜人たちのこと、詳しく教えてくれる? それから、スイから着替えを預かって来たの。着替えられるかしら」
彼女が取り出した鞄を見て、ラズはゆっくりと頷いた。────おそらく正念場は、これからだ。
† † †
「煎じ薬はやめてくれ……」
しびれてろれつが回らないまま、乱暴に腕を動かして拒否するレインドール公爵殿下を、リンドウは呆れ顔で見下ろした。
「神経を整えるから痺れが早くとれますよ」
治療を望まない患者の相手ほど面倒なものはない。軟膏は後で自分で塗ると言って拒否をするわ、飲み薬は苦いと放り投げるわ、文句ばかりだ。
二十代後半の、獰猛な虎のような青年。シャルグリートに落ち着きと威厳を足したらこんな感じだろうか。いや、気品も大きな差か。他者を寄せ付けない雰囲気はこの公爵特有かもしれない。意識してかしないでか、常に周りを威圧しているのだ。
リンドウは朝からもう六時間ほど、ほぼつきっきりで看病していた。
例の『竜人の使者』……ラズを助けたのはピアニーらしいから、レインドールにとっては、その仲間であるリンドウは敵も同然のはずだ。しかし、なぜかこうして大人しく治療をさせている。彼が何を考えているのかは不明だが、彼は天幕に乱入した街娘の正体を『薬師の弟子』とは公表しておらず、おかげで周囲の兵士たちは未だにリンドウのことをただの薬師だと思っているようだった。
「では、置いておきます」
「はぁ……しかし、来なかったな」
「?」
「いや、こちらの話だ」
心なしか肩を落とし、姿勢を正す若い公爵に視線を戻す。
彼の症状は落雷で生き残った患者に酷似していた。つまり、『竜人からの使者』を装った甥、ラズはそれほど容赦ない攻撃をしたのだ。命が助かって良かったものの、あのラズがここまでのことをしでかしたことが、リンドウには少なからずショックだった。
ラズは今、手傷を負ってピアニーと共に雲隠れしているらしい。リンドウが呼ばれた時には天幕は片付いていたから、どの程度の怪我なのかは不明だ。銃弾でも平気な顔で斬ってみせるラズがいったい何に負けたんだろう。──やっぱり、たくさんの兵士に囲まれてはどうしようも無かったのか。
椅子に深く座ったまま、厳しい表情で思案するレインドール公爵に話しかけるのは憚られ、リンドウは所在なげに薬を片付けた。
チャリ。
不意に、レインドールの手の中で小さな音がした。コインをすり合わせたような、金属質な音。
リンドウの目線に気がついて、彼は手を広げる。
「────!!」
「その顔……これが何か、知っているな」
公爵の手のひらでキラキラと光ったのは薄い鱗のような形状の白銀と、六角形の翡翠の石。
「なるほど、お前の首飾りの石も同じか」
「……まさか」
それしか言葉が出てこない。公爵ともなればお抱えの錬金術師だっているはずで、輝石のことを知っていておかしくはない。
(ラズの輝石がここにあるってことは──あの子!?)
想像以上に深刻な事態なのではという考えがよぎって、慌てて否定する。──あの子は大丈夫のはずだ。混乱を極めつつ、公爵の次の言葉を待つ。
「……正直に答えるなら命だけは助けてやってもいい。……あの少年は、そなたらの仲間で間違いないか」
「──え? ええと…………」
リンドウは必死に考えを巡らせた。返答を間違えれば即刻死罪かもしれない。しかし下手に誤魔化すのは逆効果に思えた。
「あの子──……ラズは、私の甥です。でも……ここ数日、行方不明になっていました」
「……行方不明。竜人との関係は?」
「分かりません……」
こっちが聞きたいくらいだ。
「でも少なくとも……あの子が傷付けたなら、私が治します。育て親として、あの子にしてあげられることはそれくらいですから」
リンドウは萎縮しながら、なんとか言葉を紡ぐ。
砦を襲った竜人のせいで傷ついた人々を見て、何故、と憤る気持ちもある。竜人のことは別に嫌いではないが、こんなところでまた人間国家と戦うなんて、おいそれと賛成できるはずがない。そもそも竜人は強大な力を持っていて人間を虐げる側であり、小人の時とは訳が違うのだ。
ただ、あの優しい甥がここの兵士たちを傷つけて何も感じていないとも思えない。リンドウが薬師としてここに来たのはピアニーのためであったが、事態が進むにつれリンドウは必死に兵士たちを治療しなければと考えるようになっていた。
「──ふん。そなたがあの少年について何も知らんことはよく分かった」
公爵は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、鋭い眼差しをリンドウに注ぐ。手の中で、またチャリ、と石の擦れる音がした。
リンドウは身体が恐怖に震えるのを感じた。
「その石を……どうするつもりですか」
「……さあな」
レノから譲り受けた白銀の鱗は、彼を師と仰ぐラズにとってどれほど大切なものだろう。取り返してあげなければ──そう思った時、天幕の外が慌ただしくなり始めた。
「レインドール殿下!!」
伝令の兵士が飛び込んできて、叫んだ。
「裾野の軍からの報告が!」
「退却は滞りないか」
レインドール公爵は包帯の上から上着を羽織って立ち上がる。
「それが──動ける者が見当たらず……おそらくは全滅、とのことで」
「っな……に……?」
口にした兵士自身、信じられないという様子だ。レインドールはくちをぱくぱくさせていたが、ひとつ深呼吸して兵士を睨んだ。
「…………。竜人側は」
「それが──裾野は、もぬけの空でした」
「まんまとしてやられた訳か。──砦の警備は固めているな」
リンドウは部屋の隅で目を白黒させながら、彼らの姿を見つめる。裾野へ向かったのは万を下らない数の兵だったはずだ。それが全滅した?
「はい、既に。……それより、戦地の状況で気がかりなことが…………」
「なんだ。話せ」
「一刻前、青い怪物が高度を下げたのです。それと同時に、後列の兵までもが毒でも受けたかのように倒れたのだと」
「……ふむ。原因の究明を最優先で行うように」
レインドールは表情を曇らせて口をつぐんだ。単眼鏡をかけた側近が主の代わりに指示を出していく。
「火薬の復旧は?」
「まだ三割ほどです。補給部隊の分は到着が遅れていますし」
「急がせなさい。現存する分は砦に仕掛けておくように。襲撃があればいつでもここを放棄できるよう準備と警戒を」
「承知いたしました!」
伝令が出て行った後、レインドールが小さく息を吐いた。
「……国を滅ぼす程の力を持つ竜人の守り神、か」
知っているか、と向けられた眼差しに、リンドウは首を小刻みに振る。
「流石にそんなものが実在するなら即座には手の打ちようがないな」
思案するように顎に手を当てるレインドールに、側近が返答する。
「停戦を持ちかけると? 使者を切り捨てたのは殿下じゃないですか」
「ならお前はあの時手を取っていたか?」
「……この二日で砦を二つ奪ってみせた手腕は脅威的としか言いようがありません。巨人と違って話ができる相手なら、まずは折れるのも一計でした」
「────それで、使者殿はまだ見つからないのか」
「はい。残念ながら、例の姫君も。もう待たれるのは諦めては?」
「誰が待ってるだとっ! 誰がっ!!」
くわっと側近に目を剥いて反論し、公爵はごほんと咳払いした。
「仕方ない。薬師がこちらにいる限りそのうち向こうから接触してくるだろう」
「問答無用で切り捨てに来るかもしれませんよ? 誰かさんみたいに」
「復讐が怖くてこんな立場やってられるか」
腕を組んでふんぞり返る公爵。側近は肩をすくめて笑ってから、再び騒がしくなってきた石畳みの廊下に耳をすませる。
「レインドール殿下!!」
部屋の前にたどり着くなり、息を切らしたまま伝令が叫ぶ。
「壁上に青い怪物が!! お逃げください!!!」
†
すぐさま武装した公爵に連れられて、リンドウは砦の城壁の上を歩かされていた。手枷はないが、兵士に囲まれていて抵抗などできそうにない。
件の青い巨竜は、壁上でばさばさと羽ばたいていた。飛んでくる矢は飛膜で散らし、弩砲はひらりひらりと避けている。
近づくと、モモンガのような愛くるしい大きな瞳がこちらを見据え、獲物を見つけた猫のようにきゅう、と瞳孔が細くなった。
背筋がゾッとして、リンドウの足が竦む。
巨竜の真下には、人影が三つ。
銀の装飾が散りばめられている黒を基調とした礼服に、さらりと短い黒髪。夕陽を受けてなお黒く闇色に揺らめく瞳を細めて、その少年は芝居っぽく朗らかに笑った。
「リターンマッチといきましょう。レインドール=アル=ローランド公爵殿下」
たくさんの小説の中から見つけていただき、
そしていつもご覧いただき、本当にありがとうございます(μvμ)
クッキーのシーンの予告編落書きがあります。
よかったらお楽しみくださいませ。
https://twitter.com/azure_kitten/status/1507710799350886404?s=20&t=v7rgG_-JQALJURlZaStxew




