平原の国(5)……出立
「やぁ、待たせてすまないね」
ぎい、と扉が開いて、三十代後半くらいの、痩せた紳士がにこやかな笑みを浮かべながら入ってくる。
ピアニーが立ち上がってスカートの裾をつまみ礼をした。
「予めお知らせできておりませんでしたもの、どうぞお気になさらず。ラズ、こちら財務卿トーラス=フリッツ男爵です」
「えと────御目通りが叶い光栄です、フリッツ卿。ラズ、と申します」
ラズもできるだけ丁寧に礼をとる。財務卿は着席を促しながら笑みを崩さず声をかけてきた。
「もっと楽にして構わないよ? 荒野の流儀でいいとも。錬金術師殿?」
緩く笑う目の奥に宿る冷たい光を見つけて、ラズはぎくしゃくと笑い返した。『礼など不要』と言う割には、親しみが伝わってこない表情である。
にこやかに躱したいところだが、ピアニーの手前へらへらするのも格好がつかない。
「……まさか。他ならぬ財務卿に対して礼を欠くなど、法王ファナ=ノアを悲しませてしまいます」
ラズは真っ向から挑むように財務卿と向かい合い、腰を落とした。
財務卿トーラスは、ファナ=ノアの実母の兄にあたると聞いている。暗に仄かせば、なめるな、という牽制になるだろう。
漆黒の瞳に捕らえられた財務卿の眉尻が、楽しげに吊り上がった。
「なかなか生意気だね。うちの跡継ぎにも見習わせたいくらい」
二人の緊張感をはらんだやりとりに、ピアニーがやんわりと口を挟んだ。
「トーラス様はご令息にお厳しすぎるのですわ」
「いやあ、いつまで経っても侯爵令嬢の後を追いかけ回しているような愚息ですよ」
「あら、実力のある商家の後継ぎに高く買っていただけて嬉しいですわ」
彼女はいつものことのようにふふ、と笑う。お嬢様らしい気品のある笑い方というやつだ。さっきまでラズに見せていた雰囲気は微塵もない。
挨拶が終わったところで、財務卿は執事から受け取った書簡を応接室の机に置いた。
「先日令嬢からご依頼いただいていた、リューン公爵への紹介状はこちらです。お役に立つかは分かりませんが」
「それは私次第ですもの、ここまでしていただけただけで十分」
そもそも今回ピアニーが財務卿のもとを訪れた目的は、そのコネでリューン公爵に目通りし、大戦後に荒野の<聖教国>の後ろ盾となってもらうため……なのだそうだ。ついでに戦争状態にある国境を穏便に越える協力を取り付けること。ピアニーが交渉ごとは任せてくれていい、と言っていたが、政治が絡むとどうにも不安を感じる。
「現公爵様は、平原の国の第六王子でいらっしゃいましたわね」
「ええ。今年で十八でしたかね。二年前に先代公爵を更迭して強引に据えられた……その割に領土をよく治めています。ディーズリー卿が直々に剣を指南したこともあるとか?」
「ええ──」
貴族二人の会話にはついていけず、ラズは聞きに徹するしかなくなってきた。半分聞き流しながら、財務卿から目線を外す。
部屋には執事が二人。最初に案内してくれた人は入り口、もう一人はラズのすぐ後ろで菓子を取り分けている。
(……このお茶)
少し冷めて適温になった紅茶。味音痴のラズにはどれほどの高級品か分からない。香りが強ければ上者なのか? 芳香族化合物の噛み合わせを変えるだけでいいなら錬金術で茶葉の香りをアレンジして売るだけでいい商売になるかもしれない。
──まあ、この紅茶について考察すべきことは実は他にあるのだが。
ピアニーは父ブレイズが平原の国の王子の武術指南をしていたことについては既知だったらしく、にこやかに返事をしている。
「──お父様は蹴飛ばしていただけだと言っておりましたけれど、噂によると文にも武にも秀でた君主のようですわね」
「ええ、彼を遠ざけた王家の方がその忠誠を危ぶんでいるのだとか。……さて」
財務卿は静かに紅茶を啜っていたラズに顔を向ける。
「この地方特産の紅茶は口に合っているかい」
「ああ……はい」
またわざとらしい訊き方だ。
そんなにラズに思うことがあるんだろうか。まどろっこしいなと内心ぼやきつつ、ラズはしれっと何気ない口調で付け加えた。
「────こんなことで体調を崩したりしませんので、お気遣いなく」
彼は一瞬わずかだが目を見開いて、薄く笑った。
「おや、お見通しか。では解毒剤はいらないのかな」
──……くえない人だ。
紅茶に標準接種量を超える鎂が含まれていることには気が付いていた。口にするもの全てを<理解>しようとしている訳ではないが、香りが面白かったので術を使ったことが幸いした。まともに飲んでいれば、しばらくトイレにこもることになっていただろう。
……つまり、嫌がらせ程度の毒。
ピアニーが隣で静かにカップを置いた。
「毒? もう、財務卿、彼を試すのはおやめくだ──」
彼女の厳しい口調に遮るように、ラズは言葉を付け足した。
「──それと、後ろから忍び寄られるよりは死角から狙撃されるほうが怖いです」
「────!!」
背後で誰かが息を呑む声がした。
ファナ=ノアが常時広範囲を警戒しているように、ラズも自分の<波動>の届く範囲……だいたい自分の身長くらいは常時気を張れるように鍛錬している。ちなみに、一方向だけならもう少し距離を伸ばせるが。
「ふむ」
財務卿は落ち着いた様子で目線をラズの後ろに動かした。
同時に、怯えた声が頭の上を通り過ぎる。
「男爵様! ……か、体が動きません!」
ラズもちらりと背後を見遣った。
すぐ後ろで、執事服の男がナイフを中段に構えたまま身震いしている。菓子を切り分けるためのテーブルナイフではない。手のひらくらいの刃渡りの代物だ。
彼の自由を奪っているのは、竜人が稀に使うのによく似た、物質支配の力。物質の力学的エネルギーのコントロールを奪う点では、元野盗の首領シュラルクが使っていた重力操作に近いかもしれない。借り物の輝石では腕力で押し留めるくらいの力がいっぱいいっぱいだから、あと数分も維持はできないが。
その間に素早く思案する。
毒が仕込まれていたのはラズの紅茶だけだった。それも、嫌がらせ程度の下剤。錬金術で成分を分解するのはいとも容易い。本気で敵視しているなら、こんな手段はとらないはず……ピアニーが口にした通り、試されているとしか思えなかった。
──だとしたら、ここはなんと返答するのが正しいんだろうか。
ラズは生唾をこくりと飲み込んで、財務卿と向かい合う。
「──少し前に重力を操る野盗がここを襲ったんだとか? ……その気になれば、ここにいる全員の意識を奪うこともできますよ。──これで、十分ですか?」
財務卿は右手で顎に触れ、値踏みするようにラズを見返した。
「ふむ、60点かな」
「……というと?」
「力を誇示するべきではなかった。脅威であると認識されれば、手元に置くか、排除するか……少なくとも他国に逃す訳にはいかないと考えるのが支配者というものだよ」
「なるほど……覚えておきます」
どうやら及第点だったようだ。難しいものである。
頭を下げると、彼はやっと目尻を下げた。
「そんなことで礼をするのかい、君は?」
「閣下が荒野の流儀で良いと最初に仰ったではありませんか」
「そんなに明け透けではね……政ごとには向かないよ」
「心得ていますよ、それくらい」
ラズは苦笑いする。──やりたくないから、兄に故國の一切を委ねて出奔しようとしていたくらいだ。
財務卿はくつくつと笑って立ち上がり、右手を差し出した。
「まあ、そこはピアニー嬢がいるから大丈夫と考えることにしよう。私も影ながら応援しているよ」
「……お力添えに、心から感謝いたします」
平原の国と森の国を隔てる国境──その紛争地帯を越えるのは、想像以上に苦難かもしれない。
ラズはもう一度深く礼をしてから、財務卿の手を握り返した。




