平原の国(3)……出立
巨大な馬の立髪を撫でる。額に一角、脚が六本、翡翠色の瞳を持ったこの生き物を、馬の怪物ということで『怪馬』と呼ぶ。
(……スイ)
心の中だけで、ラズは与えた名を呼んだ。それだけで、伝わることを知っているから。
『───怖いのか?』
(……まあ、少しは)
怪馬たちは人間並みに頭がよく、意思疎通の手段として念話が使える。規格外に有用なその能力は、一般的には知られていない。怪馬は基本的に人間のことが嫌いだからだ。
ちなみにレノから『群れに返してあげてほしい』と言われていた怪馬は、この春に平原から移動してきた怪馬たちの中に知己を見つけて自ら去っていった。例年より早い移動であったのは、国境の草原地帯で人間たちが騒がしいからだろう。
『───ならさっさと行くぞ。だから、後ろをなんとかしろ』
危険なはずの国境に向かうのはスイだって怖いはずだが、今はなぜか耳をぱたぱたそわそわさせている。戦乱の恐ろしさよりも、旅に出られることの方が嬉しいのかもしれない。──まあ、それはラズも同じか。
(はは、了解)
促されて振り返ると、まさにリンドウが手を上げたところだった。
「嫌だって言ってるでしょ──!」
その手に握られているのは催涙スプレー。さっきまでリンドウに執拗に絡んでいた青年──シャルグリートはぎょっとして跳び退った。
ラズは呆れ顔で嘆息する。
「シャル。リン姉はピアニーと乗るんだからいい加減諦めなって」
「裏切りモノ!! なんでこのロマンが分からナイ!! 女と二人乗り……俺の腕で支えてッ」
「……リン姉、麻酔ある? もう縛り付けちゃおうか」
見送りに出てきてくれていた人々はこのやりとりを苦笑混じりに見守っている。その中にファナ=ノアの姿はない。先に教会で別れを済ませたからだ。
大山脈への旅に、リンドウが同行を申し出てくれた時は嬉しかった。理由について深くは聞いていないが、ラズの為だということは察している。──であれば、シャルグリートの暴走を止めるのはラズの役割だ。
ラズはシャルグリートの胸ぐらを掴んでぐい、と引っ張った。周りに聞かれても分からない竜人の言葉で低く囁く。
『あんまり困らせると××の薬盛られるよ?』
『は? んなもんある訳……』
『あるよ。リン姉だよ?』
シャルグリートがぞっとしたようにごくりと唾を飲むのが聞こえた。これでしばらく大人しくしてくれればいいのだが。
ひと段落したと見てか、リンドウの元にピアニーが近づいて、挨拶をした。
「リンドウ、これからよろしくね。私のことはピアニーって呼んで」
「あ……ええ。ピアニー、よろしく」
この二ヶ月、リンドウはほぼ荒野の奥地にあるノアの郷に居たので、ピアニーとはあまり交流はなかったらしい。
少しよそよそしいリンドウに対し、ピアニーは気にした風もなく、にっこり笑いかけた。
「ねえリンドウ、あなたさえよければ、錬金術を教えて欲しいの」
彼女はきょとんとして、自分より手のひら一つ分くらい背の低い貴族出身の少女を見つめる。
「ラズに習ってるんじゃないの?」
「だってラズ、『とりあえず<理解>までできればどうとでもなる』って言うのよ。その先が分からないのに」
「あー、なんか悪いね……。分かった、できる範囲で付き合う」
言ってからリンドウは怪馬によじ登った。続いて、ピアニーが身軽な動作で後ろの鞍に跳び乗る。そして、もう一人の旅の仲間……顔の半分を犬面で覆った女性に手を差し出した。
「お<猿>さんとの挨拶はもう済んだの?」
「はい、どうせ怪鷲で追いかけてくるのでお気遣いなく」
ピアニーが雇っている隠密の二人組<猿>と<犬>は、互いの位置が分かる笛を持っている為、旅の間連絡役をしてくれることになっている。それでも国境を越えた先は流石に距離があり不便なので、鷲が手紙だけ運べないか試しているところだそうだ。
女性三人の準備が整ったところで、ラズは見送ってくれる荒野の人々を振り返った。
身長ほどある長い髪を結えた小人の少女……ユウが元野盗の首領の服の裾を握ってこちらをじっと見つめている。あれから結局、彼女は同行を諦めてくれた。さっき挨拶したときには泣かなれなくてほっとしたものだ。
「……さてと」
すう、と息を吸う。
教会にいるファナ=ノアにも聞こえるくらい、腹の底に力を込めて、声を張って。
「行ってきます!!」
声が郷にこだまする。
柔らかな風が、初夏の荒野を撫で、黄色い花弁が雪のように舞った。無事を祈っている──そんな返事が聞こえた気がした。
† † †
同時刻、平原の国、西方自治区の主要都市。……最西端のリーサス領からみると、馬で約二ヶ月かかる距離に位置する街である。または、国境と荒野のちょうど中間地点とも表現できる。
その都市の北の一角にある中級貴族の屋敷の応接室で、二人の人物が向かい合っていた。
下座に座った童顔の青年は、疲れた表情で出された茶に口をつけてから、ため息をつくように言葉を紡いだ。
「申し訳ありません……仇を討つこともできず」
向かいに座る初老の紳士は家長だろうか。気遣わしげに、向かいの青年の表情を伺いながら返答する。
「何にせよ、君が無事で良かったと私は思っているよ。……これからどうするつもりだ」
「そう──ですね。まず、国境の戦争は今どんな状況ですか」
「森の国は深く攻め込まれ防戦一方だ。奪った土地の配分を、平原の国と海の国が揉めている」
「森の国は意外に粘りますね。やはり錬金術師の力が強力なのでしょうか?」
「ああ。数ヶ月前から、特殊な力を得たという者が増えているから、平原の国でも積極的に徴用して戦力の増強を図っているそうだが、ほとんどが錬金術師の劣化版でしかないと聞く。それと、まだ表には出てこないが、森の国は騎獣部隊なる奥の手を持っているのだとか」
初老の紳士は顔を顰めて顎髭をしごいた。
自身も平原の国に属する貴族であるだろうに、あまり支持していない口ぶりである。
青年は少し考えてから、おもむろに口を開いた。片手は癒えきらない腹の傷を押さえていて、どこか顔色が悪い。
「そうですか…………では義父上、妻が遺した事業の経営を、オレに返していただけませんか」
「何? 書状は届いていなかったのか……寄付同然で搾取されるくらいならと──表向きの畑はもう焼いてしまった。息子を奪った国王に服従するなど、私には耐えらなかったのだ……すまない」
紳士は気まずそうに眉を下げる。
「それくらい、構いません。裏で栽培している分で充分です、エンデイズ家に卸す分はもう不要なので。その代わりとなる販路を構築するため……公国と交渉してみましょう」
「! なぜ──」
驚いた様子の紳士に対して、青年は落ち着いた口調だ。……ただ、傷が痛むのか首筋に冷や汗が浮かんでいる。
「各公爵に力を与え、反乱を起こすよう煽ってみたいと考えています。上手くいけば、今の平原の国政府はひとたまりもないでしょう」
「まさか、あの子の仇をとってくれるというのか?」
青年は浅く頷く。
「元々は、最西端の領を使おうとしていたことですが、やり方を変えることにしました。──ただし義父上、オレは本当は……仇などどうでもいいんです」
青年は感情の抜け落ちた目で、老紳士を見つめる。
「グラディアスも、平原の国も……ただ腹立たしいから見返したいだけなのだと言ったら、がっかりさせてしまいますか?」
老紳士は黙り込んだ。やがておもむろに口を開く。
「……いいや。今まで通り──私は、君のやることに協力させてもらう」
「ありがとう、ございます」
窓から差し込む光に照らされて、細い髪が赤銅色に光った。




