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領の動乱(5)……Day 1

 犬の面の紐を結んで顔を上げた時、別棟の四階の部屋の、小さな後ろ姿が目に留まった。


(……ピア!)


 怯えたような横顔。乱暴に引っ張られてその姿が見えなくなった途端、背中がぞわりとした。


(あの子のあんな顔、見たことない──!)


 朗らかな笑顔、気迫のある演技、少しだけ気落ちした悩ましげな表情……そのどれとも違う、切羽詰まった雰囲気。──そこまでの状況ではないと、思いたかったのだが。


(一刻も早く駆けつけるには、どうしたらいい──!?)


 ぱっと振り返ると、<犬>と目が合った。慌てて隠そうとするその虹彩に、不思議な紋様が見てとれる。──しかし、今はそれを気にしている余裕はない。


「──<犬>さん、──やっぱり、僕が先に行く!」

「え、ええ?! どうやっ……」


 隠密の女性の困惑の声に取り合わず、地面を蹴った。なけなしの体力で、術を使って全力で加速する。


(きっつ……)


 例えるなら、全力疾走の後クールダウンしてまともに動かない体を、無理やり動かすような辛さだろうか。

 大型の番犬たちがばっとこちらに首を振った。すり抜けることもできるかもしれないが、もし途中で力尽きたら洒落にならない。


(<紫電(しでん)>!!!)


 一瞬、夕闇に光が閃き、爆ぜるような音が鳴り渡った。

 通り過ぎ様に低出力の雷をくらって、番犬たちは次々に気絶してどぉっと倒れる。


「……っ」


 脱力感に呼吸が乱れそうになるのを必死に堪えた。目線で状況を確認する。

 何頭か倒し損ねたが、牽制には十分だったらしく、怯えて尻尾を丸めている。走り抜けるなら今のうちだ。再び、加速のエネルギーを捻出して、砂利が敷かれた地面を蹴る。

 建物にたどり着くまで数十秒くらいのはずだが、とても長い時間に思えた。

 一歩ごとに、体力がごそっと削られていく。辛い。辛いが今は────


(間に合え!!)


 石造りの建物の前で踏み切って、高く跳躍。三階の窓枠を蹴って、彼女が見えた窓に滑り込む──


 たんっ


 最後に目眩がした。ぜいぜいと切れた息を整える余裕もなく、(おもて)を上げた瞬間、目に映った光景は────



 どしぃぃん!!!



 太った男を一本投げしているピアニーの姿だった!


(へっっっ!?!?)


 想像だにしなかった光景に、心底拍子抜けする。あんなに心配したのに! 開いた口が塞がらないとはこのことだ。


 脳天から硬い床に落ちた男は、ひっくり返ったまま目を白黒させてピアニーを見上げている。

 その男を、腕を組んで見下ろし、彼女は毅然と声を張り上げた。


「────だから、あなた方には、断じて屈しません!」

「なっ……なっ……!」


 口をパクパクする男。壁際で、小人と思われる尖った耳をした侍女たちが、その姿を無表情に見下ろしていた。


 しん、と沈黙が降りる。

 ピアニーはこちらに背を向けたまま肩で息をしながら、こちらに気づいてはいない。小さなため息が聞こえた。


 はっとして、恐る恐る声を掛ける。──こうして眺めていても仕方がない。


「助けは要らなかった……のかな」

「!」


 彼女は弾かれたようにぱっと振り返った。大きな目が見開かれる。さっきまで(けわ)しかった表情がふにゃ、と緩んだ。


(……え? ええ?)


 困惑して見つめるうちに、茶色の瞳がみるみる濡れて光る。


「いいえっ、いいえ……。とても、嬉しいわ」


 先ほどと打って変わった、震える声。

 糸が切れたように、彼女の膝がかくん、と(くずお)れた。


「だ、大丈夫?!」


 慌てて駆け寄る。

 崩折れて丸められた背に、戸惑いながら手を添えると、小さな嗚咽が漏れ聞こえた。背丈はほとんど変わらない筈だが、とても小さく感じた。


「遅くなって、ごめん」


 謝ると、彼女はふるふると、(かぶり)を振る。

 そのまま、とん、と額をラズの胸に当てた。肩を震わせ、ぎゅっと服の裾を掴んでくる。まるで、幼い子どものように。その手はとても冷たかった。──つまりさっきの大立ち回りは、強がりだったのか。

 か細い声で、彼女が呟いた。


「少ししたらいつも通りになるから……もう少しだけ」

「……うん」


 それ以上何を言ったらいいか分からなかった。ただ出来るだけ丁寧に、柔らかな茶色い髪の上から、そっとその背を撫でる。無事で、本当に良かった。小刻みに震える肩が落ち着くまでは、そうしてあげないといけない気がした。


 改めて、部屋を見渡す。趣味のよくない調度品に、鼻につく嫌な香の匂い。

 部屋の中央には、小太りの男がうずくまって頭を押さえている。下半身は下着一枚、開襟したシャツからぼうぼうの胸毛が見える。すごく間抜けな格好だ。

 部屋の隅では、侍女姿の小人の少女が二人、寄り添い合って立ち尽くしている。痩せた身体のあちこちに痣があって痛々しい。太った男が懲らしめられたことをどう感じているかは、虚ろな表情からは読み取れない。


 腕の中でピアニーが顔を上げた。


「ありがとう……もう、大丈夫」


 ゆっくりと離れる。

 着崩れたドレスのリボンをぎゅっと力技で結び直した時には、大きな瞳には再び凛とした光が宿っていた。

 ぱちっと目が合う。途端、今度は気遣わしげに面の下から覗き込んできた。


「……あら? なんだか、顔色が悪いわ?」

「え、逆に心配されるとか」


 笑うしかない。──もう、いつもの彼女みたいだ。

 部屋の中央で、小太りの男がやっと声を上げた。


「な、なん……、きさま、隠密か! まさか、侵入を許すなど」

「────」


 ラズは男から目を逸らさず、ピアニーに問いかける。


「どうする? ──逃げる?」


 逃げたら、投獄されている警務卿の立場が悪くなるかもしれない。

 しかし、彼女ははっきりと頷いた。


「お母様も連れて行く方法はある?」

「任せて。あ、でもそれだとピアニー(おじょうさま)は自分で降りてもらわないといけないかな」

「もう、分かって言っているでしょう?」


 呆れたように、彼女は笑った。

 彼女は床に落ちた短剣を拾い上げ、躊躇いなくドレスの裾を切り裂く。靴の高いヒールを割り、脱げないよう布で手早く足に固定する。──深窓のお嬢様とは思えない手際の良さだ。


 ラズは壁際で立ち尽くす小人の侍女に、彼らの言葉で声をかけた。


『君たちも、一緒に逃げよう』


 彼女らはそこで初めて、表情らしい表情を浮かべた。ラズが小人の言葉を使ったことに驚いたのだろう。


『逃げるって……どこに』

『荒野。シヴィの人……って言って分かるかな。一緒に来てるから、その人と一緒に』


 小人の侍女は顔を見合わせてから、ゆっくりと首を振った。


『行き……ません』

『どうして』

同胞(なかま)に──会いたくないから』

『……?』


 てっきり同じ館に家族を残して行けない等の理由かと思っていたラズは、その言葉に戸惑った。

 そのとき、さわ、と吹いた風が弧を描いた。……薄いコートの裾を引くように。これはきっと、親友からの合図だ。


(『急げ』ってこと──?)


 誰よりもこの小人たちを助けたいのはファナ=ノアだろうに、急かすのは相当の理由があるに違いない。


『──分かった! けど、また今度、ちゃんと話を聞かせて』


 望まないのなら、無理に連れて行くことはできない。

 話を打ち切った頃、隣の部屋から、ディーズリー夫人と思しき女性がピアニーに手を引かれて現れた。


「えっと……緊急の状況につき、略式の礼で失礼いたします、ディーズリー夫人」


 それでも出来るだけ丁寧に頭を下げてから、ピアニーにも声をかける。


「急ごう!」


 彼女は緊張した面持ちで頷いた。


「ま、待て……」


 弱々しい制止の声。部屋の中央で小太りの男が手を伸ばしていた。

 振り返ったピアニーはテーブルから一枚の羊皮紙を手にとる。そして、錬金術でぽっと火を点けた。夕陽と炎が茶色の瞳の中で揺れる。


「婚約は、白紙になるわ。さようなら、ミクレル=エンデイズ」

(……ん?)


 ──今、太ったパンツ男のことを、ミクレルと呼んだ。その名は噂に聞く、ピアニーの……


「ええっ?!」


 ラズが思わず素っ頓狂な声をあげると、彼女は半眼で振り返った。


「何に驚いているの……? 急ぐんでしょう、行くわよ」

「う、うん」


 ──まさかあのタプタプの腹のみっともない男が、そうだったとは。結婚したくなくて当然かもしれない。


(……っと、今はそんなこと考えてる場合じゃない)


 戸惑うディーズリー夫人の手を引き、窓に近づいた。

 すう、と深呼吸する。


「ど、どうしたら」

「そのままで。失礼します」


 気を抜けばふらつきそうになるが、弱音を吐いてもいられない。意識を研ぎ澄ませて、再び術で身体を叱咤し、頭一つ背の高いディーズリー夫人を横抱きに持ち上げる。そのまま、窓枠を蹴った。


「き、きゃあああああ!!!!」


 キーンと頭に響く悲鳴に耐えながら、足元の力場を調整して着地する。


「っとと」


 着地自体は成功したが、これ以上抱えているのは無理だ。


「……っ<犬>さん! 来てるんでしょ、手伝って!」

「は、はいい……」


 庭の茂みから、若い女性が手で顔を隠しながら近づいてくる。


「お面返すから、シャキッとしてよ!」

「というか、どうやって彼女から面を借りたの?」


 窓枠にひっかけた即席ロープを伝って軽やかに降りてきたピアニーが苦笑いした。

 地面に足をつけたピアニーの母はラズの顔を間近に見てなぜか怯えたように退がった。その身体を、後ろから隠密の女性<犬>が支える。


「く、黒……?! まさか」


 ──しまった。ディーズリー夫人は、知らなかったのか。ずり落ちていたフードをさっと被り直す。

 そして、彼女に背を向けて、強い口調で声をかけた。


「今はそんなこと、どうでもいいでしょう! 早く、行って下さい!」

「ちょっと、ラズ! あなたどういうつもり!?」

「それは……」


 ファナ=ノアが急かした理由──おそらくは、危険が迫っているからに違いない。

 彼女の問いに答える前に、四階の窓から、大柄な女が降ってきた。


 ずぅぅん!!


 着地した地面が陥没しているが、当人は平気な顔をしている。


「……っ」


 ラズは砂埃に顔をしかめた。

 ──只者じゃない。

 背後で隠密の<犬>が、ピアニーの母親の手を引いて走り出す気配がした。しかし、ピアニーはラズの側を離れようとしない。


「……君が逃げてくんないと、僕の正体がバレた時にブレイズさんの立場が悪くなるよ」

「フラフラのあなたを置いていける訳がないでしょう。それに、巻き込もうとしてるのは、私の方。あなたたちの力を借りないと、この戦い、きっと勝てないから」


 彼女は短剣を鞘から抜いて、ゆっくりと降ってきた女に向ける。その剣身がするすると螺旋を描いて伸び、細剣の形状に変化した。錬金術──細部は荒いが、よくこの短期間でここまで使えるようになったものだ。


(『戦い』──? いや、今は目の前の状況が先か)


 背を向けて逃げられそうにない相手。

 消耗して錬金術もまともに使えない今、彼女の支援は正直ありがたい。それに、敵が集まってくればより状況は厳しくなる。ここは、鋼務卿の屋敷の敷地で最も奥にある場所だから、少しでも増援が遅れることを期待したい。

 筋肉質で浅黒い肌をした女は、一対のサーベルを両手に構えて笑う。


「なんだい? お嬢様も戦うっていうの? 痛めつけるなら、男の子がいいんだけど」

「──お姉さん、鉱山都市の人?」


 ラズも背中の剣を抜く。


「ふふ、憲兵隊は随分若い隠密を雇ってんだねえ。ねえ、その子をこっちに渡してくれたら、命くらいは見逃してあげるよ?」

「あんたに負けるつもりはないし、……そもそも、友達を、つきだしたりしない」


 距離と夕闇のお陰で、ラズの正体には気付いていないようだ。

 半身の構えで剣を引き、静かに呼吸を整える。

 ──この戦い、あまり時間はかけられない。

ピアニーが婚約者をとっちめる話(R15)はこちらです。

https://book1.adouzi.eu.org/n9449gj/3

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