領の動乱(4)……Day 1
ラズが鋼務卿の屋敷にたどり着いたときには、すでに日の輪が傾き始めていた。
街の西に位置する鋼務卿の屋敷は想像以上に大きい。塀をどこで越えるべきか考えあぐねていたところで、視界の端に見覚えのある面を一瞬捉えた。
──目元だけを覆う、犬の、面。
「<犬>さん!」
声を押し殺して駆け寄ると、ピアニーに雇われた犬面の隠密はついてこいとばかりに塀に足をかけた。
石塀の僅かなとっかかりを足場に、軽やかに跳ぶ。疲労で重い身体を叱咤してなんとか追いかけると、彫刻がなされた巨石の側で待ってくれていた。
隣にしゃがみ込むと、ギリギリ聞こえる声で、<犬>が囁く。
「向こうに見える、別棟です」
初めて聞くその声は、少しハスキーなソプラノだ。
彼女の言う別棟は、長い渡り廊下の向こうにある四階建てらしい。こんな手前で足を止めたのは、広い庭にたくさん放たれた侵入者対策用の犬のせいか。
彼女は険しい表情で、しゃがんだまま唇を噛んでいる。厳しい状況だから、というだけにしては、顔色がよくない。
「……もしかして、犬、怖いとか?」
<犬>は青い顔でこくこくと頷いた。──犬の面を被っておいて、犬が苦手とは変な人だ。
(それにしても……)
ここまで来たものの、目立ったことをすればピアニーの父──警務卿の立場が悪くなるだろう。だから、まずはできるだけ穏便に、彼女の状況が知りたい。
しかし背の高い木も塀もない平地を、あの数の犬を騒ぎにならずに突破するのはおそらく無理だ。錬金術を使えばどうにかできる自信はあるが、体力を削られるので最後の手段にしておきたい。
──どうしたものか。
「……じゃあ、僕があいつらの気を引いてる間に、<犬>さんはピアニーのところに行って。……できたら、そのお面、貸してもらえないかな。ここには、僕の顔を知ってる人もいるかもしれないから」
「えっ……ええ……」
そう提案すると、彼女はわたわたと、面を押さえた。──先に行けと言われたことより、面を取ることに抵抗があるようだ。
「……顔、絶対見ないでくださいねっ……」
「は、はい……なんで」
背を向けてさっと面を取り、戸惑うラズの手に押しつける。釈然としないまま、ラズはそれを受け取った。
† † †
コンコンコン、とノックの音がした。
扉をキィ、と開け顔を覗かせたのは、今や顔も見たくない婚約者──ミクレル=エンデイズだった。
「紅茶は飲まなかったんだね。ディーズリー夫人は?」
「お母様は、今はお休みされているわ。何の御用かしら」
「それはちょうど良かった。それにしても、何の用などと……まったく、つれないね」
入り口に立つ強面の男たちをしっしっと追い払ってから、たるんだ腹を揺らして部屋の中に入ってくる。
「慰めてあげようと思ったのに」
「そうお思いでしたら、父の無罪を領主様にお伝え頂きたいものですわ」
「──君は、本当に強いなあ」
つんと答えると、彼はやれやれと首を振って、側のテーブルに一枚の羊皮紙を置いた。
それを横目でちらりと見て、ピアニーは眉を顰める。
「なにかしら、これは」
「婚儀の前倒しを認める契約書だよ。君の合意があれば成立する」
「……こんなときに、何のご冗談?」
「君を助けてあげられるのは今や私だけなんだよ? 『妻』のお願いなら、すぐにここから出して自由にしてあげられる」
言いながら、ほら、と羽ペンとインクを差し出してくる。
(──どうすべき……?)
彼の妻となり、彼を傀儡にしてこの危機を切り抜ける……さっき、母にそう言ったばかりだ。それなら、断る理由はないはずだ。
書状には、病中死後は夫に全権を委ねるといった物騒な文言も踊っている。──ただ、そんなことは想定の範囲内。何年かかったって、どうにかして領民やディーズリーの家にまつわる者たちを守ってみせるのだから。
(だけど、本当にもう、これしか選択肢がないの──?)
握らされたペンの先が震える。そのとき、紙を抑える左手の小指にはめた、翡翠をあしらった指輪が斜陽を受けてきらりと輝いた。
ちら、と脳裏を過ったのは、黒髪の少年の顔だった。一月前の会話が思い出される。
(
『僕たちは、皆、自分自身だけを対価として、仲間を天秤に乗せずに済む方法を必死に考える。誰かに命令されたからとか関係ない』
『仲間が……命を賭すのは、あくまで本人の意思だと?』
『だから、そうならなくて済むように、状況を動かすのが君の役割なんじゃない?』
)
ピアニー自身が囚われた今、仲間……憲兵隊や、街の少年たちはどう動くだろうか。
(今、私がここにサインをしたら……合わせる顔がなくなってしまうわね……)
ゆっくり、ゆっくりと、息を吐く。
そして、カタンとペンを置いた。
「……お断りします」
静かに告げて、彼を見返す。
怒りの形相を隠そうともせず、彼はバン、と机を叩いた。
「お立場が、分かっていないようですね! おい、やれ」
荒々しい指示の声に壁際に立っていた小人の侍女たちが歩き出す。すたすたと近づいてきて、背後に立った。
「抵抗するならば、ご夫人にも報いを受けていただくからね」
「……っ」
ピアニーは身を捩って侍女たちの腕から抜け出した。窓を背にして、彼を睨む。
「腕づくだなんて、あんまりではなくて?」
「そりゃあだって、楽しみにしてたんだ。君が手に入るのを。……大丈夫。君もそれを知れば、僕の妻であることを喜んで受け入れられるから」
「……え」
──何の話。
彼は再び、にへら、と笑う。その笑みに、背筋がぞっとした。
「……私は望んでいません」
「君の意思なんて関係ないんだよ」
(私、この人の妻の立場を、利用すると言ったの──?)
本能が、嫌だと叫んだ。
──くら
急に、──目眩? 思わずよろめく。
「!?」
ふらついたところを侍女の細い手に掴まれた。
「何……」
「ようやく、効いてきたね」
婚約者が近づいてくる。逃げたいのに、身体が浮いたようにふわふわして覚束ない。
太い指先が顎にかかる。
「特別な香なんだ……数時間も吸えば、まともな思考ができなくなる。しかし、これからすることには、うってつけだよ」




