領の動乱(2)……Day 1
ラズはパッと立ち上がった。
「ん? どうした?」
負け模様になっていたチェス盤を睨んでいた金髪の騎士が怪訝な顔をする。
「うん──ちょっと──」
その問いに曖昧に返事しながら、感覚を研ぎ澄ます。
室内なのに、細波のように、空気が震えている。馴染みのある<波動>の気配……間違いなく、ファナ=ノアだ。
ラズの隣に座っていた戦士ノイも、表情を険しくしている。
「ファナ=ノアが、何かが起きたと伝えようとしている」
ただことでない雰囲気に、金髪の騎士は顎に手を当てた。
「……『何か』? ──分かった、確認する。ついてきてくれ」
椅子に立てかけていた剣を手に取り、応接室を出る。さらに検問の詰め所を出たところで、金髪の騎士は足を止めた。並んで立つと、北東の空に上がった煙が目に止まる。
彼は愕然とした声をあげた。
「警務部隊の宿舎か……?!」
「違う!」
ラズは即座に否定した。
風があるから、煙は随分と東に流れている。建物に隠れて見えない分、もっと西側の──
「警務卿の本邸のあたりだ!」
──あの場所には、友人である少女がいるはず。
ラズの表情が蒼白になるのを見て、ノイが肩を叩いてくる。
「……行ってこい、俺はここに残る。リゼル殿、使節は怯えて一旦門から出た、と報告してもらえるか。その方がそちらも動き易いだろう」
金髪の騎士──警務卿に忠義の厚い中隊長はノイの言葉に引き攣った顔で頷いた。
「──あ、ああ。恩に着るぜ!」
そのやりとりを聞くが速いか、ラズは跳躍して建物の屋根に上がり、駆け出した。
ディーズリー邸のある中心部までは道が入り組んでいるので、道なりに行くなら普通に走って十五分くらい。しかし、屋根伝いにほぼ直線距離で走れば五分ほどで着くはず。
輝石がない今、移動にスタミナを大きく削られるとしても、今は急ぐべきだろう。警務卿にも、その配下の憲兵隊にも、仲良くなった人はたくさんいる。──どうか、無事でいてほしい。
踏み切った時、ふわり、と背中に追い風を感じた。
「──……! ありがとう、ファナ」
ファナ=ノアの風が後押ししてくれる。差し当たりファナ=ノアの警告はこの火事のことで間違いないようだった。
†
屋敷の前の通りの石畳にタンッと降り立つ。なぜか人通りはなく、屋敷の門が、開け放されたままになっていた。
煉瓦と石造りのはずなのに火の回りは早く、建物全体が熱く焼けている。
火を点けた犯人の姿はない。
燻る炎に、地面を染める血の跡────乗り越えたと思っていたトラウマが胸を締め付けた。
(……今それどころじゃないだろ!)
自分を叱咤し、一つ深呼吸する。
そして、意を決して敷地に足を踏み出す。
屋敷の扉をくぐってすぐの場所に、一人の老人が倒れているのを発見する。
「────! ルータスさん!!」
血溜まりに駆け寄って膝を折る。
彼はいつもピアニーの側にいた初老の従者に違いない。屋敷を守ろうと死力を尽くして戦ったのだろうか。──致命傷に見える深い傷がいくつも見えた。
(すぐ止血──じゃ間に合わないっ……!? なら錬金術で、傷口を塞ぐ! <薬績>!!)
他人の身体だと錬成イメージが掴みにくいとか、ためらっている場合ではない。
術の効力でじわじわと傷口がうごめき、なんとかイメージ通りに縫合していく。──とにかく、止血だけでも。
(間に合え……!)
祈るように心の中で叫んだとき、ぴくり、と老人の瞼が震えた。
「ラズ……殿」
「ルータスさん! 気を、しっかり持って!」
意識があるなら、助かるかもしれない。──助けたい!
「っピアニーは!?」
「お嬢様は……ここにはいません」
屋敷の中から、執事や侍女と思しき人々が走り出してきた。
火の回り具合の割に火傷が少ないのはファナ=ノアが何かしら支援してくれたのかもしれない。
その手首や足首に縄の痕があるのを見て戦慄した。──屋敷ごと焼き殺す気だったのか。
ディーズリーの家人を率いてきたらしい猿の面の男が、こちらを見下ろすように立つ。彼はたしか、ピアニーが雇った隠密の一人だ。
「……助かるのか」
「分からない……。外傷は塞いだけど、内臓までは治せないし……」
しかも、出血が多い。錬金術で血は作れない。
ディーズリーの人々の視線に気がついて、慌ててフードを目深にかぶる。
「ルータスさんの家族はいる? ええと……輸血……をしないと」
血を失い過ぎたときの対処は叔母から聞いている。
自信はないが嘆いても始まらない。できることをしなければ。
†
一時間後。
「……顔色が悪いぞ」
覗き込んでくる猿面の隠密に気弱な笑みを返して、ラズは後ろの壁に背中をつけ、そのままずるずると座り込んだ。
初老の従者はあれから気を失って、今も危険な状態が続いている。
そこは燃えた屋敷の二棟隣、ディーズリーの分家の客室だった。
「錬金術はそんなに体力を消耗するものなのか」
「……まあ、そう」
そもそも血が駄目だとか、輝石がないからだとか余計な説明は省き、ゆっくり息を吐く。
大まかな話は、治療している間に彼から聞いた。
しかし、軍務卿ブレイズ本人の状況や、軟禁されたらしいピアニーや、その仲間、憲兵隊がどう動くかは分からない。
「……<猿>はこれからどうするの」
「俺たちの仕事は情報を集めて主に届けることだが、鋼務卿の屋敷に捕らえられたとなるとそれも難しいな」
「そっか……なら、少しの間僕に雇われてくれないかな。警務卿や憲兵隊、ピアニーの仲間がどう動くのかとか……、街の人の動向、できれば領主側のことも知りたい」
「お前はどうするつもりだ?」
「鋼務卿の屋敷に行ってみる。ピアニーが助けを求めているかどうかは分からないけど、……ほっとけないし」
「──分かった。そちらには<犬>……俺の相棒がいるだろう」
抑揚のない口調でそれだけ言って、猿面の隠密は踵を返した。
あまり間を開けず、ラズも立ち上がる。──怪我人のことは、執事たちが診ていてくれるから大丈夫だろう。
「あの……お気をつけて」
おずおずと、侍女の女性が声をかけてくれた。確か、周りからティーヤと呼ばれていたような。
「ありがとう」
少し笑って礼を言い、ラズは再びフードをかぶり直した。
† † †
──領主城地下三階の独房。まさか自分がそこに入ることになるとは。
「ブレイズ様、申し訳ありません……」
看守が申し訳なさそうに遅めの昼食を持ってきた。
「状況はどうなっている?」
「明後日、審問を行う、と領主様からの伝達がありました」
「つまり丸二日ここで、ゆっくり茶でも飲んでいろと」
隣の牢で副官のゲイル=ディーズリーがため息をついた。彼はブレイズの右腕であり、憲兵隊の頭脳役でもある。
「こんな光の届かないところで飲む茶はまずくて飲めたものではないですがね」
「妻と娘は?」
城の一階の執務室に押しかけてきた軍務卿らは、ブレイズを大人しくさせるために、彼女らの安否は彼らの手の内にあるとほのめかした。
「鋼務卿の次男が身柄を引き受けているそうです。……それより、本家の屋敷が焼けたと。家人の抵抗にあってやむなく、とのことですが」
「…………」
ブレイズはさすがに絶句した。副官が代わりに質問する。
「市民の様子はどうです?」
「領主の発表内容に戸惑いが広がっています。まさかブレイズ様が裏切っていたなんて誰も信じたくないんでしょう」
「……まあそうだろうな。憲兵隊の大隊長、中隊長に、今日明日中にそれぞれここに面会にくるように手配はできるか?」
「それは難しいです……審問まで、看守以外誰も通すなと」
副官は険しい顔で腕を組む。そして固い声で続けた。
「なら大隊長の誰にでもいいので、『二大侯家の誓約を果たせ』とだけ伝えてくれますか?」
「……む」
ブレイズが微かに唸ったことに気づかず、看守は必死に首を縦に振った。
「は……、はい! 必ず」
看守が立ち去った後、ブレイズは天井を見上げてため息をついた。
「審問は明らかに不利ですね。例のこと、軍務卿殿にはバレているのでしょう?」
「ああ。しかし、あいつは秘密は守る男だ」
「私はそうは思いませんが……」
「いいや。あれは渋々話を合わせている時の顔だ!」
「……ブレイズ様の人の目を見るのが確かなら、どの大隊長が裏切ったか、もう分かっているんですか?」
副官は、『大隊長が裏切った』と予想しているらしかった。たしかに数日後の鉱山都市の武装組織に対するガサ入れを前にして、この動きはタイミングが良すぎると言えなくもない。
彼の厳しい目線に、呆れたように返す。
「あのなあ……。──誰も、裏切っちゃいないさ」
ブレイズは自分の部下たちを信頼している。
とはいえ、普通の隠密なら察知できるくらいの実力を持っているはずの大隊長たちが、うっかり漏らしたとも考えにくい。
「……ファナ=ノアについていった野盗は、怪物じみた特殊能力を持ってたっつーじゃねえか。最近はそういう変な話が増えてる。こっちの手の内を見通すような力を持つやつがいたとしても、不思議じゃねえ。それで味方に対して疑心暗鬼になっちゃあ思う壺だろうが──……それより、鋼務卿家はここから何を描いてると思う」
「申し上げにくいことですが。まずはブレイズ様を亡きものにしようとするでしょうね。徹底的にディーズリー家を潰して。そうすれば、実質的にエンデイズ家がこの領のトップです」
「クラディアスがそこまで考える……訳がねえな。あそこの長男──ビライシェンか」
「おそらく。いろいろとあることないこと、罪を被せて……鋼務卿の言うことは信じなくても、領主の言葉はまだ皆聞くでしょうから、不利だと思います」
「審問に出る自体、罠に嵌るだけか」
「しかし、仮に逃げても同じことでしょう」
「命があるだけましだろうよ」
「後は憲兵隊がどう動くか、ですね」
「それだ。てめえ、『二大侯家の誓約』なんぞ使いやがって」
したり顔で口の端を上げる副官を見て、ブレイズはため息をついた。
「さてと……暇だな。こう繋がれてちゃ、体が鈍る」
両手足にはまっている重い鎖はみるからに頑丈である。数ヶ月前、ファナ=ノアを拘束した鉄の手錠は、ラズが壊してしまったせいで新調したばかりだった。
「昔語でもしましょうか」
「だから、縁起でもないことを言うなと言っている」
副官はくっくと笑った。
日の光の届かない地下牢に、場違いな和やかな笑い声がその後もしばらくは続いた。




