42_お泊り3
そうして、翼が黙々と鍛錬に励む間にも、キッチンでは着々と料理が進められていた。
鍋の音、包丁のリズム、湯気に紛れるような小さな笑い声。
いつもとは違った和やかな雰囲気のまま、やがて料理が出そろう。
皿が並ぶテーブルには、普段よりも品数が増えている。
色とりどりの副菜に、丁寧に盛られた主菜、彩りに気を配った小鉢が並び、食卓は一気に華やいだ。
その料理を見下ろすようにアリアが腰に手を当て、どこか得意げに笑みを浮かべる。
「どうよ。いいお嫁さんになるでしょ、ワタシたち?」
「ああ、そうだな」
「凛乃ちゃんがデレた!?」
「デレてない」
あくまでさっぱり答える凛乃に、「ちえ~」とアリアが唇を尖らせる。
軽いやりとりが飛び交う空気のなかで、心桜も小さく微笑んだ。
緊張が緩むような、やさしいひととき。
と、その静けさを破るように、ふいに扉の向こうから声が届く。
「ごめん、待たせてしまって」
息をやや弾ませながら、汗を流して着替え終えた翼が遅れて合流してくる。
どこか申し訳なさそうに髪をかき上げながら、彼はそっとテーブルへと歩み寄った。
その姿を見たアリアが、すかさずちょいちょいと手招きする。
「小宮くん小宮くん。ちょっと動かないでくれる?」
「? うん」
言われるがまま、素直にアリアの傍で立ち止まる翼。
彼の前へとアリアが回り込み、じっと顔を覗き込んでくる。
そして、何の前触れもなく前髪へ手を伸ばした。
「な、何!?」
「はーい動かなーい」
思わず仰け反る翼の頭を、アリアがにんまりと笑いながらそっと押さえた。
その口調はどこか子どもをあやすような調子で、けれど逃がす意思はないように押さえ込まれる。
予想外の距離の近さに、翼の体は一瞬びくりと硬直する。
それでも抵抗しきれず、しばしの間、彼女のなすがままにされるしかなかった。
アリアは楽しそうに前髪をすくいあげ、指先を器用に動かしていく。
水を吸って垂れていた髪が額からどかされ、視界がひらけた瞬間。
「よし、完成~!」
満足げな声とともに、アリアが一歩下がる。
手を伸ばして前髪を触れば、そこには細いヘアゴムの感触があった。
どうやら軽く、上の方で髪を束ねているらしい。
「おおっ、さすがワタシの見立て通り! きゃわいいねぇ~!」
「うっ、かわいい、か……」
翼は視線を逸らし、どこか気まずそうに頬をかいた。
にこにこと、純粋に褒めているつもりのアリアだったが、その反応に少しだけ眉をひそめる。
どこからどう見ても翼の表情は浮かない。
唇をわずかに尖らせて、素直に受け取れない様子だった。
「そんな拗ねないの~! 楽でいいでしょ?」
「それは……そうだけど」
視界が開けて楽になったのは確かではある。
シャワーを浴びたあとの濡れた前髪が、重さで落ちてくることもなく快適で、地味にありがたい。
しかし、童顔だと揶揄され続けたコンプレックス気味な顔立ちを、ここまでさらけ出すのは、やはりどこか抵抗がある。
目の前のアリアが本心から褒めてくれているからこそ、どこか気恥ずかしい。
ただ周りを見渡してみれば、凛乃は特に興味がないようでこちらを見てもいなかった。
なら気にしているのは自分だけかとさらに視線を巡らせると――心桜と、ぱちりと目があう。
彼女が自分の顔を見ていたのが分かるが、続いて心桜はばつが悪そうに視線を逸らしてしまう。
その仕草があまりにも早くて、逆に印象に残った。
(なんだ?)
どこか気が動転しているような彼女の様子に、翼は小さく首をかしげた。
その様子を見ていたアリアが、にやにやと意味ありげな笑みを浮かべながら、ふいに問いかけてきた。
「そんなに可愛いって言われるの嫌なの?」
「多分男子で可愛いって言われて、喜ぶ人いないと思うよ」
「え~、でも良いじゃん。……ね、心桜ちゃん?」
「へっ、あのっ!?」
まさか自分に話が振られるとは思っていなかったのだろう。
心桜が急に声を上ずらせ、言葉に詰まる。
終始様子のおかしい彼女を見れば、頬がわずかに赤くなっているのが分かる。
落ち着かない手元と視線の泳ぎに、翼も心配になって声をかけた。
「どうしたの心桜さん?」
「い、いえ……なんでもっ! さあご飯を食べましょう!」
まだ少し上ずっている声を振り払うように、心桜はスタスタと食卓へ歩いていった。
動作こそ落ち着いて見えるが、その背中には微かに焦りの色が残っているようにも感じる。
そんな様子を見て、アリアが彼女へ笑いかけた。
「心桜ちゃんって結構可愛いもの好きだもんね~」
「じょ、女子ならみんな可愛いもの好きだと思いますがっ」
「そりゃそうだけどさ~」
アリアはそう言いながら、ちらりと翼を見やる。
その表情には、どこか楽しげな企みが混じっており、思いついたようにひょいと軽い調子で口を開く。
「あ、そのゴムあげる。今度から使ってよ」
「……わかった。ありがとう」
翼が素直に礼を言うと、小さく心桜の肩が跳ね、アリアがいたずらっぽく口元を緩めた。
「んふふ~。良かったね、心桜ちゃん」
「な、なんでわたしに言うんですか……」
心桜は思わず顔をそむけ、視線を逃がす。
どうにか話題を逸らしたがっている彼女の様子に、翼はどうしようかと迷う。
緩い空気の中なので聞くことを決心して、翼が話題を差し込んだ。
「みんな、髪留めには結構こだわりがあるのか?」
自然と髪留めについて聞けるタイミングができたので、最終確認のために尋ねてみる。
すると特に気に留めた様子もなくアリアが答える。
「ん~、毎日使うから正直なんでもいいかなぁ。凛乃ちゃんとか見るからに適当だし」
「使えれば何でもいい」
凛乃が迷いのない口調で続ける。
前々から教室でもアリアが小言を挟んでいたように、安物のヘアピンで無造作に留めているだけなのは、翼にも聞こえていた。
「わたしもシンプルなものですので、普段使うなら特にないですね」
心桜もまた、落ち着いた調子で返した。
確かに、彼女の白いリボンは制服と合わせて控えめである。
その揺れるリボンを目で追うことも過去にしばしばあった。
「まぁお気に入りはここぞって時にとっておくもんよ」
「そうなんだ」
アリアの一言から、確かにそうかと一息をつく翼。
なら特に問題なさそうだと、心の奥でひとつ軽く肩の荷が下りたような感覚があった。
「そろそろ飯にするぞ」
「おっ、そうだね。冷めちゃうともったいないし」
凛乃が急くように仕切ると、各々席に座る。
気持ちを切り替えて手を合わせるところで、アリアにビシっと指をさされる。
「あ、言い忘れてたけど小宮くん。それ、学校じゃ絶対やらないでね。絶対だよ?」
「わ、わかった」
その語気は冗談のようでいて、目は少しも笑っていない。
調子の違った鋭い視線を受けて、思わず背筋が伸び、翼は素直に頷くしかなかった。




