25_中間テスト
5月も終わりに差しかかるころ、湿気を帯びた重たい空気が、校内の隅々にまで染みわたっていた。
そう、学生の本分ともいえる、テスト期間がやってきたのだ。
入学直後の力量試しからしばらく経ち、今回は中間テストとして、高校生活の学びの成果を問われる節目となる。
前回は心桜に次いで2位だった翼。
中学時代は護衛対象と共にどんな高校にも入学できるよう勉学に励んでおり、確かな自信があった(それでも心桜に負けたが)。
ただ今回は、護衛の任務と日々の鍛錬によって削られた勉強時間が、一体どれほど影響しているのか気が気でない。
手応えも掴みきれず、胸の奥には漠然としたもやが残っている。
今日、成績を知るのが少しばかり怖いのも無理はないだろう。
そうして貼り出された順位表を前に、翼は小さく肩を落とした。
「さすがに、か」
その順位表にある、自分の名前の横に記された『5位』の数字を見て、思わず手に力がこもる。
前回よりも順位を落としたことは、誰の目にも明らかだった。
学校内でどれだけ机にかじりついていても、自分の力不足を思い知らされる結果だ。
ある種チートじみていた心桜との合同勉強は騒動によって途中でなくなり、襲撃のことやその他諸々の騒ぎもあってあまり勉強時間をとれなかった。
ただそんなことは言い訳に過ぎない。
少なくとも学校ではちゃんと勉学に向き合ったつもりだったからこそ、余計に悔しさが残る。
ぼんやりと貼り出された成績の一覧を眺めていると、1番上には心桜の名前が書かれており、点数差は歴然だった。
ちなみに上位一覧には凛乃の名前も載っており、さりげなく勉強までできるのかと感心する。
順位表を一通り見た上で、これから成績にどう向き合うかを考えていると、心桜が隣から声をかけてきた。
「翼くんはどうでしたか?」
「あんまりだったかな……それよりも1位おめでとう。さすがだよ」
「ありがとうございます。あ、でも翼くんもきちんと上位を保っていて立派ですよ」
「前回が2位だから落ちちゃったけどね」
「いえ、まともに勉強時間が取れない中でのこの結果は、むしろすごいことです」
心桜は翼の勉強事情の他、今までどういうことが起こっていたのかを全て把握しているので、本心から称えたいと思っているのだろう。
翼としてもそう評価してくれるのはありがたく思うが、心桜に教わった上で成績を落としてしまった事実には変わりないので、どうしても申し訳なさが募ってしまう。
「わざわざ心桜さんに教えてもらってたのに……本当にごめん」
ぽつりとこぼした翼の謝罪に、心桜は目を瞬かせたかと思うと、慌てたように両手を振る。
「あ、謝らないでくださいっ!」
わたわたと謝罪を否定する心桜の姿を見ても、翼の気持ちは晴れずうまく笑えてるかもわからない。
そんな翼に対して心桜がかける言葉を迷っていると、ある種異様な雰囲気の2人を見てか、アリアと凛乃も近寄ってきた。
「おお~ふたりとも上位ですっごいねぇ」
「……ありがとうございます」
「うん……」
「……なんでそんなにお通夜ムードなのん?」
「成績、落ちちゃったから。折角心桜さんに教えてもらったのに」
「でも上位なんだからそんなに落ち込むことなくない?」
「結果が伴わないなら、おれに割いてくれた心桜さんの時間に申し訳ないよ」
「いやいや、結果伴ってるでしょ……こわっ」
翼の悔恨が滲み出る言葉に、アリアは肩をすくめながら自分の体を抱き、冗談めかして震えてみせる。
すると、いつまでも引きずっている様子の翼を見かねた凛乃が静かに口を開いた。
「お前の本分は護衛なんだから仕方ないだろう」
「それはそう、だけど……」
凛乃の言葉は至極もっともだったが、それでも翼はすっきりしないままだ。
親身になって教えてくれる心桜に対して、結果を残せないのであれば、どんな理由を並べたところで結局は言い訳に過ぎない。
そう思うたび、自分の不誠実さがたまらなく嫌になる。
ましてや、これからも同じように教わるのだとしたら、なおさらこのままではいけない――そんな思いが翼の中で膨らんでいく一方だった。
納得のいかないままの翼の様子を見て、アリアが軽く眉を寄せながら聞いてくる。
「じゃあさ、他に削れそうな時間ってないの?」
「あるとしたら……睡眠、かな」
「まぁそうなるよね~」
軽く流すように返したアリアの言葉を、心桜の鋭い声が遮った。
「ダメです。あれだけ激しい鍛錬をしているならちゃんと体を休ませないと」
翼の体を心配したであろう心桜が即座に却下する。
そのあまりの真剣さに、他3人が呆気にとられたように目を瞬かせる。
次いでアリアが、「……へぇ~」と興味深そうに心桜をジロジロと見つめた。
「心桜ちゃん、小宮くんの鍛錬見たことあるんだ」
「……はい」
心桜は少し言い淀みながらも、静かに頷いた。
それ以上のことは語らず、代わりに柔らかな笑みを浮かべて、話をそっと終わらせる。
アリアも心桜の雰囲気で察したのか、「ふーん」とだけ言って、それ以上は突っ込まなかった。
心桜に見られたのは日々の鍛錬とはまた別の模擬戦だ。
日々の鍛錬も確かにハードではあるが、模擬戦は実戦志向なのでまた一線を画す。
とはいえ最も過激なシーンを見てしまった心桜が、翼の体を心配するのも無理はないと思う。
それにあんなやり方はアリアや凛乃に言いふらすものでもないので、心桜が伏せてくれるのは正直ありがたかった。
そんな微妙な空気が流れる中、ふいに凛乃が横から尋ねてくる。
「食事はどうしているんだ?」
「食事?」
翼が首をかしげると、アリアが合点がいったように口を挟んだ。
「あ~なるほど。小宮くんって朝昼晩、結構な量作ってるんでしょ?」
「確かにそうだけど、これも疎かには出来ないかな。ちゃんと栄養は考えてるし」
「あの真っ白弁当で?」
「……うん」
自分でもやりすぎている気がしているので弱弱しく返事をすれば、アリアには『うんってお前……』みたいな顔でドン引かれてしまう。
ただある程度の理解は示したのか、翼をフォローするように凛乃が冷静に話す。
「味と見た目はともかく、カロリーとたんぱく質という意味ではわかるがな」
「おれしか食べないから。あまり時間かけたくないし」
「あれ飽きないの? 全部味薄いでしょ」
「栄養摂取だと割り切ってれば……大丈夫」
「うへぇ、ようやりますわ」
「修行僧かお前」
先ほどまで擁護側だった凛乃も含め、2人からの容赦ないツッコミに、さすがの翼も少し顔を引きつらせる。
そんなやり取りを静かに聞いていた心桜が、小さく「なるほど……」とつぶやいた。
「それも鍛錬に必要なことなんですよね?」
「それはそうだけど……まさか」
「なら、わたしが作ります」
「さ、さすがにそれはいただけません!」
「……敬語」
心桜はぷいっとそっぽを向いて、むすっとした表情を浮かべた。
またやってしまった、と翼は内心頭を抱える。
焦るとつい敬語が出てしまい、その度に心桜の機嫌を損ねてしまうので、自分の学習能力のなさが恨めしい。
いい加減慣れなくてはと思いながら、口調を改めつつ心桜に言い返す。
「うっ、そこまでやってもらうのは」
「元々夜は作ってましたし、2人分にすればいいのでしょう? そこまで大変ではないです」
「……でも」
「あなたが鍛錬に時間を割いているのは、わたしのためでもあるんだから、わたしにもあなたのために時間を使わせてください」
すんなりと言い切る心桜を前に、翼はぐっと言葉を飲み込んだ。
一見理屈が通っているように見えて、やりすぎではないかと思えてならないのだ。
なおも反論しそうな翼を、心桜はそっと手のひらを掲げて制し、「それに」と言葉を続けた。
「わたしに報いたいというのであれば、最後までやり切るべきでは?」
その一言が、翼の思考を真っ白に染める。
罪悪感を的確に射貫かれてしまえば、もはや頷くことしかできなかった。
「……うん……」
ただそれだけを絞り出すと、心桜はふっと微笑んだ。
「一緒に、頑張りましょうね?」
――そう言って浮かべられた微笑みは、あまりにも穏やかで、あまりにも美しかった。
心桜に見惚れるように思考が止まり、完全に主導権を奪われ、ぐうの音も出ない。
そうやって翼が何も言い返さずにいると、横でアリアがニヤニヤと面白そうにこちらを見ていた。
「心桜ちゃん相手だと形無しだねぇ」
図星を突かれた翼は、動揺を隠せずに顔を真っ赤にする。
まるで子供をあやすかのような和やかな空気に包まれて、思わず身をよじりたくなる。
そんな彼の内心も知らずに、心桜は顎に指を添え、ひとつ提案を口にした。
「では昼も教室で食べるようにお弁当を用意して、勉強時間を増やしましょうか」
しれっと条件を上乗せされ、翼には唖然とする間もない。
さらには心桜が『何か問題でも?』とでも言いたげに、にこりと微笑みかけてくる。
ここまで来てもう抵抗する気力なんて残っておらず、翼は観念したように素直に首を縦に振った。
「わかったよ……」
「よろしい」
ふふ、と綺麗でいてどこか楽しげに笑う心桜に、翼はまたも目を奪われる。
ここまでの慈しみを受けて、動じない人間などいないだろう。
それが学園一の美少女と謳われるほどの容姿を持ち、さらに立場の垣根を超えて優しさを向けてくれる主人なのだから、なおさらだ。
こんな日々が続いてしまったら、自分はおかしくなってしまうのではないか――身震いするような怖さすら、翼は感じていた。
そんなふたりの空気を眺めていたアリアが、呟くように凛乃へ声をかける。
「……凛乃ちゃん、ワタシもお弁当作ってきていい?」
「急にどうした?」
「いやぁ新米カッピーを見ててさぁ……熟年であるワタシの嫁気質に火がついたといいますか」
「お前、前に気分でやめたんじゃなかったのか?」
「今はそういう気分なのっ!」
「……好きにしてくれ」
凛乃は面倒くさそうにため息まじりでそう呟き、アリアはにんまりと満足げに笑みを浮かべた。




