第5章ー27
このような苦悩をしつつ、岸総司大尉は指揮下の海兵中隊を率いて、モスクワ市街を制圧していかねばならなかった。
そして、そのような苦悩をしながら戦うのは、岸大尉のいる日本海兵隊のみならず、日本陸軍や米陸軍、英軍やポーランド軍、また他の中小国の軍等も同様だった。
(流石にこの頃となると、かつては完全に独ソ寄りの中立国と言えたハンガリーでさえ、第二次世界大戦後のことを考えて、米英仏日等の連合国の主要国軍に寄り添うような行動を執るようになっていた。
そのために、ハンガリー軍も、1個師団がモスクワ市街で戦っている。
他のいわゆる中小国、ユーゴスラヴィアやブルガリア等も、同様の行動を取り、モスクワ市街で戦った。
だが、彼らは士気が低く、また、装備も旧式等で劣悪なことが多かった。
そのために、連合国軍の被害が、モスクワ市街を巡る攻防戦で、増大したのも事実だった)
このモスクワ市街を巡る死闘は、最終的に8月下旬まで掛かることになった。
7月末に、モスクワは完全に包囲され、陸路(及び内陸水路)からの補給は途絶する有様となっていたが。
予め、モスクワ防衛のために大量の武器弾薬が蓄えられていたことが、モスクワ防衛軍の奮闘を可能にすることになった。
だが、文字通り1メートルずつ確実に制圧を進めていく質量共に優勢な連合国軍の攻撃の前では、ジューコフ将軍が、幾ら優秀な将帥であっても、補給が途絶したモスクワを護り抜くことは不可能な話だった。
最終的にモスクワ市街を巡る戦いでは、連合国軍が50万人近い将兵を死傷させ、ソ連側の死者数は最も少ない推定数でも100万人は超えるという、第二次世界大戦の末期戦を語るに相応しいとしか言いようが無い惨状を呈した末に、モスクワが陥落すると言う悲劇で終わることになる。
(なお、推定になるのは、既述のように多くのソ連軍将兵、モスクワ市民が、連合国軍の水攻めにより、地下で溺死したことが大きい。
彼らの遺体の多くが、回収不能どころか、数えることさえも不可能となったのだ)
そして、ジューコフ将軍は。
これまでの勇戦敢闘を称えて、もし、連合国軍に投降するならば、それなりに礼遇する、という連合国軍最高司令官のアイゼンハワー将軍の親書による投降勧告に対し、
「アイゼンハワー将軍閣下の投降勧告を私が受け入れることは、私を信じて戦って亡くなった多くのソ連軍の将兵、また、同様に戦って亡くなったモスクワ市民に対する裏切り行為に他ならない」
そう語った後、
「自分と共に死にたい者だけ、付いてこい。連合国軍に投降したい者は投降せよ」
そう最後の命令を下して、モスクワの市街戦で半ば一兵士として戦死していった。
このジューコフ将軍の最期の行動に対しては、一部の歴史家から、
「気持ちは分かるが、最期の行動の際には、一人で自決して、死ぬべきだったのではないか」
という疑問の声があるが。
連合国軍に投降して、ジューコフ将軍の最期の肉声を伝えたソ連軍士官複数が、
「あの時の司令部の雰囲気は、半ば異様なものとなっていて、ジューコフ将軍が一人で死ぬ、と言ったら、その場にいた全員が、自分もお供して死にます、と言わないといけないような雰囲気、状況だった。だからこそ、ジューコフ将軍は、あのような言葉を遺したのだと思う。実際、その最後の命令のお陰で、自分達はジューコフ将軍の言葉を贖宥状にし、連合国軍への投降という決断ができたのだ」
と証言している。
それを想い合わせれば、ジューコフ将軍の最期の行動も、ある意味、当然の行動だったのかもしれない。
ともかく、その最期から、21世紀になっても、ロシア人の間でジューコフ将軍の人気は極めて高いものがある。
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